沈黙のパートナー
先日、私の4年間が幕を閉じました
50歳の彼女と、41歳の彼。ふたりはマッチングアプリで出会った。
初めは文字だけのやり取りが半年ほど続いた。
「私は恋人が欲しいんじゃないの。パートナーとして、お互いを支え合える人を探してるの」
彼女は一度目の結婚を経験して、支えあえる相手の大切さを実感していた。
彼は「うん、わかるよ。そういう関係が理想だね」と答えた。
会わないままに続く文章での会話。ふとしたことで気づく二人の一致点。それはとても心地の良い時間だった。
そして、会って食事をとろうとなるのはとても自然の流れだった。長い間のやりとりのせいか、昔から知っているかのように楽しい時間だった。
やがて彼は彼女の家を訪れるようになった。少し面はゆい関係がしばらく続いた。
ある夜、帰り際に彼はふいに彼女にキスをした。
言葉はなかった。けれど、それがふたりの交際の始まりだった。
---
彼を玄関から見送る時、彼女はいつも訊ねた。
「来週の土曜、どうする?」
「来週?シフト入ってないと思うから大丈夫だと思うよ」
そう彼女が訊かない限り、彼は予定を立てようとはしなかった。チケットも、ランチの店も、彼女が用意する。
「たまにはそっちから言ってくれてもいいのに」
彼女はそう思いながらも、次第に何も言わなくなった。
彼が予定を立てるとしたらいつも会う日の前日だった。当然、行こうと思ってもチケットやお店の予約も取れないことが多かった。
それでも、二人で予定を立てていろいろな場所に行った。美術館、博物館、動物園にビールフェス。
出かけた後、一緒に買い物をして彼女の家で食事をするのがお決まりだった。一緒に食事を作り、テレビを見ながら楽しく食事をした。いつのまにか、彼女の家には、彼のルームシューズと箸がそろえられていた。
しかし…彼は決して彼女の家に泊まることはなかった。
もしかして結婚してるの?彼女が疑念を持つのも不思議ではなかった。
さらに、彼が彼女を自宅に招くことも、彼が住んでいる地域に招くことさえなかった。
「なんで私を呼んでくれないの?」
「……部屋が散らかっててさ。それに大学のとき勝手に合鍵作られたことがあって……ズルズルした付き合いは避けたいんだ」
彼女は「フェアじゃない」と感じた。しかし、彼に無理強いすると「嫌われるんじゃないか」と思われて、彼女は次第に何も言えなくなってしまった。
---
二人は年齢差を気にすることなく心地よい関係を続け、気が付けば2年が経っていた。
旅行にも行き、星空を眺めたりもした。
しかし、彼が彼女の家に泊まることはなく、彼の家に招待することは一度もなかった。
これまでと同じように、週末に会って彼女の家で食事をして帰る。そんな日々が続いた。
彼女は、彼の発する言葉から将来を考えたものが感じられなかった。しかし、彼女は彼を信じたかった。
そろそろ3年目となる時に、彼女は言った。
「そろそろ一緒に住まない?」
「うん、いいよ」
しかし…それきり彼からその話が出ることはなかった。
1ヶ月後、彼女がもう一度訊ねたが、彼ははっきりとは何も答えなった。
「生活スタイルが違うから、無理かもしれない」
その日の夜、彼女は彼からLINEでそう告げられた。
「……それなら、どうしたいの?」
彼女は彼の考えが知りたかった。生活スタイルが違うのなら、なおさら互いの家に泊まるなどして理解を深めるべきでなかいのかと強く思った。
彼は答えを持たなかった。ただ「考える」と言った。
繰り返される彼からの同じ言葉。
「私は答えを求めているわけではないの。あなたと考えていきたいの。あなたの場合、“思ってる”だけで“考えて”はいないよ」
彼女の言葉は静かだったが、鋭かった。
---
ある日、彼女は言った。
「もうこのままなんだね。私、婚活するね」
彼は冗談だと思った。翌週も、いつものように彼女に週末の予定を連絡した。
「婚活するって言ってる人に、会おうとするのはどういうこと?」
二人は3年の交際の間に通話で話したことはなかった。しかし、この時、彼女は通話で問いかけた。
「……すぐにってわけじゃないと思ったからさ」
長い通話の末、彼女は言った。
「あなたは、何も決めない。話し合おうとしても、いつも“考える”って言うだけ」
---
そして起きたのが、ライブのキャンセル事件だった。
「行けそうにないんだ。テンションが低くて……俺が行ったら、キミも楽しめないだろうから」
ライブ1週間前、10万円分のチケットが無駄になった。数か月前から予定して、やっと入手したチケットだった。
彼女はテーブルの上のチケットを見つめた。涙は出なかったが、深く息を吐くしかなった。
「自分が行きたくない理由を、私のせいにしないで」
「ごめん。謝る」
「謝罪は受け取る。でも、許せない」
彼女はそれ以上、その件には触れなかった。
そして、彼は1週間、音信不通になった。
---
その後も、4年目に突入するまで関係は続いた。大晦日に彼が泊まったことだけが変化だった。
そして、ある舞台の帰り道、2kmの道を歩きながら彼女は言った。
「半年たって、何も変わらない。あなたが私と向き合う気がないこと、理解した」
彼は黙っていた。
最近の彼女からのLINEの対応が変わってきていることには気づいてはいた。しかし、ここで言われるとは想像もしていなかった。何の答えも用意していなかった。
「何か言わないの?」
彼は口を開こうにも、話す言葉を持っていなかった。彼女が何も言わなくなったことで、安心しきっていた。何を言うのが正解なのかもわからなくなっていた。
そんな彼を横にして歩きながら、彼女の心は寂寥感に包まれていた。
「……何だったんだろうね、この4年間」
ようやく彼が口を開いた。
「前の結婚のトラウマがさ……。そんなこと、あるだろ?」
「同じ人と結婚するわけじゃないんだから、私には関係ない」
「……そうだけどさ(笑)」
「それ、最初からその気がなかったって言ってるようなものだよ。言葉には気をつけて」
土曜の昼下がり、多くの人が行きかう新宿駅。ここ数日暖かかったのにもかかわらず、その日は風が冷たかった。
駅の改札前で、彼女は言った。
「4年間、ありがとうございました」
3度、そう繰り返した。
彼は黙っていた。彼女が改札に入る。振り返り、手を振る。彼は小さく手を振り返した。
それが、最後だった。
---
数週間後、彼からLINEが来た。
「こんばんは。明日時間取れますでしょうか」
それは、いつになく丁寧な文章だった。
「どういったお話でしょうか?」
「今後のことです」
彼女は答えた。
「今さら“今後のこと”って、よく言えるよね」
「キミが心を痛めてるのは分かってる。俺が前に進んでないことも、自分でわかってる」
彼はわかっていた。彼女が変化を求めていることも、自分が動けないでいることも。しかし、この言葉は彼女にとっては彼の保身にしか聞こえなかった。
「“わかってる”って、便利な言葉だよね」
彼女は彼の不誠実な態度に疲れ切ってしまっていた。
「こんな会話さんざん繰り返してきたよね。まだ必要なの?」
「……必要ないですね」
「“トラウマ”なんだから、無理して連絡してこない方がいいんじゃない?そっちのためにも、私のためにもね」
その数分後、彼は彼女をブロックした。
---
前を見て、一歩を踏み出した彼女。
後ろを見つめたまま、立ち尽くす彼。
二人の沈黙の間に、季節が変わり、風景も変わっていった。
残されたのは、彼女の背中と、彼の埋まらない沈黙だけだった。