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あなたに送る物語

あなたに書く物語

作者: 速水詩穂

 



 あなたに書く物語



 一瞬のきらめきは、まるで流れ星のやうであつた。

 まやかしなどではない。瞬間の出来事は、然れど圧倒的な力をもつて、僕の第六感とも言ふべき、取るに足らない妄想を照らした。

 だから願ふ。その時照らされた造形全てが、己の恐怖心からきた複製品(れぷりか)であるように。


 そもそも違和感の正体は、あなたが発した、らしくない言葉なのでせう。そうして常よりも少しだけ高めの声色なのでせう。あると、と、そぷらの、の中間。ほんの少し、あると、寄りの、めぞぴあの。小動物が鳴く時の声を想起させるようなかぼそさに、思はず腰を浮かしました。

「もつと澤山(たくさん)逢いに来て」

 言つた後、あなたはそれを激しく後悔したやうでした。

 失はれていく刻。その声は「限られた時間が多くない」と私の袖にすがりつくようで、然れどあなたはそうしてその事自体利己的であつたと、己の欲をまつすぐに恥じたのでせう。

 あなたは情け深い人ですから、屹度、残される側の気持ちを足蹴にしてまで抱き着くことができませんでした。いいのです。

「分かりました」

 そう応えた時には既に私は玄関を飛び出していました。白い息。汽笛の鳴り響く中、列車に「えい」と飛び乗った大の大人に、白い目が集います。いいのです。まるで大したことではありません。然れど私はこの時になつてやうやく、家の鍵を携帯してゐないことに気づきました。

 厚い前髪の下で細まる目。あなたの事となると、見境がなくなるのだと、笑つて話をすれば、困つたやうに笑ってくれるでせう。いいではないですか。それならば鍵の一つや二つ、喜んで忘れませう。あなたが笑うのなら、いくらだって道化(ぴえろ)を演じてみせましやう。


「全ては始めから決まつてゐたこと」

 いつだつたかそう言いましたね。何ら揺るぐことのない事実に、あなたは恐れることなく向き合つてゐました。その姿が気高く、美しくて、私も模倣を試みました。あなたの抱える不安と、私の抱える不安、は、はたして天秤にかけた時どちらに傾くのでしやう。

 いいえ、比ぶべくもありません。あなたが逃げないでゐる以上、私にも逃げるなどという選択肢はないのです。聡明なあなたは、私よりも澤山の事に思ひを巡らし、それでもまつすぐに立つているのでせう。私も、逃げる訳にはいかないのです。例えその先にあなたがゐなくなつたとしても。


 それはまるでまだ見ぬ崖に向かつて二人で歩いているようです。近い将来、あなたを天人が迎えに来るでせう。その時私は足を踏み外すのです。永遠に交わることのない未来。それでも

 逃げる訳にはいかないのです。最後の最後まで傍にゐるのは私で在りたいのです。己の想いを、証明したいのです。あなたを最後まで愛し抜きたいのです。だから

 だから、私は、きちんと、笑つていませう。あなたを不安にさせないように。あなた自身の抱える恐怖にだけ、向き合へるように。いいのです甘えたつて。弱音を吐いたつていいんです。それが出来るような、頼もしい、余裕のある殿方でいませう。


「まだ間に合ひますか?」

 息を切らせ、病室に飛び込んできた私にも、あなたはやさしく微笑みかけましたね。私は震える手でぺえじを開くと、音を起こし始めました。

 十秒。雑音が入ります。医者がせわしなく動き回るのです。静かにして下さい。彼女に届かなくなつてしまいます。二十秒。五月蠅い機械。少し黙っていただけませんか。三十秒。やうやく静かになりました。これなら彼女も安心して耳を傾けられるでせう。

 まだたつたの五行です。私はあなたと紡ぎたい物語を、みらいを、ここにきちんと残すのです。愚かな男だと笑つてくれて構わない。だから最後まで私と共にゐて欲しい。いま微笑みましたね、そうですよね、あなたはまだここにゐる、まだ、ずっと、これからも、屹度。

 白紙の原稿用紙に落ちた水。まぁるく染みこむ。ひとつ。またひとつ。


 駄目でした。何を書いても何を書いても綺麗事にしかならない。汚い墨だらけの紙くずを量産することしか出来ない、私は、

 私はあなたがゐればそれでよかつた。何をとられようと、何を失おうと、この想いだけは、私からあなただけは奪えない。そう信じ、まつすぐ前だけを見て来たのです。だから、でも、


 僕は強くなんかない。あなたのように、強くなんかなれない。あなたが笑つてくれなければ、僕は自分の在り方が正しいのかどうかさへ分からない。まつすぐが何なのかさえ分からない。でも、だから、

 だから、あなたのための物語を、今起こします。あなたがまだここにゐるうちに、僕のありつ丈の想ひをこめて、あなたのために謳うのです。いいのです。上手くはなくても、それでもあなたは笑つてくれる。笑い合へる。ねえ、奥さん。

「愛してますよ」








 舞い込んだ柔らかな風。はたはたとめくれるぺえじ。その表面を、淡い光が照らす。

 よれて汚らしい、それはどこまでもどこまでも連なる男の字。

 純粋な愛の謳。いつしかそれは、めくれるほどに美しさを取り戻し、




 再び春が、やつて来ます。







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