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1 大天使

 1945年8月15日水曜日正午

 

 この日、1937年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争及び、1941年12月8日の真珠湾攻撃により開戦した一連の対連合国戦、いわゆる太平洋戦争の終結が宣言された。

 

 国民がラジオの前で頭を垂れて玉音放送を聴いている光景は、これまで何度となく教科書に写真が載り、メディアに取り上げられ、日本国民であれば誰もが知るものとなっている。

 

 日本は敗戦国となり、GHQの支配下に置かれ様々な法整備がなされた。

 

 時代が移り、現代の世からその歴史を見てみれば、アメリカが行った民主主義政策のうち、上手くいったのは日本くらいのものだと有識者たちは言う。

 当時の日本国民は、プライドを持っていては生きられぬほどの敗北感と貧困に苦しんでいたのだろう。

 

 人口の多い都市部では、その民主主義政策の影響で様々な混乱が発生したことであろうが、都市部から遠く離れた農村では、もちろん凄惨な戦争の爪痕が散見されたであろうが、戦争が終わったから、政治のやり方が変わったからといって、その生活様式には大きな変化はなかったと聞き及んでいる。

 

 いや、農村での生活はもっと昔。

 明治初期頃から余り変化することなく営まれ続けていた。

 つまり、太平洋戦争よりもはるか昔から、大変な暮らしを送ってきていたということなのだろう。

 

 ここ宮崎県国富町木脇も例外ではなく、そこにはただこの地に生きる人々の、昨日と変わらない暮らしがあった。




 1945年9月5日水曜日

 その日は昼から大雨となった。


 女が一人山道を歩いている。

 近所の畑仕事を手伝った帰りで、絞りの腰巻きにジュバンという野良着のいでたちだ。履いている草履はとっくに泥まみれになっていた。申し訳程度に頭に被った手拭いも、もはや雨避けにはなっていなかった。


 この山道の先に自宅としている小屋がある。

 女は生まれついて心臓が弱く、長時間の肉体労働はできない体だった。

 今日は世話になっている農家夫婦の畑仕事を手伝うため、少し無理をして労働に従事した。

 

 「ちょっと無理しすぎたな、気分悪いや」


 フラフラとした足取りで大雨の中、傘もささずに歩いた。

 帰ったらお風呂に入ろう。

 水を風呂釜に溜めて炊きもん(薪)に火をつけて湯を沸かして・・・洗濯は明日頑張ればいいや

 

 そうぼうっと思いながら小さな祠の前を通り過ぎた時、左の視界の端に何やら黒い塊を捉えた。

 

 猪かと思い体をびくつかせて咄嗟に黒い塊から1〜2歩距離を取った。

 距離を取ってよくよく見てみると、黒いそれは道に倒れ込んで荒く息をしている人間だった。

 軍服(防暑衣)を着ていて、背中には大きなリュックを背負っている。

 

 ──わ。兵隊さんや

 

 「あ、あの!どうされましたか?」

 

 雨が容赦なく降り注いでいる。雨音に負けないよう女は意識して大きな声を出して聞いたつもりだったが男は反応を示さない。

 

 「あの!」

 ともう一度女は男に近づいて声をかけたところで、男の異様な様子に気付いた。苦しそうな表情で顔が少し紅潮している。

 

 ──もしかしてこれって

 と思い男の首元に触れてみると、疑いようがない程しっかりと熱発していた。

 

 「大変じゃ。待っちょってください!」

 

 そう言うと女はその場を走って去った。

 10分ほどかかって戻ってきた女は手押しのリアカーを引っ張っていた。

 男の横にリアカーをつけて、男の荷物をリアカーに積む。次に

 

 「立てますか?肩につかまってください」

 

 と声をかけながら男をリアカーに載せた。

 ぐったりとしている男の体は重かったが、なんとか荷台に載せ終わると急いでリアカーの進行方向を180度変えて女は自宅に向かって進み出した。


◇◇◇


 9月8日土曜日

 男は目を覚ました。

 

 見慣れない天井

 使い慣れない寝具

 なんだか懐かしい匂い。 

 

 ここはどこだ

 

 と思いゆっくりと上体を起こした。

 

 布団を敷いて今まで横になっていたのは6畳ほどの居間。

 居間は一段高くなっていて、目の前には土間と炊事場を兼ねたスペースが広がっている。炊事場から居間に上がってすぐのところにには囲炉裏がある。

 

 居間を見渡すと、部屋の隅にもう一人分の布団が畳んであり、簡素な作りのこの家にはもう一人住人がいることは明らかだった。

 そしてそのもう一人はおそらくここの家主で、どうやら出かけていて留守のようだ。

 

 布団の置いてある壁には男の着ていた軍服がハンガーにかけてある。

 男はその軍服と近くに置いてあるリュックを見て、なんだか心がモヤッとした。

 

 ──この軍服は、一体誰のものなんだろう

 

 そう思っていると

 

 「あ」

 

 という声と共に炊事場右手にある入り口(この家の出入り口はそこだけなので玄関と言って差し支えないだろう)に見知らぬ女性が竹編みのしょけ(広口の籠)を持って立っていた。手拭いを被っており顔は確認できない。

 

 「目、覚めたんですね。よかったぁ」

 

 流し台にしょけを置いて女が続ける。

 

 「兵隊さん、3日も寝ちょったんですよ。起きないんじゃないかって心配してました」

 

 おそらく山菜か何かを取ってきたのだろう、男に背中を向けて女は何やら作業を始めた。

 

 「あの、お世話になったのは雰囲気からなんとなくわかるのですが、ここは一体どこなんですか?」

 

 男は女の背中に聞いた。

 

 「木脇です」

 

 「え?きわき・・・あ、地名ですか?初めて聞きました。県は?」

 

 「宮崎県です。宮崎県国富町木脇」

 

 「み・・・宮崎県・・・」

 

 「はい。兵隊さん、3日前の雨の日にすぐそこの祠のところに倒れちょったんですよ。ひどい熱を出しちょったかい、うちに運んだんです」

 

 女はずっと流し台に向かいながら会話をしている。

 

 「・・・それは、お世話になりまして。申し訳ありません」

 

 男が頭を下げると、自分が真新しいジュバンを着ていることに気付いた。

 

 「あの、これもしかして・・・」

 

 女はちらっと男の方を見て

 

 「ああ、それは田代さんから借りました。うちには私の分の着物しかなかったから・・・

 あの・・・その・・・寝汗もひどかったかい、着替えはさせてもらいました・・・」

 

 気恥ずかしそうにそう言った。

 

 「ああ、これは。何から何まで。重ねがさね申し訳ありません」

 

 「いえ、謝らんでください。半ば私が勝手にしたことじゃかい」

 

 すると、男も女も黙ってしまい、家の外で鳴いている鳥の囀りが聞こえた。

 

 開けはなした入口の戸から土間を抜けて、男の居る居間までふっとそよかぜが吹いてくる。

 

 まだ夏の湿度を感じるが吹いてくる風が山の空気を纏ってなんとも爽やかに吹き抜けていく。

 

 鳥の囀り、土間を抜けるそよかぜ、炊事場の女。

 

 ごくありふれた風景が、男に胸に突き刺さるほどの衝撃を与えながら、一切波を立てることなく染み込んできた。

 

 「ええっと。お腹空いてるでしょ?何か食べましょう!」

 

 女が無理に声を発して沈黙の時間は終わった。

 

 「今朝、田代さんからお米を分けてもらったんですよ。それで早速炊いて食べようと思って、火にかけちょったんです」

 

 ああ、懐かしい匂いは飯の炊ける匂いか

 

 と男は炊事場の窯から立ち上る湯気を見て思った。すると、急に空腹感が襲ってきた。

 

 「セントウソウとギボウシが取れたかい、ちょっと待っちょってください」

 

 女はそう言うと竈門から手早く囲炉裏に火をうつし、食事の支度を進めた。

 

 「ブタクサはもう終わりじゃね。取れたらよかったっちゃけど」

 

 等と言いながらあっと言う間に囲炉裏淵の木枠に椀が並べられた。

 

 「兵隊さん、こっち来て食べてください。起きれますか?」

 

 気忙しく動きながら女が男に聞く。

 

 「ああ。すみません」

 

 男は寝床から起き上がり囲炉裏に近づいた。

 

 白ごはん

 ギボウシのみそ汁

 セントウソウの油炒め

 漬物


 「さ。どうぞ」

 

 女から差し出された箸を受け取り、男はみそ汁の椀を取り一口飲んだ。


 「はあああああ。うまい!」


 考えるより先に、声が漏れ出てしまった。

 

 「すみません!変な声が出てしまいました」

 

 男は慌てて女に謝罪した。

 

 女は囲炉裏の前の炊事場から居間に上がる踏み段に腰掛けて男の様子を伺っていた。

 

 「いえいえ、よかった。お口に合ったみたいで」

 

 と言って被っていた手拭いを取った。

 

 女が笑顔を見せたその瞬間男は女と目が合った。


 「あ」


 女の顔には左額から右顎にかけて斜めに1本の大きな傷があった。


 女は急に立ち上がって男に背中を向け

 

 「あああ、あのごめんなさい。食事中に気色悪いもん見せてしもて・・・」

 

 と持っていた手拭いを慌てて顔に押し当てた。

 

 「いいえ、気色悪いだなんて少しも思いませんよ。驚きはしましたが。その、どうされたんですか?その傷は」

 

 「3月の空襲ん時に負いました。流れ弾か瓦礫が弾き飛んできたかで。気付いたらこうなっちょって。手当もろくにせんかったからやと思います。痛みはもうないんですが、治りが悪くて・・・」 

 

 「・・・そうだったんですね。あの、良ければその・・・もう一度見せていただけませんか?」

 

 「い・・・いやです。飯が不味くなりますから」

 

 「なりません。見せてください」

 

 男が静かにそう言うと女はまた踏み段に腰掛けた。そしてゆっくりと男の方に振り返った。男はじっと女の顔を見つめた。女は囲炉裏の炭を見て、男と目線が合わないようにした。

 

 「やっぱりそうだ」

 

 男がそういうと女は男を見た。

 

 「寝ていた時、夢を見ていたんです。体の動かない僕のことを優しく介抱してくれた女の方がいた。美しい方で、僕は天使様が舞い降りてこられたのだと思いました。

 あれは夢ではなかったのですね」

 

 「ゆゆゆ夢ですよそれは。私は顔に傷のある不細工です。その・・・そんなに見らんでください。恥ずかしいです」

 

 真っ直ぐに見つめる男の視線に耐えきれず、女は横を向いてしまった。

 

 男もようやく女性に対して面と向かってキザなことを言ったことに気づき、赤面して俯いてしまった。

 

 「すみませんでした。とんでもないことを言ってしまいました。

 

 あの、その・・・お名前を伺ってもいいですか?」

 

 そう聞かれると女は立ち上がって流し台の方に向かって歩いて行き、男に背を向けたまま

 

 「名前は・・・ありません。捨てました」

 

 と答えた。

 なぜか男は、そう答えた女の背中を見て、この女の過去には踏み入ってはいけないと感じた。

 

 「では、ミカさんと呼んでもいいですか?」

 

 女は振り返って男を見た。

 「ミカ?」

 

 「はい。大天使にミカエルという方がおられると言います。お名前がないのであれば、ミカエル様からお名前を拝借して、ミカさんと。・・・僕が勝手にそう呼ぶだけです。あなたが名乗る必要はありません。固有名詞がないと、なんだか気持ちが伝わらない気がして」

 

 「はあ。別に構いませんけど・・・」

 

 「よかった。ミカさん。このご飯、本当に美味しいです!こんな美味しいもの食べさせていただいて、ありがとうございます!」

 男はしっかりとした口調で食事のお礼をミカに伝えた。そしてまたみそ汁を飲み

 

 「うん、うまい!」

 

 と言って白ごはん、油炒めも頬張った。

 

 「そんな大したことはしてないですよ。みそ汁はいりこで出汁取っただけだし、その辺の山菜を炒めただけです。白ごはんは今日だけですよ。普段は麦飯かからいもばかりだし」

 

 ミカの言うことはあまり聞いていないように、その後も男はうまいうまいと言って食事を終えた。

 

 「ふう。ごちそうさまでした。

 ミカさん、何かお礼をさせていただきたいのですが。あいにくお金は持ち合わせていないくて・・・」

 

 ミカは空になった椀を流しに運んで 

 

 「それじゃあ」

 

 と言って男のほうに振り返って告げた。


 「ここで一緒に暮らしてください」



参考文献

鉱脈社 阿万鯱人作品集第2分冊第四巻「戦争と人間」

鉱脈社  宮崎の山菜 滝一郎の山野草教室 滝一郎著

国富町、国富町老人クラブ連合会、国富町農業改良普及所 土とともに生きた人々の生活誌「いろりばた」

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この時代を描いた意欲作は、大好きです! 戦前、戦中、戦後、、、。その地その時を必死に生きた人々の描写が、とにかく力強くそして儚く描ける時代なので。 私も先生のこの作品に近しい時代の「ゲンの拳骨」という…
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