「大丈夫?」って訊いてほしい
BGM: スガシカオ「黄金の月」
氷室健介は、授業が終わるやいなや、すぐに教科書やノートを鞄に入れた。教室を出た。クラスメイトはまだおしゃべりしたり、部活へと廊下を急いだりしている。放課後の喧騒の中、彼は、誰からも話しかけられることもなく、話しかけることもなく、歩いた。彼は一人だった。突き当りの出口から入ってくる光が暗い廊下に反射してくる。
高校の校門を出て少し歩き、陸橋を渉ると公園がある。水堀に囲まれた古い城跡が、そのまま市の公園になっている。桜の木がお堀端に並んでいるが、木々は緑が生い茂っている。氷室健介は、桜の満開の時も、彼は舞い散る時も見てきた。公園は低い丘になっていて、土に木の角材を埋めこんだ階段を踏みしめながら、健介は公園に入っていく。頭上で枝が緑のアーチを描いている。
実は健介は電車通学で、校門のすぐ前にある駅から自宅の近くの駅まで電車で帰ることができた。だから公園は必要な通学路から外れた、完全な寄り道だった。公園を横断して、さらに歩くと、次の駅前の街に出る。
今や部活も辞めてしまい、時間のある健介が向かう先は、公園の中の市立図書館だった。緑の木々に囲まれた芝生の広場を抜け、砂利の感触を踏みしめながら遊歩道を歩き、動物園の跡地を横目に通り過ぎていくと、図書館が市民ホールの隣にひっそりとあった。
市立図書館はひどく古く、そして狭かった。市は十数万人の人口があり、県では第二の都市であるのに、図書館はこんなに小さい。だから本がびっしりと詰まった棚が、天井から廊下まで埋めつくしていて、通路は一人しか歩けなくなっているほどだった。閲覧用のスペースなどわずかしかない。運よく今日は空きがあった。健介は鞄を下ろして席をキープする。読書机の目の前が大きなガラス窓で、堀の水がよく見えた。満々とたたえられた堀の水の色は、濁ったエメラルドグリーンだった。
今日は何を読もうか。勉強に役立つコーナーを外れて、小説のエリアへ。黒い背表紙の文学全集。一冊抜き取ってみる。セリーヌ「夜の果ての旅」。ぶ厚く、手に重い。読む気力が涌かない。
好きな読書でさえ、これではな。健介はひとりごちた。最近、何もやる気が起きない。結局読んだのは、暗い色のカバーがかかったSFだった。終戦直後の日本、混乱した世相の中、滅ぶことを目的としてひっそりと生きてきた超能力者集団と、この世の全ての悲惨を救おうとする圧倒的な超能力者との暗闘を描く作品だ。無頼、という言葉の意味を初めて実感した、と健介は思った。文学的と感じた。
健介は、図書館の閲覧机に座って小説を読み続けた。現実から逃避するように。彼の机の目の前のガラス越しに、外に広がるお堀の水が段々暗くなっていき、本を読む健介も黒いシルエットになっていく。色彩を失って。
本に耽りすぎたな。健介は駅のホームで電車を待ちながら呟いた。吹きさらしのホームには、少し冷たい風が流れていた。
いつもの電車に間に合わなくて次の便をまっているが、あと三十分以上待たなくてはならない。ホームにはまだ電車も人もいない。日が暮れて、線路が市街の家々の間に消えていく先に、オレンジ色の光がかすかに残るだけだ。もうすぐホームの屋根に蛍光灯が灯るだろう。
この駅はターミナル駅で、健介が待つのは、この駅始発のローカル線だった。いくつもの路線がこの駅を通っている。それぞれの路線のホームが平行に並んでいる。健介の乗る路線のように通勤通学の時間帯以外は一時間に一本さえ走らない路線もあれば、十分単位で電車が通過する本線もある。
本線のホームは次の電車が近いのか、部活帰りの学生たちが三々五々、高架橋を渡って下りてくる。男女の制服、数種類あるものの、どれも健介には見慣れたものだった。大きなスポーツバッグを持った、背の高い男子の集団。運動部に違いない。健介の高校の制服は、男子は白のワイシャツに黒のスラックス、女子はセーラー服。この辺で一番古い高校だから、とてもオーソドックスだ。
健介の目は、隣のホームに現れた、セーラー服に止まった。その少女を知っていた。田中澪という名前。一年生の時は同じクラスだった。中学は違うが、汽車通学であることは共通しているので、こんな風に駅でみかけることがあった。
田中澪はホームで一人、自分の電車を待っていた。数十メートル先の顔に、健介の目は止まったままだった。肩の上で切り揃えられた黒髪、口元をきりりと閉じて、学生カバンを体の前で、重そうに両手でさげている。彼女はきっと、いつも通りの澄んだ瞳をしているだろう。
肌寒く、駅構内に見えるものは、灰色ばかりで、ガチャガチャしている。そんな司会の中で、彼女の周りだけが、一枚の絵のように整っている、と健介は感じた。
澪が、ふいに健介のホームに目をやった。健介と澪の視線が合う。彼女はぴょこんとお辞儀をした。健介は狼狽して、どう反応していいか、わからなかった。手をあげようかと思った瞬間、二人のホームの間に、電車が滑りこんできた。田中澪は見えなくなった。
中間テストが返ってきた。氷室健介は教室の机の下で、テスト用紙を開く。どの教科も二十点近く下がっている。その事実が他人事のように感じられた。テスト用紙と自分の間に、冷たいガラスがはさまっているかのような初めての感覚。
夏休み前の期末テストでは、いい点がついたら素直に嬉しかった。勉強が好きでやる気もあった自分が、まるで見知らぬ他人のよう。確かに、今回全くテスト勉強をしなかったからな。相変らず他人事のように健介は考えて、呟いた。
「そんなことに意味があるのか」
いや、何か人生に意味があることがあるのか。
テスト用紙の束をカバンの奥に押しこむ。母さんには見せられないな。そう考えた自分を健介は嘲笑う。もう自分はどうなってもいい、破滅してもいいと思っているのに、母に叱られることが怖いなんて。自分はどこまで情けない人間なんだ。
放課後のチャイムが鳴った。健介はゆらりと席を立ち、教室を出て歩き出す。クラスは文化祭の準備を始める声が上がりだしていたが、そこに留まるには、自分があまりに冷たすぎて温度差に耐えられない。どこかに行きたい。いや、このまま消えてしまいたい。
学校の廊下の床のコンクリートが果てしなく続くようで、歩こうと足を前に出すことさえ、つらい。何か心のはりのようなものがないと、歩くことさえ、こんなに億劫になるなんて知らなかった。
健介たち二年生の教室が並ぶ棟を降りると、体育館から、ボールが床を叩く音、バッシュがキュッキュッと鳴る音が、聞こえてきた。音だけで、真剣に部活に励む同級生たちの姿が眼に浮かぶようだ。汗は懐かしいものだった。真剣、一途、青春、そんな輝かしいものから、永遠に追放された自分。
食堂に行こうか。健介はぼんやり思う。放課後の学生食堂は、定食どころかパンさえもなくて、誰もいない。だから、そんな薄暗い、静かな場所なら、安心していられるような気がする。
体育館へと続く渡り廊下から外へ出た。アスファルトの道の左側は坂になっていてグラウンドに続いている。大きな声がする。野球部が練習しているのだろう。道の右側には、運動部の部室が長屋のような建物に並んでいる。テニス部、バトミントン部、ラグビー部、そして山岳部。
しまった。油断して、これまで避けてきた場所に来てしまった。健介は、部室から誰か出てこないか、と怖くなり、その場を足早に立ち去った。あの部室の中なら、見なくてもわかる。砂で汚れた三十リットルの赤いバックパックが壁を覆い、山中で料理するための重ねて収納できるステンレス鍋や、灯油で火を焚くコンロが積まれている。登山の間の万一に備えた非常食も備蓄されている。部活の時間に、部室の中で先輩たちと非常食のカレーを作って食べた、思い出が蘇った。
(氷室の日記)
ああ、また山岳部の部室を見てしまった。もう「山岳部」という言葉を思い出すだけで、自動的に自己嫌悪に陥ってしまう。なぜ自分が、ここにいるのか? あの時、もう少し頑張れなかったのか。
部活を辞め早く帰宅しても、机の上にノートを広げたまま、勉強に手がつかない。夏休み前までは、社会や数学なんてクイズ感覚で解けて面白かったのに、今は少しも集中できない。やる気が起こらない。
いつから、こんなダメ人間になってしまったんだ。いや、もともとダメだったんだ。ただ本当の試練に出会ったことがなかっただけで。調子に乗っていただけで。自分が何でもできるような気になっていた。未来は明るく開かれているような気がしていた。
なぜ、そんなに無邪気に信じられたのだろう。明日を、そして自分を。何もできない自分。嘘つきで、弱くて、ずるくて、情けない自分を。
暗い。世界が暗い。深夜の今、眠れない。眠ると、いやな沼みたいなものに引きずりこまれそうな気がする。夢の中でも、誰かにつかまって、責められそうな気がする。
十月にはいって、放課後の教室はますます文化祭の準備で占められるようになった。机を全部教室の後ろに寄せて、床に段ボールやら道具やらを広げて、展示物を作っているから、氷室の居場所はなくなった。
クラスメイトが大きな声で指示したり、女の子の集団が急に笑い出したりするのを、同じ教室にいながら氷室は遠く感じていた。なぜみんな、あんなに忙しく感情を動かしているんだろう。何がそんなに楽しいんだろう。まるで違う世界の住人のようだ。
ふらりと彼は教室を出た。暇なら準備手伝えよ、という声がかかる前に。今の氷室には、言い訳や反論をする気力がなかった。廊下でも、各クラスからはみ出したように、文化祭の準備する生徒たち、そして機材。それらのすき間を漂うように、気配を消して歩いていく。
この熱狂は、高二の今が、実質参加できる最後の文化祭だと、みな思っているからだ。高三の今頃は受験勉強で文化祭どころじゃない。そんなことは先輩たちを見ていればわかる。だから今のうちに青春を謳歌しておかなくちゃ。そんな同級生たちの心の声が、氷室には聞こえるようだった。
青春? 青春って、そんなにいいものか? 苦しくて、つらくて、欲しいものがたくさんあるのに、求められるものも増えてきて、結局何もできない、何も手に入らない。焦りと不安。出口の見えないトンネルをただ前に進んでいるような感覚。
ぼんやりと歩いていた氷室は、理系クラスの前に来ていた。教室の中で、田中澪が男子と何か相談しているのが、目に入った。
ふと彼の足が止まった。あの日、駅のホームの向こうに彼女を見つけてから、学校の中でも彼女の姿が目につくようになっていた。男女問わず屈託話す様子、女友達と喋りながら下校するところ、彼女の声が聞こえると氷室は反射的に振り向いてしまう。
話が終わったのか、彼女が教室の出口に歩き出してきて、氷室が見ていたことに気づかれないように、背中を向けて歩き去ろうとした時、
「氷室くん」
と後ろから彼女の声がした。何?と彼は振り向いた。
「なんか久しぶりに見かけたから、声かけてみた」
そんな暇つぶしみたいな理由で声をかけないでくれ。氷室はそう思ったが、言葉にできないでいると、彼女はあっと言う間に駆け寄ってきた。氷室は、おののくような胸のうちが顔に出ないように、冷静を保った。
「もう帰るの?」
と彼女は、下からのぞきこむような目をして訊ねる。
「うん」
「本当に山岳部辞めたんだね。部長になるくらい頑張ってたのに、あっさりしてるね」
氷室は何も言えなくなった。
「もう受験の準備しなくちゃいけないもんね?」
「……」
「ねえ、大丈夫? 顔色悪いよ。寝てないんじゃないの。勉強もいいけど、休みもとらなきゃ」
「い、いや、何ともないから。大丈夫だから」
もう氷室は恥ずかしさと気まずさで、逃げ出したかった。
「それなら、いいけど……あ、私に職員室に呼ばれているんだった。行くね」
突風のような彼女のペースに、日ごろ暗い海の底に沈殿しているような氷室の調子が乱された。何だか心臓の鼓動が早く打っているように感じる。歩き出しながら、早く静まれ静まれ、と唱える。
「大丈夫?」か。二学期になって、こんな自分になってから、初めて誰かに心配されたような気がする。余計なお節介だ、とひとりごちながら、彼の口元は弛んでいた。
それから氷室は田中澪のことばかり考えてしまうようになった。彼女のことは他の誰よりも早く気づく。姿が眼に入ると視線が吸い寄せられる。そして、また話しかけてくれないかと考える。
彼女はなぜ、ぼくのことを気にかけてくれたんだろう? 氷室は不思議だった。部活を辞めたこと以外、誰にもわからないように、悩みを隠してきたのに。でも、田中澪に「大丈夫?」って訊かれた時、ぼくの心臓にそっと触れられたような気がしたんだ。
あの時のことを何度思い出してもドキドキする。校内でも彼女の姿を無意識のうちに探してしまう。家に帰っても面影が頭から離れない。イメージが鮮明でなくて苛々する。まるで「田中澪欠乏症」にかかったみたい。この症状には覚えがあった。恋だ。彼女のことが好きになってしまったらしい。そう結論づけるしかない。
彼女もぼくのことを好きだったら……そんなことはありえないけど、あの時のような、心と心が近づく瞬間をまた味わいたい。
いい気なものだ。氷室の心のどこか暗いところが呟いた。お前が、あんないい子に好かれるどころか、関心を持ってもらえると、想像する資格すらない。
山岳部をみっともなく辞め、勉強も手につかず、やらねばならないことから逃避している。来年受験と言ったって、どこの大学に行こうかという目標もない。これから先のことを考えようとすると、真黒なシャッターが下りてきて、氷室は考えるのを止めた。
夏が終わって、自分は変わってしまった。自分を支えていた背骨がなくなってしまったようだ。心の中の透明できれいなものが、どこにも見当たらない。夏までの自分は、やりたいこと好きなことがはっきりとあって、それに集中できた。頑張れた。
今はできない。何もかも変わってしまった。夏のインターハイが終わった後は。
氷室健介は、夏休みまで高校の山岳部員だった。八月のインターハイ山岳競技全国大会の県代表に選ばれ、出場後、山岳部を辞めた。
山岳部の活動は、普通の登山で、土日に一泊二日で近くの山を登り、長期休暇には三泊四日でアルプスの山を縦走するというものだ。インターハイで何を競うのかというと、登山に関する全技術だ。
各県代表の高校は四人一チームで出場する。大会会場となっている山域を三泊四日の工程で、定められたコースで登山する。その中の作業や技術を審査員が点数づけして、その総合得点で順位が決まる。
登山の速さだけではない。テントの張り方、食事の作り方やその内容、地図とコンパスで自分の現在位置を把握する。等圧線を日本地図に引いて明日の天気の予測をする。リュックに詰めた荷物の重さや詰め方も審査対象になる。
氷室は高二ながら、三年生の先輩たちに交じって、県大会のチームの一員に選ばれた。県大会優勝を目指して、三十キロの重さのリュックを背負って階段を上り下りしたり、土曜日にリュックを背負ったまま自転車で低山に向かい、頂上まで往復する練習をした。ザイルを使った壁登り、チームで息を合わせてテントを張って、いかに時間短縮できるか、カレーを作る練習。彼は一生懸命にやった。
県大会で優勝して、氷室たちが県代表になった。練習の成果が出て、氷室は嬉しかった。インターハイの直前には、体育館に全校生徒を集めて壮行会を開いてもらった。
彼らには目標があった。彼らの高校も含めて、今までの県代表は、常に十数位だった。自分たちはその上、七位以内に入賞しよう。
大会本番、山行の途中、氷室はひどい下痢と腹痛から、まともに歩けなくなってしまった。彼には初めてのことだ。チームは登山のペースを落とさざるをえなかった。成績は四十七チーム中三十八位。その後、氷室は部を辞めた。
氷室は、もう帰ろうとターミナル駅の高架を渡っていた。彼が乗るローカル線のホームには高架を渡っていくしかない。長い高架二ガラス窓が並び、沈もうとする日の光が差しこんできて眩しい。
ようやく光に慣れてきた、彼の目に、前を歩いている制服の小柄な影が映った。田中澪だった。珍しく一人で歩いている。同じ路線を利用する同級生がいない。
話しかけてみたら。ふと思いついて、氷室は自分に驚いた。これまで人を避けて避けて、気配を消してまで、逃げ続けてきたのに。こんなに自然に、彼女に近づこうと考えている。
夕暮れ時の列車を待つ以外何もすることがない空白の時間に、話しかけてみようかという思いは、ぽんと荷物を投げ出すように訪れた。どこか投げやりな気分でもあった。話しかけて無視されてもいい。嫌われてもいい。それで当たり前だ。慣れている。今このノリだけで声をかけてみよう。
「田中さん」
田中澪は振り向いて、氷室に気づくと、少し驚いたようだったが笑った。
「田中さん、今日帰り遅いんじゃないの?」
「うん、委員会があったから」
「委員会って、文化祭関係?」
「そう」
二人は互いのクラスの文化祭の準備の状況について話した。不思議と会話が続く。二人は、田中澪が乗る電車のホームへの降り口を通りすぎた。
「あれ、田中さん、こっちで降りるんじゃ」
「いいよ、氷室くんのホームまで行こう。わたしの電車はまだ大分待たなくちゃいけないし、氷室くんと話したいから」
氷室くんと話したいから。彼女の言葉が氷室の胸を躍らせた。
「氷室くん、スゴイな」
ホームへと降りる途中、田中澪が言った。
「スゴイって、何が?」
「ちゃんと先のこと考えているところ。そして、一つ一つに集中できているところ」
彼女の言葉が意外すぎて、自分のことを言っていると氷室には思えなかった。
「わたしなんか、色々なことに目移りしちゃって、何一つできてない……」
彼女にも何か悩みがあるのだろうか。自分に不満があるのは伝わってくる。高校生活をうまく送っているとばかり思っていたから、氷室には意外で、そして何だか彼女を近く感じる。
「何かぼくにできることがあれば……」
思わずそう氷室は言っていた。彼女の顔がぱっと明るくなった。
「本当! 嬉しい。氷室くんに相談したい時、相談してもいいかな。話しかけると迷惑かと思って遠慮してたんだけど。友達になってくれる?」
「う、うん、いいよ」
彼女の勢いに押されるように、氷室は頷いた。
「やった! あ、氷室くんの列車来たよ。じゃあ、またね」
田中澪は手を振って、高架の階段を上っていった。
友達、友達か。これは期待していいんだろうか。氷室は迷い、考える。彼女のことが好きだ。つき合いたい。つき合うということがどういうことか、よくわからないけど、駅での会話は楽しかった。田中澪とは不思議に会話が続く、盛り上がる。ぼくの下手な話でも笑ってくれる。こんな時間がもっとあれば。
友達になるなんて嘘だ。ぼくの欲望は、もっと強くて薄汚い。こんな自分が田中澪から愛されるはずがない。そして、彼女がインターハイの時のぼくの卑怯さを知ったら。
ぼくのせいで、わが校は敗れた。山行の途中、下痢と腹痛で苦しかったのは事実だ。でも……ギブアップしたのは自分からだった。あの時もう少し頑張れた。ガマンできた。自分で自分に線を引いて、諦めたんだ。
自分を守るために、先輩はじめ部全員が、学校の他の人も期待していた、わが校の上位入賞を犠牲にしたんだ。山岳部を止めたのは、そんな弱くてズルい自分に耐えられなかったからだ。
部活を辞め、クラスの誰とも話さず、学校帰りに本に耽溺していれば、自分の弱さ醜さを忘れていられたのに。
田中澪のことを思うと、もっと近づきたいと思うと、また「自分」に還ってしまう。こんな自分、誰にも愛されるはずない……。
そう考える氷室にとって、自己嫌悪と絶望のなかにいて未来の見えない彼にとって、彼女の存在だけが光だった。彼女と話している時間だけが、呼吸ができるような気がする。
このままじゃいけない。氷室は決意した。告白しよう。インターハイでのズルい自分を彼女に聞いてもらいたい。そして君が好きだと言いたい。それで軽蔑されても嫌われても仕方がない。でも、もし、彼女が受け入れてくれるなら…自分も変れるかもしれない。文化祭の終わりのキャンプファイアーで告白しよう。
氷室に相談があると田中澪に呼び出されたのは、文化祭の三日前のことだった。
公園の中に古城の内堀があって、赤く塗られた小橋がある。小橋を渡ると護国神社の裏手の小道に出る。そこには片付ける人もいない、枯葉が堆積していた。二人が歩くにつれて、足元でカサカサ鳴った。誰も来ない。
告白だ。氷室の頭で囁く声がする。これはチャンスかもと考えるほど、氷室は腹の辺りが重くなり、痛くさえなってきた。彼は上手く喋れなくて、無口になる。田中澪も今日は言葉が少なかった。彼女、つまらないんじゃないか。何か話さなければ。そう思うほど、氷室の舌は固まったように動かなくなる。
緊張で締め上げられるような胸の底から、不安が湧き上がってくる。告白だって? こんな自分が好かれるはずない。醜くて弱い自分を見せたくないから、インターハイで逃げた自分を見せないように、人から離れて、ごまかして生きている。そんな自分を彼女に知られたくない。
でも、彼女には、田中さんにだけは聞いてもらいたい。そして、大丈夫よ、と言ってほしい。懺悔したいんだ。しかし、その勇気はなかなか出ない。
いつしか二人の会話は途切れていた。仕方なく氷室は切り出した。
「……ところで相談があるんだっけ?」
「うん……」
彼女も喋りづらそうだった。まさか、彼女から告白。まさか、まさか。
「誰にも話したことないんだけど……わたし、〇〇大学の医学部に進学したいんだ。どうしたらいいと思う?」
全く予想外の質問に氷室の頭はついていけなくなる。県外の○○大学の医学部は有名で、偏差値もかなり高かったような覚えがある。
「それは……勉強するしかないんじゃないかな」
「うん、それはわかってる。わたしの成績で、〇〇大学医学部に合格しようと思ったら、寝る間も惜しんで勉強しなくちゃ。でも、最後にみんなと何かできる文化祭も大事にしたいし、部活もあるし、他にもしたいことが沢山ある。目移りして集中できない……どうしたら氷室くんみたいに、一つ一つのことに集中して結果を出せるか、教えてほしいんだ」
「ぼくが?」
氷室は心底驚いて聞き返した。
「ぼくのどこが集中しているって?」
「氷室くんは山岳部でインターハイの全国大会に出場するという成果を上げて、ぱっと辞めた。受験に集中するためなんでしょ? みんなそう言っている」
氷室は驚きながら、だんだん腹が立ってきた。
クラスメイトたちは自分のことを、そんな風に見ていたのか。徹底して関わりを避けていたから、わからなかった。ぼくがどんな思いで部活を辞め、日々過ごしてきたのか、誰も気づきもしない。目の前の、この優しそうな少女も含めて。
「……そんなことない」
「隠さないで。正直に言ってよ。私たち友達でしょ?」
彼女の言葉に、氷室は熱いものがこみ上げた。
「友達じゃない!」
彼は、隣を歩いていた田中澪の両肩をつかむと、凶暴な気持ちに駆られるまま、唇を彼女の唇に押し当てた。痛いほどの圧力をこめて。彼の手の中で、彼女の身体が固まるのを感じた。キスってこんな感じなのか、と氷室が思った時、彼女は身をよじって離れた。
彼女の目が大きく見開かれ、口の端が震えている。二人の視線がぶつかった。
「これが、ぼくの気持ち。ずっとこうしたかった……」
「最低!」
叫ぶと、田中澪は駆け出して行った。並木道の先に彼女の姿が消えて、氷室はようやく我に返った。
ああ、何てことしてしまったんだ。彼女を傷つけた。嫌われた。こんなはずじゃなかったのに。彼は、このまま枯葉交じりの泥道の中に沈みこんでしまいたかった。
ぼくはなんてことをしてしまったんだろう。なんてことを、なんてことを……
氷室の脳裏にはもう、同じ瞬間、同じ言葉しか浮かんでこなかった。落ちつけ。でも蘇ってくる。田中澪の体をつかんだ時の柔らかい感触、そして押し当てた唇の……キスって、こんな感じなんだ。考えてみれば、あれがファーストキス。
どうして、あんなことをしてしまったんだろう。できたんだろう。恋の告白さえできそうもないくらい、ドキドキして怯えていたのに。
田中澪がああ言った瞬間、体の底からつきあげるような純粋な怒りしかなかった。火山の火口から噴き上げる、黒くて熱いマグマのような。目の前が真っ白になった。抑えようと考える間もないほど、早く激しく噴き出した衝動。目の前の女をメチャクチャにしてやりたい。確かにあの時そう感じた。
誰よりも優しくしたかったのに。誰よりもわかってほしかった。それなのに。
全然正反対のことした。結局できた行為は、彼女を傷つけただけ。ぼくはなんてひどい、ダメな人間なんだ……でも、彼女は完全にぼくのことを誤解していた。ぼくの行動が、まるで全て計算ずくみたいに思っていて、ぼくの悩みなんて全く気づいてもいなかった……
いや、だからと言って、乱暴なことをしていい訳はない。謝りたい。ごめんなさいと言わなきゃ。ごめんで済むか。済まないかも知れない。土下座してでも許しを乞うんだ。
彼女の足元にひれ伏す自分を想像して、氷室は暗くねじくれた興奮をおぼえた。足元にひれ伏すしかない自分。クズのような自分。それだけの価値しかない。そして、彼女は頭上から冷たく見下す。
とにかく土下座してでもいいから謝って、ごめんなさいと言って、あの時キスしたのは君が好きだったからだと告白しよう。決していい加減な気持ちじゃなくて、君のことが好きでたまらないから暴走したのだと言おう。そうすれば、何かが変わるかもしれない。彼女の気持ちが変わるかもしれない。すがりつくように氷室はそう思い、信じようとした。
氷室の懺悔は続く。ぼくの好きだっていう思いを聴いてもらおう。自分の本当の気持ちを全部彼女に話そう。ぼくの醜いところ、ダメなところも全部さらけ出す。軽蔑されてもいい。それが本当の自分だから。
勇気を出した告白が、彼女の心を動かしたら、優しい彼女の心に届いたら……ぼくらはまた語り合える。ぼくが自分をさらけだせるのは、田中澪、君しかいない。もう一度、君に会うんだ。
文化祭の日、校舎の中は、生徒たち、その家族や違う学校の友達なんかで、ごった返していた。氷室のクラスの前の廊下も人が多すぎて、人に触れずに歩くことさえ難しい。各教室は、模擬店やゲーム、そして様々な展示物があり、飾り物があり、呼び込みをする声も相まって、学校全体がまさに縁日のようだ。
人混みの中、氷室は田中澪の姿を探したが、見つからなかった。彼女の理系のクラスにもいないようだ。
学校の中、皆明るく声を張り上げている。男の集団が発する素っ頓狂な声、女子の笑い声、そして並んで歩く男女のペア。彼らはきっと、文化祭ラストの夕方のキャンプファイアーで踊る算段でもしているのだろう。男女たちの囁き声は、文化祭の熱気で聞こえない。
共通するのは、他人のことなんて関係ないってこと。こんな混沌の中なら、誰にも気づかれずに、彼女に言えるのではないか。氷室は、何か魔法のようなものを期待して、校内を歩き回る。今度、田中澪に出会ったら、ちゃんと「好きだ」と告白したい。傷つけて、ごめん。優しくしたいんだ、本当は。
しかし、彼女の姿さえ見えないまま、文化祭の一日は過ぎていった。日が傾いて、終了時刻が近づいている。
教室の模擬店は売り切れ御免の張り紙をして売り子もいないところが増えていた。人の流れが徐々に校庭に向かう。クライマックスのキャンプファイアーに集まりだしている。
氷室も人に押し流されるように校庭に歩いていた。日が落ちて、空は蒼黒く輝きを失いつつある。校舎から体育館の前を過ぎて校庭へと階段を下りていく。広い階段の下りきった底がグラウンドで、トラックの中心に太い角材が組み上げられて、カップルたちがすでに円形に囲んで待っていた。
屋外のスピーカーからフォークダンスの曲が流れ出し、角材に点火された。カップルは火を囲んで踊りだす。
フォークダンスに参加できない一人者たちは、グラウンドを見下ろす階段の上にたむろしていた。無言で見つめる者、ヒューヒューと冷やかしの声を上げる者、そうやって悔しさを紛らせるかのように。
氷室も大階段の上からフォークダンスを見下ろす。あいつもこいつもカップルになっている。自分も田中澪とフォークダンスを踊りたかった。その気持ちがあったことは認めざるを得ない。結局、丸一日探して見つからなかった。今日、彼女は休みだったのだろうか?
ようやく炎を上げ始めたキャンプファイアーの光に照らされている女子の顔。田中澪のちょっと緊張した顔。男子に手をとられている。肩を抱かれ、曲に合わせて回って、男の腕の中に納まった。
彼女と踊っている男は氷室も知っていた。氷室と同じ中学出身で、同じ列車で高校に通っている、昔の同級生。今は田中澪と同じ理系のクラスだ。
氷室はキャンプファイアーにきびすを返して、校舎へと歩き出した。すでに薄暗い中に、オレンジ色の炎が高く燃え上がっている。何も考えられない。ただ、何かせずにはいられない。
校舎に入り、廊下を歩く。もう暗くなった建物の中に人影はなかった。無人の廊下を目的もないのに、ただひたすら、ぐんぐん歩く。
まっすぐな筈の廊下が、右に左に傾いているようだった。廊下がおかしい。いや、おかしいのは自分か。無人のはずなのに、かすかに笑い声が聞こえる。どこだ? 笑い声の主を探すが、どれだけ歩いても音源に近づかない。笑い声は遠くから響いてくる。いつしか彼も笑いだしていた。自分をあざ笑う。
氷室は気づいた。自分が思い描いていた、田中澪との物語は、自分の思いこみにすぎなかった。自分中心、自分しか見えていなかった。彼女には彼女の恋があって、ぼくの突然のキスなんて、彼女にとっては予想外の事故にすぎない。
じゃあ、あの優しさは何? 彼女は誰に対しても優しい。ぼくへの「大丈夫?」だって、単に友人に対する気遣いにすぎない。それにすがりついたのは自分だ。弱くて卑怯で、無価値だとわかっていたはずの自分が、単なる気遣いを、自分だけへの特別な好意だと勘違いしただけなんだ。
そう頭ではわかるのに、腹の底から湧いてくる怒り、目頭を熱く濡らすものは抑えきれない。ぼくは裏切られたんだ。
ぼくは田中澪に捨てられた。選ばれなかった。彼女にとって価値が低い。何の魅力もない障害物。
「そんなこと……そんなことが許せるか!」
腹が立つ。怒り。目も眩むほどの。許せない。報復してやる。見返してやる。歪んだ、身勝手な思いがどんどん湧いてくる。なんて自己中心なと頭のどこかではわかっていながら、激しく勝手な思いに全身がひたされた、流された。それはどこか甘美でもあった。
ぼくは憎む、憎む、憎む。絶対にこのままでは済まさない。彼女に何かしたいのか? いや、彼女だけじゃない。自分をとり囲む現実の全てを憎む。自分自身を憎む。ぼくは無価値だ。誰にとっても、世界のどこからも。
氷室の唇が歪んで、かすかな笑い声がもれた。体は熱いのに、胸の奥のどこかが冷たく冷えていた。
田中澪は、受験に集中するためにぼくが部活を辞めたと言っていた。受験しか、勉強しかぼくに残されていないなら、その道を行ってやる。どうせ無価値な自分、愛されない自分だけど、勉強くらいなら自分一人でもできる。やってやるよ。彼女が行きたい大学よりいいところに入ってみせる。
氷室はどんどん歩き続けて、校舎を抜け、外へ出た。街はすでに日が暮れて、街灯が光り出していた。彼が抱えた思いを知る者は誰もいない。
《FIN》