観客のいないスケートリンク
雪の降る夜のオフィス街。街路樹には無数のホワイト・イルミネーションが灯り、大きな氷の彫像に反射して、きらきらと輝いている。足早に家路を急ぐサラリーマンやOLの姿に混じって、若いカップルや観光に訪れた家族連れが通りを行き交い、街はこの上なく賑っていた。
あれは恭子と二人で、新エデン教会主催のイベント「音楽とフィギュアスケートの祭典」に参加した十七歳のときのこと。札幌の街は「雪祭り」の真最中だった。会場の控室で知り合ったひとりの少年の夢を叶えるため、イベントが終わったあとの誰もいないスケートリンクで恭子と一緒に滑った夜のこと。
観客が去り、がらんとしたスケートリンクには、その静けさとは裏腹に、先ほどまでその場所で演技していた選手たちの残像と余韻が残されていた。
その最後の演技は、恭司と恭子の所属するスケート教室の卒業生であり、先輩に当たる、森田明美選手が演じた《ストラヴィンスキーの『火の鳥』のテーマ》だった。森田選手はその時点で女子シングル優勝候補の一番手だった――目映いばかりのスポットライトに照らされて、彼女の艶やかな緋色のコスチュームに施された金色の刺繍がきらきらと輝いている。
演技が始まった。緊迫した一瞬の静寂。僅かな静止のあと、霊感に満ちたティンパニーの音と共に豊かな表現力で彼女の長くたおやかな腕が、さっと伸び、凶悪な魔女に豹変する。飛び跳ねるようにして滑り出し、『火の鳥』のダイナミックで原始的な調べに乗り、速さを増してゆく。巧みなバックワード・クロスロールでスピードに乗り、コーナーを回ると、序盤早々、鮮烈なトリプル・アクセルを跳び切って観衆の度肝を抜いた。自信を深め、つづくトリプル・トウループからのコンビネーション・ジャンプも成功させる。順調な滑り出しだ。
そのあとも彼女はぐんぐんと集中力を高めてゆき、スピードと高さのあるクォリティの高いジャンプを次々と成功させた。技と技の繋ぎの要素も入念で、手の表情はまるで火の精が乗り移っているかのよう。つづくスピンのパートでは、情念の炎のような表現力豊かなレイバック・スピンを披露し、ポジショニングの正確さと回転の速さをアピールした。芸術性と高い運動能力とが高次元で調和していた。
『火の鳥』は炎の微睡の中から蘇り、自信に満ち溢れた表情で、また舞い立つ。彼女の高々と栄光に満ちたスパイラル・シークエンスが美しい滑走図形を描く。ダイナミックな三連続のバタフライ・ジャンプからのフライング・シット・スピン。躍動感のある複雑なサーペンタイン・ステップ。もっと速く! もっと華麗に!
観衆は固唾を呑み、彼女の世界に陶酔していた。その日最後のジャンプ要素であるルッツを跳ぶためのアプローチに入ってゆく。観衆の誰もが彼女の優勝を信じた次の瞬間だった。
タイミングが合わず、軸が歪んだ状態で降りてきた彼女は、着氷に失敗し、無理な体勢で踏ん張ろうとしたため、右足首を強く捻って転倒してしまった。完成された芸術作品が氷上に砕け散った瞬間だった。
恭司は血の気が引いた。『あの降り方ではもう駄目だ……』
彼女はそれでも起き上がって演技を続けようとした。だがよろめいて足首を押さえ、苦痛に顔を歪め、ついに立ち上がれなかった。
そのときすでに彼女はわかっていたに違いない。この怪我で来月の世界選手権には、自分はもう出場できないということを……。
彼女はその日のためにどれほど練習したことだろう。晴れ舞台に立つ日の自分を夢見て、来る日も、来る日も、毎日厳しい練習に耐えたに違いない。その研鑽が一瞬にして崩れ去るなんて。
フェンスを越えて駆け寄ったコーチが、彼女の肩にウインドブレイカーを着せ、抱きかかえたとき彼女は泣いていた。気持ちが伝わってくる。『お願い、私を見ないで! ライトを消して! 誰か私を早く別の部屋に連れて行ってちょうだい!』
*
転倒し、怪我をした森田明美選手は、ドクターの診断によると右足首の腫れと痛みがひどく重度の捻挫であるため、病院での精密検査が必要だった。三月に行なわれる世界選手権に出場することは、ほぼ絶望的な状態だった。
彼女の小学校三年生になる弟も心を痛めている様子だった。が、控室に会いに行ったときには、すでに落ち着きを取り戻していた。
「お姉ちゃん。世界選手権出られるかなあ?」
「今回は無理みたいね……」
彼女は世界選手権に出られなくなったことで深く傷つき、痛々しいほどに落ち込んでいた。新エデン教会が主催したイベントに出場したばかりに……。言葉をかけようにも、探す言葉が見当たらない。ただ邪魔にならぬように彼女の傍らにいてあげたかった。
「私たち、お邪魔でなかったら、病院まで送るわ」
恭子が心配そうに眉を顰める。
恭司も森田選手を病院まで送り、頃合いを見て今夜は帰ろうと思ったが、森田選手に断られた。試合が終わったあとで自分たちの演技を彼女の弟に見せる約束をしていたからだ。弟思いの姉、姉思いの弟だった。
「私のことはいいから、弟にあなたたちの演技を見せてやって欲しいの」
少年は恭子と恭司のファンだった。姉の晴れ姿を見るために、恭子と恭司の演技を見るために、少ないお小遣いをこつこつと貯め、このイベントの日を長い間楽しみにしていたのだった。小学校が退けてから、羽田から飛行機に乗りひとりで千歳に着たが、イベントの開始時刻には間に合わず、インターミッションの時間に行なわれた恭子と恭司のエキシビション・プログラム『ある愛の詩』を見ることもできなかった。少年が握り締めていたシワくちゃになったチケットの半券がくやしさを物語っていた。
恭司と恭子は彼の姉の分まで精一杯の演技をすると約束した。
「わかった。君のために、今ここが世界選手権のつもりで演技しよう」
*
観客のいないスケートリンクは静かだった。いま恭司は、恭子と共にガーネット・ブラウンのデコレーション・ライトの中にいる。二人の曲は七年前のあの日と同じ『ある愛の詩』。恭子の真直ぐなまなざしが見つめている。雑念を払い、ポーズをとる。永遠とも思われる凍りついた一瞬の静寂――。
音楽が始まる。哀愁を帯びたピアノの旋律に自らの想いを重ね、漲る腕で、全身で表現する。指先にまで神経を行き届かせ溢れんばかりの情感をそこに込める。――枯葉の舞い落ちるボストンの秋。恭子と別れて暮らしていた七年間の歳月の想いが、洪水のように堰を切り胸に押し寄せる。まだ幼き恭司は使命を感じ、十歳の秋にアメリカに留学した。時の流れに負けじと、生きることを急ぐかのように。その期間、二人を結び付けていたのは、家族としての絆、信仰と、フィギュアスケートへの想いだった。
いま恭子は自分と共にいる。スパイラル・シークエンスで恭子との距離を保ち、張り裂けんばかりの想いで心を通わせる。二人で手を繋ぎ、バックワード・クロスロールでコーナーを回る。ツイスト・リフト。スロウ・ジャンプ!
子供の頃からずっと一緒に滑ってきた恭子の動きは、からだが忘れていなかった。ひとつひとつの技、彼女の息づかい、小さなクセまでも。かつて別れたときのレベルまで戻すのに三ヵ月もかからなかった。もし二人が成長していなければもっと早かっただろう。
曲がクライマックスにさしかかり、ドラマチックな盛り上がりを見せる。精神が高揚し、胸の高鳴りを全身から発散し、二人でサイド・バイ・サイドのトリプル・トウループを跳ぶ! 恭子のからだを高々とリフトし神の栄光を表現する。この瞬間の命の輝きを! 迸る情熱を!
ステップ・シークエンス。デス・スパイラル。最後はペア・スピンから、求め合うようにして抱き合い、静かに元のポーズへと戻り、深々とした余韻を残して演技を終了した。てのひらから恭子の弾んだ息づかいが伝わってきた……。