面白いな
鍋の蓋を開けた時、湯気で眼鏡が曇った。視野が急にぼやけるので、僕はいつも焦る。それに気を取られた瞬間、鍋掴みが大きくて感覚が浅い分、簡単に蓋を落としそうになる。鍋を覗き込むと、穀物の甘い香りが上ってくる。粒が一つずつ、際立ち光る。
「ご飯って、すごいなー」僕は、鍋の中に日の出が現れるかのごとく、覗き込む。炊き立ての米は美しい。濡らしたしゃもじをご飯の中に入れると、米の柔らかさが手に伝わってくる。僕は、今、毎日、鍋でご飯を炊くことを楽しみにしている。
最初は、失敗の連続だった。先ず、水盛りがわからない。説明は読んだが、直ぐに信じたくなかった。なぜなら、僕は、指示通りが酷く嫌いなのだ。その為、つい、自分流で目盛りを増やす。それが、原因で、暫くは、御粥を食べていた。いや、御粥を軽く見てはいけない。鍋で炊いたお粥は、米の甘味に嫌みもなく、味が良い。失敗は残念だが、結果は良いという面白い展開だった。
何日も、御粥の日が続いた。粥飯も美味しいけれど、やはり、ご飯を食べたい。その思いが募り、僕は、水盛を少しずつ減らした。水量を減らし続けて三回目を過ぎたころから、水を少なくしても、米は焦げないことに気付いた。僕は、失敗に憶病になっていたのだ。結局、レシピ通りが一番調度良かった。蓋を途中で開けても、ちょっぴり固めになるだけだと安心もした。僕は、改めて、レシピの提示する数字の正確さに感心した。
そして、ご飯は、ようやく食卓に上った。一口食べると、僕が唸った。飯を頬張り続ける時、その旨さの為に、動物的な僕と平常の心が分離するようにさえ思えた。
暫く経つと、ご飯を炊く際の、台所での動きに無駄が無くなった。途中でかき混ぜる為のしゃもじの準備や、出来上がりの時に使う鍋掴みと鍋敷きを用意するのさえも、作業の流れの一つに入った。僕は、以前に観た禅寺の番組を思い出していた。修行僧が竈門で食事を作る姿が特に好きだった。
禅寺の僧と僕との差は、次第に明らかになった。僕は自信満々になり、何度も油断した。それは、小指一本に突っつかれて、三メートル先へ吹っ飛ばされて倒れ込むくらいの惨敗だった。自分への甘さが、どんなふうに忍び寄るかを知った。ご飯を炊くという作業の中では、タイマーは重大な役割を果たす。美味しいご飯づくりに慣れてきた僕は、弱火での炊き込み、蒸らし、蓋閉めや火を止めた後、時間を測るのを思いっきり忘れた。そして、その間違いに気付くのも遅かった。
今日も、僕は、ご飯を炊くだろう。それは、自分の修行の一つだと思う。あったかい、艶のある米粒たちを箸に取り上げる時、僕は心から微笑むだろうか。自分に節度と感謝があるだろうか。
ゲームの友達と僕は、映画やアニメについて話したりする。
「今、キャンプ動画に夢中なんだ」とその友達が言った。
「ご飯とか、炊くの?」と僕が訊いた。
「うん、飯盒でね、自分でもやってみたよ」
チャットの文字から、楽しさがわかった。それは、道端の石ころを拾いあげるくらいの些細な会話だった。でも、僕のご飯を鍋で炊くきっかけになった。