リアル
GA大賞に出した作品が落選しました。
久々に投稿です。
坂本流は和風(東洋)のファンタジーを極める!!
この作品は出発点かもしれません。
一
「あなた……」
女は寝がえりをするように、布団の中で体勢を変え、九朗に耳うちした。
「なんだい。お前」
「私、子供欲しい……」
九朗はハッと目を見開いた。そして、女の方を向く。
「お前、何んて」
女は布団の中で赤くなった顔を隠している。
「子か……俺も欲しいが」
少し声が震るえていた。女はそれを受け、彼の左手を持って、上目づかいをした。
「大丈夫よ。あなた。この先何があっても、恐れることなんて何もないわ」
「そうか、そうかもしれないな……」
「あなた、抱いて」
九朗は顔つきを変えた、覚悟をしたのか? もう女を見つめる顔は愛に満ち溢れていた。
「ああ、作ろう。俺達の子を」
月日が流れ、子が生まれる。名は義之。義之は健康的な男の子に成長した。
義之の三歳のときの記憶である。
「義之、行くよ!」
「待って、お母さん」
走ってついて行った義之は、丘の上で息を整える。
「えらい、えらい、義之」
二人の立っている場所はこの街を一望できた。
「お母さん、あそこ」
義之はおもむろに指さした。
「あそこ、僕の家だよね」
「そうよ」
女は屈んで、義之と同じ目線にする。
「あそこは、お母さん」
「あそこは、パン屋さんね」
「食べたい!」
無邪気に喜ぶ、義之。
「今度、一緒に行きましょう」
やがて、太陽が沈みかけてきた。家が林立する景観が、赤く染まり始める。
「帰りましょ。義之」
「お母さん、待って!」
微笑みながら女は振り返った。
「何?」
「お母さんの名前ってなんていうの?」
女はその言葉を聞いて、硬直した。
「お母さん、お母さん」
義之が体を揺らすので、やっと呪縛から解けた。しかし、顔は当惑の色を示していた。
「お父さんが九朗でしょ」
「ええ」
「お母さん、分からない」
その無垢な瞳に、心が動かされたのか、女は微笑みながら言った。
「〇×」
義之が言葉を反芻しようとすると、女は口で手をふさいだ。そして優しい笑みでこう言った。
「いいこと、義之。決してこの名を呼ばないこと」
「なんで?」
「いいから聞きなさい!」
さっきまでと打って変わったような、剣幕だった。
「この名を呼ぶときが来たら、今のような平和な時じゃないかもしれない。義之が大きくなって、そして、あなたが私にそれを願って求める時に口にするのよ。それまでは決して言ってはならない」
義之はなんだか、分からない顔をした。
「うん……分かった」
「うん」
女の優しい顔は戻った。
「帰りましょ、義之!」
「うん!」
甲高い声をあげて、義之は女の歩いていく後についていく。
二
義之は目をこすった。
「コラ! 義之、まだ寝てんのか?!」
父親の九朗が、階段を駆け上がる。
「起きてるよ、クソ親父!」
そう言って、布団から立ち上がり、勢いよく襖を開けた。
「遅いぞ!」
「あのさ、親父さあ」
「なんだよ」
「夜遅くまで、妖怪退治一緒に行かせといて、学校行くギリギリの時間まで寝てたら遅いって。睡眠時間、何時間だと思っているんだよ!」
九朗は頭を掻いた。
「今に始まったことじゃないだろ、それ」
「ああ。んなこたぁ分かってるよ」
九朗は階段を下りていく。
「この家の子として生まれたんだ。諦めな」
九朗の背中を見て、義之は溜息をついた。
「まあ、しゃあねーか」
九月の中頃、秋が来たとはいえ、まだ暑い。寝巻にしていたタンクトップの上から半袖のカーターシャツを着て、制服の黒いズボンを履く。
欠伸をしながら、階段を下り、洗面台に。
「早くしなよ」
「朝飯は?」
「テーブルの上だ」
「ありがと」
義之は父親と二人暮らしだった。衣食住、身の周りの世話は全て、父親、相模九朗が世話をしてくれている。もう何年も前からだった。母さんがいなくなってから……。
ふと義之は母のことを思い出した。そういえば、今日も母の夢をみていた。何故だろう? 自分はまた会いたがっているのだろうか?
「おい、何ぼーっとしている早くしろ!」
「あいよ」
義之は顔を洗った。
学生鞄を肩にかけて持ち。学校へと急ぐ。最寄り駅について、息を整える。そして腕時計を見た。舌打ちを思わずする。
「もう、間に合わないな。今日も遅刻か」
通勤ラッシュの満員電車に乗り、義之の苛立ちはさらに助長される。
「毎日、オーバーワークすぎんだよ。これが普通の高校生にさせる仕打ちか?!」
人目をはばからず愚痴をこぼす。周りの乗客はチラリと義之を見て、そして目を切った。
学校の最寄り駅から歩いて向かう。もう遅刻なのだから、半分開き直っていた。
校門をくぐり、下足室を抜け、階段を上がり、自分の教室に向かう。二年B組。
「ちーっす」
けだるそうに後ろの扉を開け、自分の席に向かって腰を下ろした。
「おい! 相模、また遅刻か!?」
現国の山田が怒っている。
「はいはい。すみません」
クラスメートの笑い声。
「ふん、まあいい。進級のこともちゃんと考えてろよ!」
現国の山田は黒板に向き直り、チョークを動かす。笑いは収まったが、まだかすかな笑い声が聞こえる。義之は首を向けた。
まだ笑っているのは那須川由佳。ショートカットの髪。パッチリした目をした、見る人を可愛いと印象づける整った顔立ち。背は少し小さいが、胸はDかEぐらいある。
「なんだよ?!」
義之は由佳に言った。
「あんたまた遅刻?! 起きれるでしょ? 普通」
「おい! 那須川、相模、うるさい」
現国の山田は二人に鋭い視線を向けた。
「はーい」
由佳は生返事をした。義之も前を黒板の方に向いた。
休み時間、机の上でうつ伏せていると、由佳が近づいて来た。
「あんた、遅刻こりないね~。私したことないよ」
義之は由佳が話かけても相手にしなかった。
由佳は面白がって、ちょんちょんと指で義之のあらゆる所を突く。
「おい! なんてとこ、触ろうとするだ!」
義之が顔を上げた。由佳は驚き、後ずさりする。
「なんだ、起きてんじゃん」
「変なとこ触ろうとしたら、永遠の眠りからも覚めるわ! お前の胸も触ってやろうか?」
「ハハハ! どうぞ、お好きに」
その笑いを見て、義之は頭を掻いた。
「お前とは違うんだよ」
「何が、夜はあんたといっしょで、祓ってんじゃん」
「……お前はきっと夜行性なんだな」
そう言ってまた机の上で寝ようとした。突然ギューっと急所を掴まれた。
「何すんだよ!」
義之は頭にきた。
「……夜行性とかいう、言葉で片付けて欲しくないな。お役目なんだよ。私達にとって、大事なこと。七歳から私達は毎日そうやって過ごしてきた」
とても印象的な顔つきだった。冷たい、それでいて、覚悟を漲らしている目だった。
「ああ。そうだな」
それを聞くと、由佳は席から離れていった。
義之はその後、由佳の言葉が効いたのか、寝ずに授業を受け放課後まで過ごした。
「ただいま」
「おい! 学校には間に合ったのか?」
白い袈裟に烏帽子をかぶった九朗が話しかけた。九朗は少し腹が出ている、平凡そのものと言える中年の男性だが、この装束を身に纏うと威厳を感じさせられてしまう。九朗の子である義之も体格は父親に似て、腹こそ出ていないが、男性の平均身長、肉の付き方も特に目を引くところはない。ただし、顔は母親似で、女性らしい顔つきである。
「遅刻だよ。まあ、しゃあないさ」
「進級のことも考えてくれよ。お前には高校は出てもらいたいんだ」
「わったよ。気を付ける」
「そうか」
九朗は笑った。
……。義之は九朗の笑顔に少し思考が止まってしまった。
「何してるんだ? 早く着替えて準備しろ!」
「ああ」
義之は玄関の扉を閉めて、家に上がった。
日が沈みかけている。この時間帯、逢魔が時から妖怪が出やすくなる。それと同時に人の心も闇に染まっていく。
「親父、今日はどこに行くんだ?」
義之達の白い装束は、街灯の白い光に照らされ、よく映える。
「少し遠くに行くつもりだ。結構歩くぞ」
「上からの指示か?」
「そうだ。なんだが妖気が立ち込めている病院があるらしい。今回は骨が折れるかもな」
「そうか。今日は那須川さんと九流さんと協力して祓いにいく」
「……そうか。分かった」
そう静かに義之は頷くと、そこに向かって下駄を鳴らした。
白い袈裟に烏帽子をつけていると、さすがに今の時代は目立つ。そのため、この服を着たら姿が普通の人間には見えないようになっている。そういう呪術をかけている装束であった。
やがて義之は九朗に連れられて、空き地に足を踏み入れる。そこには那須川家の当主、那須川凌空と由佳がいた。那須川凌空はとても優しそうな顔立ちをしている。二人を見つけると笑顔になった。九朗達は駆け寄る。
「これはこれは、那須川さん」
「いやあ、相模さん」
凌空と九朗がいつものように、挨拶の後、話を始める。
「ちょっと、義之」
「ああ?」
由佳が半笑いで義之に声をかけた。義之はからかわれると思って、不機嫌そうに返答。
「あんた、今日寝ずに起きてたでしょ?」
「それが何だ?」
義之は由佳の顔を見ようともしない。どうせ癇に障ることを言うのだろうと思っていた。
「やればできんじゃん!?」
「あ?!」
意外な一言に思わず由佳の顔を見た。とても喜んでいる。
「どういう風の吹き回し?」
由佳の笑顔に、義之はこわばった顔が緩み、恥ずかしいのでそっぽを向いた。
「別に……普通だろ……」
「そんなことないよ!」
義之は頭を掻いた。
「学校、親父が高校は出て欲しいって言ってるから、卒業はしないとなって……」
「偉い!」
「うるさいな! ほっとけよ」
そんな中、この空き地に足を踏み入れた二人組がいた。
「おーい。九流さん」
九朗が呼びかけた。
九流家当主、九流忠行とその子、空也がいた。
九流忠行はすぐに親父達の輪に入った。空也は義之達の傍に近寄ってきた。短髪で、バスケットボール選手のような高身長に似合わず顔は童顔の空也は女性から可愛がられそうな風貌である。空也の父親の忠行は高身長なのは変わらないが、凛々しい顔立ち、空也はきっと母親似なのうだろう。
「おーい。義之、由佳」
「おう」 「うん」
二人は思わず笑顔がこぼれた。こうやって、三人が共同で祓いに行くのは数か月ぶりだった。三人は七歳の頃から共にお役目をしているため、幼馴染と言っていい仲だった。
あと一人、幼馴染の東虎家の子、東虎透が呼ばれていないことが残念に思えた。
「今日は三家で共同で祓いに行くんだって?!」
空也が二人に話しかける。
「ああ、そうらしい」
義之が答える。
「それはよっぽどヤバい妖怪だな」
空也が腕組みをした。
「分からない、詳細はまだ聞いてないからな。なあ、親父」
義之が九朗に投げ返ると、当主達はもう話を止めていた。
「ああ、その通りだ……」
その九朗の言葉が耳に残った。
カランカランと六つの下駄の音が夜の街に反響する。
子供達は親達の神妙な顔もちに、緊張が走っている。九朗が義之に話しかけた。
「おい、義之、姑獲鳥って知っているか?」
「うぶめ?」
「ああ、姑獲鳥だ」
姑獲鳥とは難産のあげく死んだ妖怪のことだ。その姿は赤ん坊を抱き、下半身には血まみれの腰巻をまとっている。伝承では人を追いかけて赤ん坊を差し出し、「この子を抱け」と言う。その通りにしなければ祟られる。また抱くとどんどん赤ん坊は重くなり、身動きできなくなると言う。
「ああ、知ってるよ……」
義之は答える。
「でも、そんな強い妖怪じゃないだろ?」
それを聞くと、九朗は言った。
「ああその通りだ。そんなに強い妖怪ではない。しかし、姑獲鳥は特に人との怨念に関わりやすい」
「……ああ、その通りだな」
「妖怪そのものが怖いのではない。怖いのは人の負の心と交わったときだ。それにより、妖怪は恐ろしく巨悪の存在に変容してしまうことだ。いつも言ってるだろ?」
「そうだな。今回はそれほど怨念が強い相手だということか」
「ああ」
そう答えた九朗は前を向いて歩き始めた。九朗の話を聞いていた、子供たちは思わず固唾を飲んでしまっていた。いくら進んでも、闇から闇へと変わる景色は子供たちにとって異様そのものだった。
「着いたぞ! あの病院だ」
名切千代は三十五歳で未婚であった。容姿に恵まれていた訳でもなかったため、男とこの歳まで関係を持ったことはなかった。しかし、別にそれに不満を抱いていた訳ではなかった。仕事一筋。そういう言葉は行き遅れの女を弁護する言葉にしばしつかわれる。しかし、そんな負け惜しみ、負け犬の遠吠えみたいな考えは彼女にとって全く無かった。
本当に男性に興味を持てなかったのだ。そして、別に言い寄られることが無かった。
だからこの歳になって、それは初めての体験だった。
事が始まったのは残業をしていたときだ。名切千代は残業で夜遅く一人、オフィスに残っていた。まだまだ帰れない。そう思って、パソコンの前で伸びをしていた時だ。
上司の課長がドアを勢いよく開けて入ってきた。そして名切千代に言った。
「おい! 誰だ。こんな時間まで名切を残した奴は!」
「課長こそ、どうして?!」
名切千代は戸惑った。何故、課長である国山正志がここにいる!
「そんなことはいい! 誰だ、残業を命じたのは」
「私は自ら……」
「そんな訳ないだろ?! 誰だと聞いている」
「市川部長です」
「市川か! クソッ!」
とても部長である上司に対して抱く感情に見えない。もの凄い怒りが感じている。収まった頃、ぼそりと国山が言った。
「名切、手伝ってやるよ」
「……はい」
数時間二人で業務をして、とりあえずのところ片付いた。
「終わったな名切」
「はい!」
名切千代はなんだか心に温まるものを感じようになっていた。ずっと一人でいい、自分は仕事だけであればいいと思いこんでいた。しかし、こんなに嬉しい感情は久しく覚えがない。
「名切、終電逃しちゃったな」
国山が伸びをしながら、言った。
「はい」
「どうするつもりだ?」
「ビジネスホテルに泊まろうかと」
「そうか、良かったら、どうだろう今晩一緒にいてくれないか?」
「はい?!」
突然の同衾の誘いに戸惑った。
「……ところで、課長は何故、こんな時間まで」
課長は頭を掻いた。
「妻とうまくいってないんだ。もう僕の心は冷めているし、向こうも同じだと思う。家にも帰れず、その辺をうろうろしていたら、会社がまだ電気がついていることに気が付いてね」
「……でも、浮気ですよね」
「ああ、その通りかもしれない」
「いやです。帰らせてもらいます!」
私はオフィスのドアまで歩き、開け放った。
「君しかいないんだ!!」
国山は突然、声を張り上げた。その言葉に名切千代は足が止まってしまう。
「……部長、なんて……」
「君しかいないんだ……」
「それは、私が好きってことですか?」
「ああ、その通りだ」
「……嘘……」
思わず口を手でふさいでしまった。全てが初体験だった。男の人に優しくされたこと。男の人に誘われたこと。男の人に愛の告白を受けたこと。しかし、相手は奥さんがいる人。決して許されることではない。頭では分かっていた。それに、こんなすぐに誘うような男は信用できないことも。それでも、頭が心がとろけてしまいそうな感覚に名切千代抗えなかった。
とあるラブホテルの一室に二人はいた。正直痛かった。こんなに痛いものなのか? 性行というものは。でも、でも幸せだった。
名切千代は顔を赤らめて、布団で自らの体を隠した。そんな姿を裸の国山は見ている。
「名切、幸せにするよ。部長の件ももちろん、これからお前を守ってやる」
名切はコクリと首だけを動かした。
次の日、国山は部長に残業の件を訴えた。部長は禿げた頭を掻いて、言った。
「分かった、今後気を付ける」
国山は有言実行の男だった。それは名切千代にとって信頼を得ることと同義だった。
それからというもの、時々、名切千代と国山はラブホテルに泊まることを続ける。
もう、名切千代は『愛』というものを知り、そして信じてやまなかった。
ある日、ベッドの中で名切千代に国山は言った。
「もう、妻と別れようと思う」
名切千代にとって、これ程嬉しいことはなかった。そして、名切は自分の体の変化を打ち明けるには今だと思った。
「嬉しい! 課長、別かれて、結婚してくれるんですね」
「ああ」
「私、悩んでいたことがあって……」
「なんだ?」
「あの、このお腹に……」
課長はその言葉に思わず目を丸くした。構わず、名切千代は続ける。
「あなたの赤ちゃんがいるんです」
「何!? 本当かそれは」
「はい!」
嬉しそうに話しかける名切千代に対して、国山の顔は青ざめていた。
「……いつ生まれるんだ?」
「もう、三か月になります」
「そうか……」
国山は背中を向けて、それ以降一言も話さなくなった。ときどき親指の爪を噛んでいる。
その時まで、名切千代はまだ何も気づいていなかった。
それ日以降、国山は名切千代に会社で何も話しかけなくなった。また、ホテルに誘われる事も無くなった。名切千代はそれを不審に思わなかった。会社で噂が立たないようにしているのだろう。何より、課長は自分と結ばれようと約束してくれた。自分を愛してくれている。課長に限ってそんなことはない。そう固く信じていた。
しかし、そんな思いが募らせるたびに、国山との距離が離れていく錯覚に陥る。何よりとても寂しさを抱いていた。
名切千代の不幸はまだまだ続いた。突然、下腹部がとても耐えられない程の痛みを感じ、陰部から血液が飛び出た。名切はすぐ近くの病院に救急車で運ばれた。
手術室を出た後、医者から聞かされたことは、流産したという事実だった。
名切千代は全てを失った感覚に襲われる。何故、私がこんな目に。あの人の、大切な人の子供を宿したというのに、もう二度と無いかもしれないのに……。
涙を流して、病室のベッドに潜りこんでいると、見舞いに国山が来た。
「名切!」
「課長!」
「どうした? どうなった?」
名切千代は国山に抱き着いて泣き始めた。戸惑う国山。そして、名切千代は国山に言った。
「あなたの子、もう産めない。流産しちゃった、ごめんなさい」
しかし、心の中が悲しみに満ちていた名切千代に向けて、国山の放った言葉は残酷そのものだった。
「よかった」
それ以上何も言わなかった。そして、ゆっくりと病室から出ていった。
名切千代は耳を疑った。しかし、きっちりその言葉は耳の中に残っていて、それを認識すると、辺り一面が真っ暗になる錯覚に襲われる。冷たい体を両手で抱きしめて、震えていた。
―――そんな訳がない、きっと聞き間違いだ―――
そう、一心に信じ込むしか、精神を持たせる方法が無かった。
退院後、名切千代は会社に戻った。しかし、もう国山は口も聞いてくれなくなっていた。
名切千代は会社が終わった後、国山をつけることにした。しかし、その先は意外にも自分が入院していた病院だった。頭に大きな疑問を残しつつ、国山が入っていった病室を見た。
声が、声が聞こえてきた。それは、国山と女の声だ。
「あなた、もう産まれるんですって!」
「そうか、よくやった。お前」
「ええ」
名切千代はもう耳を疑うことはしなかった。病室の扉を少しだけ開けてみる。そこには国山と国山の妻であろう者がいた。妻はお腹が大きくなっている。
それを確かに確認した名切千代は全身の毛が逆立ち、口が裂けていた。怨念が体中を包み、そして、立ち昇る。
不意に肩を叩かれた。そこには、下半身には血まみれの腰巻をまとっている女がいた。
しかし、名切千代は何も驚かなかった。
病院の裏庭にその女につれていかれた。
「そうか、姑獲鳥というのか、お前は」
「ああ」
「あの男が憎いか?」
「ああ、いや、私は最初から遊び、いや相手にもされていなかったかもしれない」
名切は強い歯ぎしりしながら話している。今にも自分の舌を噛み千切ってしまいそうだ。
「私はお前の怨念に引き寄せられた。さあ、お前の望みを言え!」
「あの男の幸せを滅茶苦茶にしてやる!」
「そうか、いい方法がある」
「なんだ?」
「私は姑獲鳥。難産のあげく子供を死産した女の妖怪だよ」
「それで?」
「お前も同じだろう?」
「ああ、似たようなもんだ」
「それならば、お前の子供を蘇らせてやろう。妖怪としてな」
「なんだって!?」
「見た目だけだよ。確かに魂の一部はそうだろう。しかし蛭子のようなもんだ。ほぼ死んでいる」
「ひるこ……」
「それで、それをどうするって言うんだ?!」
「お前は、あの男の妻が生んだ赤ん坊を抱いているときに、私が作りだした赤ちゃんを抱かせるように頼むんだ。そうすれば、断れば女は呪い殺され、抱けば女は身動きがとれなくなっていずれ死ぬ」
名切千代は高笑いをした。
「それはいい」
「ではお前の子を作るとするか……」
姑獲鳥の腹は突然大きくなり、自ら陰部に手を突っ込み、赤ん坊を取り出した。
「……それがこれか。とにかくやってみるよ」
そう言うと、名切千代はその、形だけの赤ん坊を抱きかかえ、新生児室にゆるりと向かった。
異様な妖気が立ち上っている病院だった。有名な大きな総合病院なので、見たことはあるが、外観はピンクの壁に覆われ、優しそうな看護婦がよく患者を車椅子に乗せて庭を散歩させている、のどかな病院だった。しかし、今日に至ってはまるで違う。ピンク色が夜から作り出される闇によって、紫色に変色しているように見えた。そして、その紫の色が空高く昇っている。妖気か、これは。こんな病院の建物全体を包みこむような強大なものは見たことがないと義之は思う。
他の子供達はこの光景を見て、思わず立ちすくみ、体をひどく震わせている。
「……これは一体、どうなってるんだ?」
義之が九朗に聞いた。
「姑獲鳥がいる証拠だろう。そして姑獲鳥以上に、とても強い怨念を持つ人間がいることに間違いない」
九朗達、大人は顔を見合わせ、夜の病院に足を運ぶ。子供達はすぐに動けない。
「おい、早くしろ!」
那須川凌空が喝を入れた。子供達はハッとして、大人達についていく。
病院内に入り、全員産婦人科の病棟に行った。そして、新生児室の近くの角で身を隠す。
「何故ここに隠れる必要があるんだ?」
義之が九朗に聞く。
「当たり前だろ、怨念のある人間と妖怪には俺達の姿が見えるだろ? それに相手が姑獲鳥なら必ずここに来るはずだ」
「ああ、そういうことか。ごめん」
「ちょっと相模さん、静かに」
そう九流忠行は注意した。
「すみません」
九朗は義之の頭を下げさせながら、謝った。
「誰か来ましたよ」
九流忠行はささやいた。
「あら、国山さん、赤ちゃんが気がかりですか?」
看護婦が若い女に声をかけていた。
「はい。主人との初めての子供なんで……。心配で」
「大丈夫ですよ。元気な男の子ですよ。お子さんは」
「……そうですか」
若い女は何か物足りなそうな顔をした。
「あ、国山さん、また抱いてみたいんでしょ? ちょっと待ってくださいね」
看護婦は新生児室に入った。若い女はそれを棒立ちして待っていた。そして看護婦が抱きかかえて出てきたところを見ると、顔に花が咲いた。
「はい、国山さん」
上機嫌そうに、子供を受け取った。
名切千代はゆるりと近づいた。義之達はそれに気づくのに時間がかかった。その怨念はあまりもここの妖気と溶け込んでいたためだ。
「行くぞ!」
少し遅れて、九朗が声を上げる。その声は皆の聴覚を刺激させ、止まっている全員の体は俊敏にさせた。
「可愛いお子さんですね。抱いてみたいです。私の子を抱いてくださらない」
「はい、分かりました」
「ノウマクサンマンダ バラサダンセンダ マカラシャダソワタヤ ウンタラタカンマン」
不動金縛りの法。義之達、妖怪を退治している組織は、中世、いやもっと前の古代日本から存在していた修験道の流れを組む組織である。修験者は古来より、霊験あらたかな存在として、宗教者として地位を固める一方、呪術を用いることで、民衆の力になってきた。
時には万病に効く薬を作りだし、民衆に渡したり。時には祈祷をし、雨を降らしたり。また時には邪を祓う。すなわち、怨霊や妖怪を退治してきたのである。この組織は別に名称がある訳ではない。一応束ねている者や序列はあるというものの、日本全国の地域に散らばって活動していて、民衆を救うことを代々お役目としてきた。それは、それだけ民衆と近しい存在だった証である。しかし、戦後、GHQの政策により公に出ることが出来なくなった。
そうして影の存在になったものの、今でも民衆のためにお役目を果たしている。現在では主に邪を祓うお役目、つまりは妖怪退治を専門としている組織となったのだ。
「おい、相手は人間だぞ、相模。あまり痛めつけるな」
そう言ったのは九流忠行。臨戦態勢になると、大人達はため口になる。
「分かってる。しかし、抱えているものが問題だ。あれは妖怪よりたちが悪い。怨霊の塊だ」
印を結び、大量のエネルギーを消費しながら九朗は言った。
「キャア―――!!」
若い女や看護婦は悲鳴をあげた。それはそうだろう。名切千代が急に身じろぎすらできない状態で棒立ちになっている。それに九朗達が見えないせいで、幽霊がいると錯覚をしているに違いない。若い女は動けず、そして看護婦は一目散に逃げて行った。
「おい、でも肝心な姑獲鳥がいないぜ」
那須川凌空が皆に言う。
「まず、あの赤ん坊をどうにかしないと、あれは必ず人類に大きな害悪になりえる」
九朗は頭皮から大量の汗をしたたらせながら言う。
「滅せるか?」
那須川凌空は言う。
「馬鹿いえ、あんなものに、『真名』などない」
「そうか、どうする?」
「分からない。こんなケースは初めてだ。あれは姑獲鳥からというより、あの女から作られた怨霊の塊と言っていい」
「とにかく姑獲鳥だ。探し出して先に殺る」
すると、高笑いが聞こえてきた。その声の主は姑獲鳥だった。
「その必要はない。来てやったよ」
那須川凌空と九流忠行は九朗と顔を見合わせて頷く。その様子を見た、姑獲鳥が言った。
「おいおい。私がアンタ達に勝てる訳ないじゃないか?」
「まるで飛んで火による夏の虫だな」
そう言った、那須川凌空は印を結び、唱える。
「ノウマクサンマンダ バラサダンセンダ マカラシャダソワタヤ ウンタラタカンマン」
さすがに妖怪だけあって、少しは動ける。しかしそれは計算通りだった。
「さあ、楽に死にたければ真名を言え」
姑獲鳥は無理やり声帯を動かしながら笑っていた。
真名とは妖怪の名前のこと。妖怪は真名が、正体が分かるとこの世から消滅してしまう。それ以外完全に滅することは、いくら修行を積んだ者でもできない。それはこの世の摂理であった。
そのため術者ができることは、妖怪に拷問で真名を吐かせ、退治する他ないのだ。その代わり拷問の仕方は数多く術者は習得している。それも、死んだ方がマシと思えるくらい。
「おい、いつまで笑っている」
そう言った九流忠行は印を結ぶ。そして、拷問を始める。子供達も加勢しようと印を結ぶ。
「アビラウンケン」
この呪文は妖怪によって効果は違うものだ。姑獲鳥の場合は全身の皮が引きちぎれた。
姑獲鳥があげた声は断末魔そのものだった。しかし、その後も術をかけ続けたが、一向に姑獲鳥は真名を明かさない。拉致があかない。そんな時、虫の息当然の姑獲鳥は言った。
「私を殺すしても、それは存在し続けるぞ」
「……」
その発言は痛い所をついていた。たとえ今、姑獲鳥を消したところで、この赤子は残る。この赤子の負の気はきっと人間界にとても大きな害をもたらすだろう。状況は何一つ好転していなかった。
すると義之が聞いた。
「お前なら、なんとかできるとでも言うのか?」
「ああ」
「おい! こんな奴の口車に乗せられるな! なんか魂胆があるに決まってるだろ?」
九朗は義之を制するように言う。
しかし、義之はそのまま姑獲鳥との話を続ける。
「どうするんだ?」
「私はもう、その赤子を処分する力はない。だから女と私をくっつけな。責任を持って処分してやるよ」
「馬鹿、義之、こんな奴の話聞いては駄目よ!」
「おい! 先走るな義之」
由佳と九朗は必死に止めようとする。
「結!」
二人の忠告は虚しく、義之は印を結んで姑獲鳥と名切千代を融合させた。
「馬鹿野郎! なんてことをしてくれたんだ!」
九朗の言葉にはこみあげる義之に対する怒り、そして、最悪な事態になったという虚無感があった。
「どうしたのさ?! 皆」
全員、この状態に虚脱しそうになっている。
「解をしたら済む話じゃないか? そしてその後、コイツを退治したら……」
それを聞いていた姑獲鳥は薄気味悪い笑いをしていた。
義之が言っている、解とは対象を分離させる術。そして唱えた結とは逆に対象を一つにする術だった。
「お前な、妖怪と人間を結したことないし、また解したこともない。そんな機会めったに無いからな。しかしな、人間と妖怪を一緒にして、分離したらどうなる?」
「えっ……」
九朗の言葉に初めて今、目の前で何が起こっているか? 自分が何をしたか実感してくる。一筋の冷たい汗が頭から地面に落下していった。
「まず、人間の体が持たないことに間違いないだろ」
その九朗の言葉に義之はゆっくり首を下に向けた。姑獲鳥の高笑いだけが病棟に反響する。
「さあ、お前達はお前を殺せなくなった。終わりだな」
そう言うと姑獲鳥は腰を抜かしていて立てない女に目をやる。
「まず、血祭にお前からだ。そして、くだらない真似をしてくれたお前らも始末してやるよ!」
姑獲鳥はさっきまで拷問を受けていたのがまるで嘘のようだ。完全に生気を取り戻している。
「さあ、抱け!」
腰を抜かして立てない若い女は、戸惑っていた。まだ何が起こっているか? 理解していない様子だ。ただ状況的に、女が女と合体して、見えないものが、会話をしている。ただそれだけしか認識できていない。それが混乱へと導き、わが子を必死に守るようにただ強く抱きしめていた。
「女、やめろ! 言うことを聞くな!」
「とにかく逃げるんだ! それしか生きる道はない!」
皆、必死に訴える。すると、女は深呼吸をした。
「あの……。目に見えない、私に話しかけている皆さん、抱いたらどうなんですか?」
突然、落ち着きを払ったと思ったら、自分達に話しかける若い女の行動に意表をつかれる。
「馬鹿なことを考えるな! 逃げるしかないんだ」
九朗は必死に訴えかける。
「だから! 抱いたらどうなるんですか?」
「……それを抱いたら、身動きがとれなくなって死ぬんだよ」
「そうですか」
それを聞くと、自分の子を優しく床に横たえて、ムクッと体を起こして立ち上がった。
「それって、かわいい赤ちゃんじゃないですか……ひどい……」
その女の言動に皆、目を丸くする。
「おい。まさか……」
那須川凌空はぼそりと声をあげる。
「私、抱きますよ。この赤ちゃんにもきっと愛が必要」
「ハハハ、馬鹿どもの忠告を聞かず、自ら死を選ぶか。まあ、死期が早まったにすぎんがな。よかろう」
そう言って、姑獲鳥は若い女に赤ん坊を渡した。
那須川凌空は止めに入ろうとしたが、もう遅かった。
「いい子。いい子」
女は優しく、抱擁した。
「……終わりだ」
そうつぶやいたのは義之。もう自分がやってしまったことに悔やんでも、悔やみきれない。皆もこの状況に絶望を抱いていた。しかし、そんな時だった。かすかに聞こえた響きがあった。その音に皆、耳を疑った。
「なんて……」
由佳や空也がこぼした。
「お父さん」
今度は確かに聞こえた。
抱かれている者は言葉を放っていたのだ。
「何?」
優しく、語りかける若い女。
「匂い……お父さんの匂い」
「そ、そんな馬鹿な!」
姑獲鳥は苦しみ始めた。
「……私、気づいていたんです。あの人が浮気していることを……」
若い女は涙を浮かべていた。
「ごめんね! 本当にごめんね!」
「泣かないで」
予期せぬその光景に皆、唖然としている。その物は者だったのだ。当たり前だが、姑獲鳥であっても、自分一人で生物を生成することなどできない。だから、名切千代の子として産まれるべくした子の魂を用いることでそれを可能にしていた。しかし、この魂が完全に怨念に汚染されてはいなかった。そして、それは親である名切千代にも同じことが言えた。
苦しみ始めた。名切千代。もだえ苦しみ、そして体から負の気がどんどん抜けていく。
姑獲鳥が必死にこらえていたが、負の気の流出を止めることはできなかった。
そして、大きな負の気の塊が抜けだそうとしていた。まるで母が子を産むように。
完全に抜けだしたら、どんどん紫色が消え去り、まるで人畜無害のような姑獲鳥がそこに立っていた。
「親父、これは一体……どういうことなんだ?」
義之が九朗に投げかける。
「姑獲鳥は女ではなく、負の気と同化していたということだよ。つまり、今、女の怨念が完全に無くなった今、姑獲鳥は女から分かれることができた」
「そんなことあるのか?!」
「きっと、そういうことなんだろう」
九朗は頭を掻いた。
名切千代も生まれ変わったかのように、無垢な姿で立っていた。次第に、大粒の涙を目に含ませ、それは流れ落ちていった。
「ごめんね。こんなお母さんで……。本当にごめん!」
そう言って、若い女から自分の子を受け取った。
「ごめんなさい」
「いいえ、私の方こそ、あなたに辛い思いをさせました。ごめんなさい」
その言葉を聞いて、名切千代は膝を崩して、号泣してしまった。
「私、何てことを……」
「気になさらないで下さい。あなたはこれからも強く生きて! 幸せになれますよ!」
「ひゃい」
泣き声が混じった言葉だった。
「あの、この子はいつまで生きられるんですか?」
そう、若い女が九朗に話しかける。
「そんなに長くはない。本来、妖怪の力によって作られたもの、この赤子の命を繋ぎとめている物が怨念であるから、それが無くなれば、今すぐにも消滅することはあり得る。」
「そんな……」
名切千代はとても悲しい顔をした。
「よければこちらで対応するが」
「対応ってどうする気なんですか?」
「せいぜい、その子の幸せを願って、供養するぐらいだ」
九朗が答えた。
「それって、結局、死ぬまで待つことしかできないってことでしょ?」
皆コクリと頷く。二人とも見えている訳ではないが。反応は分かった。
「……例えば、さっきみたいに、一緒にするぐらいできないんですか?」
「駄目だ。その子は本来、生まれてきていい存在ではない。それはこの世の摂理に反する」
「なんで?! なんでそんなこと言うんですか……」
必死に訴える、若い女に名切千代言う。
「いいんです。この方々が言うとおりです。本来、存在してはならないもの」
「この子の最期まで、せめて二人にさせて下さい……。ありがとうございます」
「……そんな、そんなことって……」
若い女はとても辛そうにうつむいた。
「あの……」
姑獲鳥が突然話しかけた。女たちは身構える。
「お前はもうどっかいけ! 消えろ!」
二人は拒絶反応をした。
「……できれば、私に授けてくれませんか? 私が黄泉の国につれていきます。そうすれば、この子はそこで存在を維持することができます」
「あんた、なんか信用できる訳じゃない! もう、どっか行って!」
金切り声をあげて、名切千代は言う。
それを遮り、九流忠行が言う。
「俺達はお前をまだ、完全に信用している訳ではない」
「どうか、信じていただけませんか?」
「……」
姑獲鳥は真剣に訴えている。その姿は純真に見え、とても害意があるようには見えない。
「九流さん、とりあえず話を聞こうじゃないですか?」
そう那須川凌空が言った。九流忠行は頷く。
「それは可能なのか?」
「はい。そもそも私はそういう妖怪ですので。私が作り出したものには、妖怪としてなら、生命維持できる力を持っております。しかし、妖怪として黄泉の国で生きることになりますが」
「そうか……」
大人達は顔を見合わせた。
「分かった、お前を信じてみるよ」
九流忠行は心を決めたようだ。その様子を見て、九朗は言う。
「今の話の通りだ。姑獲鳥が黄泉の国に連れて行ってくれる。そうすれば、この消えそうな命も助けることができる」
「黄泉の国って、要はあの世のことでしょ? 死ぬんじゃないんですか?」
「一般人にあまり詳しく話せないんだが、黄泉の国は妖怪の本来いる場所で、決してあんた達が抱いているような、悪い所ではないんだ」
「でも、妖怪になっちゃうんですよね?」
「そうだとして、この子は不幸な目を合うことはない。存在し続けることはできるんだ。今の状況で最善の選択なんだ」
「そうですか……」
まだ、半信半疑な二人に、姑獲鳥は言った。
「信じてください」
あろうことか、姑獲鳥は二人に頭を下げて言った。
「本当に申し訳なかったです。でもこの子を向こうで、大切に守ります」
妖怪といえど、姑獲鳥は女の妖怪。そこには母性が現れていた。
それを聞いて、ようやく二人は信じることができた。
「分かりました。あなたに任せます」
「はい」
姑獲鳥は答えると、義之達を見た。九朗は姑獲鳥に尋ねる。
「そろそろ行くのか?」
「はい。本来黄泉の国の住人です。私は戻らなければ」
そう言って、名切千代から赤ん坊を受けとろうとする。
「嫌よ! もう少しだけ……」
「駄目だ」
そう強く九朗は訴える。女は震える手で、姑獲鳥に赤ん坊を渡した。
「では、そろそろ行きます」
「はい」
名切千代は涙が止まらない。もう、抑えることなんてできる訳ない。そんな様子を見て、姑獲鳥は優しい笑顔を見せた。
「いつか、きっと会えますよ」
「えっ……」
女はその言葉に驚いた。
「ところで姑獲鳥、お前どこから来たんだ?」
そう、九流忠行が尋ねる。
「あそこの病室に黒き泉の一部が湧き出ています。そこから人間界に来ました」
姑獲鳥は廊下の端の病室を指さした。
「おい! それってどういうことだ?」
「分かりません。十三年前、私は強い負の気に憑りつかれていました。そして、あの百鬼夜行の一員になってしまったのです。私はその時に封印された妖怪の一人です」
九朗は大人達と顔を見合わせた。
「分かった。対処は任せろ」
「お願いします。では……」
まるで何も存在しなかったかのように、姑獲鳥はその場に存在を消し去ってしまった。女達はそれを見てまるで気が抜けてしまった。その後、また涙を流し始めた名切千代は、皆に問いかけた。
「あの子は幸せになれますよね」
九朗ははっきりと答えた。
「ええ。心配いらない」
三
「義之、今回の件はたまたま上手くいったが、金輪際、ふざけた真似をするな」
九朗が厳しい顔で言う。
「ごめんなさい」
義之は素直に頭を下げた。今回の一件で自分があまりにも迂闊で、愚かしい行動をとったことにとても責任を感じていた。
「まあいい。次から行動で示せ」
「はい!」
ずっとしょげたままでいると、空也や由佳がからかった。
「お前、怒られてやんの!?」
空也が舌を出した。
「うるせーな!」
頭を強く掻きむしる義之。
「まあ、何事も経験。経験」
「お前、何で励ましてるくせに、半笑いなんだよ」
由佳は今にも噴き出しそうだ。
「おい、お前らあんまりしゃべんな! 目立つだろ!」
那須川凌空が怒った。
「もう、遅いよ。お父さん。病院中、大騒ぎになっているよ」
由佳が言う。
「まあな、姿が見えないだけ救われているが……さっさと黒き泉を調べて退散せねば」
「その、黒き泉なんですが、那須川さんはどう思われます?」
九流忠行が那須川凌空に話しかける。
「分かりません。おそらく現世における特異点が現れただけではと思います。そうであればいいのですが……相模さんはどう思われますか?」
大人達はもういつも通り敬語をつかって会話をしていた。しかし、その質問を受けて九朗はハッとしたように思えた。そして慌てて言葉を口にする。
「分かりませんよ。まず確認が先です」
……何かあるのか? そう義之は思った。そんな反応だった。そもそも、先ほどから話に出ている、黒き泉とはなんだ。
そして、真っ暗な病室に足を運んだ。扉を開けて、中を確認すると、誰もいないようだった。
「ここですね」
「はい」
大人たちは、皆を中にいれ唱える。
「ナモ カリテイカ ナコサタラ ソワカ」
九朗は印を結びながら唱える。九朗の眼前に空間に宙を浮く小さな炎が出来る。暗い病室はゆらゆらとその炎に照らされる。
そして、皆で病室の中を調べる。
「どうやら、ここのようですね」
九朗が二人に向かって言う。二人は頷く。そこには、まるでマッチがあげる少しばかりの微量の煙が床から立ち上っていた。しかし、この世のどんなものよりも黒かった。義之の鼻につく。水蒸気か……。
「……その黒き泉ってなんだよ?」
義之は当然、今まで疑問になっていたことを口にする。那須川凌空は眉間に皺を寄せた。炎に照らされたその顔は厳格さを伺えた。
「……百鬼夜行は知っているか?」
那須川凌空は義之の顔をじっとみる。
「はい。十三年前に起こった、妖怪の大量発生、それがこの街を襲ったことでしょ」
子供たちは神妙な面持ちで頷いた。
「ああ、その通りだ。しかし、それ以上のことは詳しく説明を受けさせてないと思う」
「どうしてですか?」
「百鬼夜行が起こったことで、人々の妖怪に対する恐怖を煽ってしまう。そのため、百鬼夜行が起こったこと自体、私達も、上部もあまり口にすることを避けているからだ」
「それで、百鬼夜行と黒き泉はというものは、どう関係しているのですか?」
空也が那須川凌空の顔を見る。
「百鬼夜行が起こった、十三年前。私達はもの凄く夥しい数の妖怪の出現にもう、太刀打ちできなかった」
子供達は静かに頷く。
「前回の江戸時代まで、百鬼夜行は起こっても、術師達が全て滅していたが、現代になって、術師達はもう数と力ともに抑え込める程の力がなかった。そのため、秘術を使ったのだよ」
「前回? 百鬼夜行は過去にも何度も起こっているんですか?」
そう義之が質問する。
「ああ、百鬼夜行はだいたい、二百年に一度、自然発生的に起こる」
那須川凌空は頷いて、話を続ける。
「その秘術とは黒き泉と呼ばれる泉に全ての妖怪を封じ込めるものだった。そういう秘術を使う他なかった。今回の百鬼夜行の親玉である、天狐に黒き泉を出現させてもらい、連れてきた大勢の妖怪ともに、黄泉の国に落ちて行ってもらったのさ」
「出現させてもらい?」
義之はその言葉遣いにひっかかった。
「天狐の強力な力を逆に利用したのさ」
「……そうですか」
子供達にとっては初めて聞かされる事実だった。しかし、それを話が終わるまで九朗の顔はずっと険しかった。
「那須川さん。また後に義之には私から話しておきますよ。しかし、これは一体どういうことなんでしょうか?」
気持ちを切り替えたのか? 九朗は表情を戻し那須川凌空に聞く。
「まあ、これだけではなんとも言えませんが、とても小規模のもの。これでは姑獲鳥一体ぐらいしか、ここから抜け出せていないでしょう」
「そうですか? で原因は?」
「あまり深く考えすぎても杞憂かもしれませんよ。とても小規模ですし、偶発的にできたと考えるのが妥当だと。とにかく封じて、黄泉の国に返しましょう」
「そうですか……」
九朗は少し腑に落ちない顔をした。
「相模さん、九流さん。そして、お前達、ちょっと離れていて下さい」
那須川凌空は全身の神経を奮い立たせ、鬼気迫るような表情をして印を結び唱えた。
「封! 滅!」
黒い煙はもうたたなくなった。もう、完全に普通の病室に戻ったのだ。
深呼吸をして、那須川凌空は緊張を解いた。
「これで大丈夫です。帰りましょう。もう病室の前に人だかりができていますよ」
後ろを振り返ると、病室の前に人がごったがえしになっている。
「やばいな。これ、マスコミ来たら面倒だ」
空也が言った。
九朗は印をまた結び、火を消すと。静かに病室の扉に行き、勢いよく開け放った。
近くにいた人は腰を抜かしている。
「行きましょう。厄介なことになる前に」
「はい」
そうして皆、早足で病室から出た。さっきのが怖かったのか? 通った所に人々は道を開けてくれた。
帰り道、満月の光に照らされた六人がいた。
「終わりましたね」
そう那須川凌空が言った。
「はい」
「今回の件は私が上に報告しときます」
「……はい。お願いします」
九朗はなんだか納得いってない顔もちだった。
「大丈夫ですよ。きっと杞憂ですよ」
那須川凌空が九朗の心配を払いのけようと言う。
「分かりました。任せましたよ」
「はい! それでは私達はここで。また組む機会がありますので、お願いしますね。相模さん。九流さん」
「はい」
そう言って、那須川凌空と由佳は夜の闇に紛れて行った。
「どうしたんだ? 親父」
義之は九朗の様子に気をかけた。
「なんでもないさ」
四人になった皆に笑顔を見せた。
「それでは私達はこれで……」
「はい、相模さん、お気を付けて」
「はい」
空也はニタッと笑った。
「またな、義之」
「おう」
九朗と義之は二人で家路に急ぐ。
「さあ、親父、急いで帰るぞ! 寝る時間ないんだ!」
「ああ、学校遅れんなよ! 競争だ!」
―――黒き泉か……。お前、義之は元気に育っているよ。お前は心配しなくていいからね―――
「おはよう。親父」
「ああ、今日は早かったな」
キッチンでベーコンエッグを作っている九朗と顔を合わせる。
「昨日、大変だったろ?! まだ少し寝てていいぞ! 起こしにいってやる」
「いいよ。学校大事だもんな」
「そうか!」
とてもにこやかな笑顔で九朗は言った。
朝のホームルームまで時間にゆとりがあるので、義之はゆっくりベーコンエッグと食パンを口に運ぶ、そしてコーヒーを一気に飲み干した。
「んじゃあ、準備して行ってくるわ」
「ああ、気を付けてな」
「親父は今日どうするんだ」
「一緒さ、お前が帰ってきたら、お役目に行くさ。今日は東虎さんと一緒だ」
「そうか、透ん家と一緒か? 強いのか?」
「いんや。特に聞いていない」
「それで、それまでは?」
「一応、昨日の件、那須川さんにお任せしたろ? でもな。さっき連絡取って九流さんと俺も一緒に上に報告することにしたわ。那須川さん、別にいいって言ってたけどな」
「そうか、頑張ってな」
そう言いながら、高校に行く支度をするため階段を上がって、自分の部屋に行った。九朗は玄関で見送るために扉の前に向かう。
「それじゃあ行ってくる」
「お前も頑張ってな」
「おう!」
高校には余裕で間に合った。教室に入った義之は自分の席に鞄を置いて、窓側に行く。運動部がまだグランドで朝練をしている。こんなに早く学校についたのは初めてだ。
「おはよう」
背後から声が聞こえる。由佳だ。
「こんなに早いのに、どういう風の吹き回し?」
「言ったろ、高校は絶対に卒業するんだって」
「そう、進学は考えてるの?」
「いんや」
義之は首を振った。
「俺達の進路は親父の跡を継ぐしかないんだから」
由佳は伸びをしながら、義之の隣に立った。
「そうだよね。私だって、大学行きたいよ」
窓を背にして義之は由佳を見る。
「憧れキャンパスライフ。リア充になるんだ! なんてね」
由佳は手を広げて笑顔で言った。
「そうだな。選択肢があるやつは羨ましいよ……」
「行けないことないんじゃない?」
由佳の質問に義之は驚く。
「なんで? あんたが行くと決めたら、私も行くよ」
真剣な顔で義之を見つめる。義之は頭をポリポリ掻いた。
「そんなに勉強する暇ないだろ?」
「ああ。もったいない。あんたの非モテ。高校時代にパッとしなかった男の子が大学に行って花開く!」
「そういうのはお前がいるから間に合ってるよ」
「……それもそうね」
別に驚きもしない、由佳。
「とにかく大学行くわよ。ちゃんと勉強しなさいよ!」
そう言って、その場から去ろうとする由佳。
「おい! ちょっと待て!」
由佳は無視して教室を出ようとする。トイレでも行くのか。
「チッ! 少しは勉強してみるか……」
義之はそう、つぶやいていた。
九朗は白い袈裟に烏帽子をかぶって、東京本部の前で待っていた。
「遅れてすみませんね、相模さん」
そう言って、やって来たのは九流忠行だった。
「いいえ、私も今着いたところですよ」
「おや、あそこに見えるのは……那須川さんも来たみたいですよ」
少し離れたところから、那須川凌空がやってくる。
「お待たせしました」
那須川凌空が二人に挨拶する。
「それでは行きますか?」
「はい」
声を揃えて、門をくぐろうとする。
東京本部と言っても、ここは郊外。広い敷地に古くて大きな木造の平屋が堂々と佇んでいる。九朗は玄関に入るまでの道で、庭を見る。松などの植木が立派で、小さな池がそれと相性がよく溶け込んでいる。見事な景観だった。
玄関に着いたら、本部長の奥さんが迎えてくれた。
「どうぞ」
「失礼します」
九朗達は家に上がった。
「どうして、また今日は?」
「少し気になることがあって、報告にと伺わせていただきました」
九朗はそう答えた。
「そんな、メールでいいのに」
「いや、そんな訳いきませんよ」
九朗は慌てて答える。そんな九朗を横目に那須川凌空は言う。
「まあ、報告には上がらせていただく気でしたが、相模さんの言うように三人でお邪魔することもないとは思っていましたよ。相模さんは心配性だ」
「そんな!? 那須川さん」
それを聞いて、九流忠行は笑った。
「いいじゃないですか。別に昼間は私達、暇なんだし」
「……それもそうですね」
二人は微笑みながら、大広間に足を運ぶ。しかし九朗の表情は固いままだった。
大広間には本部長の藤蔭博基が座布団の上にドスンと座っていた。大広間にある、掛け軸や障子の窓は古き日本の家屋の有り様をよく表れている。九朗達は正座をし、座卓の前で相見える。
「どうした? 相模、九流、那須川」
「あの、昨日、三家合同で私達はお役目に行きました」
口火を切ったのは九朗だった。
「ああ、知ってるよ。わしがメールを送ったからな」
そう言って、携帯の送信履歴を見だした。藤蔭博基は六十代の頭の禿げたおやじだが、最新の電子機器を扱っている姿はいつ見ても、九朗には違和感を感じていた。
「……それで、何があった?」
藤蔭博基が三人の顔を順繰りに見る。九朗は続ける。
「妖怪の正体は事前の情報通り、姑獲鳥でした。それをどう対処したかは、報告通りです」
「ああ、それは今朝確認した。ご苦労だったな」
「はい。しかし、その発生源が重要なのです」
「確か、黒い泉の煙が少し漏れているようだと言うことだな」
「はい」
「どれぐらいの量だ?」
その問いに対して、那須川凌空が答える。
「とても微量です。発生源から出ていたのは、煙草の煙にも満たないぐらいです」
「……そうか」
「どうお考えですか?」
九朗は藤蔭博基に真剣な目を向けた。藤蔭博基はうなって考える。
「皆の意見はどうだ?」
「あまり大きな現象ではないと考えています」
そう那須川凌空が言った。
「というと?」
「人間界も黄泉の国もこの世界であることに違いはありません。ですので、世界に少しの歪が起きただけと考えています」
「そうか、九流はどうじゃ?」
「正直分かりません。しかし、まだこの事例は一度しか起こっていません。そうなれば、それほど心配することもないのでは?」
「お前達は楽観視し過ぎだな。それはそれで問題があるぞ!」
藤蔭博基は少し声を張り上げていた。
「……で、相模。お前は、極端なことを言えば、黒き泉から封印された大量の妖怪が出てくる予兆だと考えている訳だな」
藤蔭博基の言うことに九朗は頷く。
「お前の心配は分かるが、もし最悪の事態になったら、我等にはどうしょうもないんだ」
その答えに九朗は意表を突かれた。
「どういうことですか?」
「そのままじゃ。もし最悪な事態が起こっても、それを抑え込む力がない」
「……打つ手がないってことですか?」
「我らに力があったら、最初から十三年前の百鬼夜行を抑え込むのに、お前の手……」
何か言ってはならないことを言ったのか? そこで口をつぐんだ。九朗も藤蔭博基を睨みつけていた。咳払いをして、話を続ける。
「とにかく現段階ですることは、黒い泉が出たら即刻、封印して滅せよ。百鬼夜行は未然に防ぐ以外方法が無い」
「そうですか……」
その情けない言葉に九朗はひどく肩を落とした。
「そんなに落胆するな。お前の想定通りにはさせやせんよ」
藤蔭博基は強く言い聞かす。
「はい」
「それにまだこの件が起こったのは一件に過ぎん。断定はできん」
「……はい」
ゆっくり九朗は頷く。
「あの、その想定が実現するなら、どういったことが考えられるんですか?」
そう九流忠行が質問する。
「まず考えられるのが、封印した天狐が弱っていることが考えられる」
「……天狐の力を利用して、百鬼夜行を全て抑え込んだと聞かされています。第一に考えられるのはやはりそうですか」
「ああ、しかし強力な力を持った大妖怪だからな。まず考えられんよ」
「そうですか……」
「お前達は考え方が甘いが、相模は重大なことと捉えすぎだ。さっきは弱気なこと言ってすまなかったが、もしそうだとしても未然に食い止めるから、そんなに心配しないでくれ」
「はい」
「それとお前達、このケースがお前達以外にも起こったら、早急に対策を打つ必要があるから、そのときはこの国全員の術師の力を用いて必ず食い止める。連絡があったら、来るように」
「はい。かしこまりました」
三人は頭を下げた。
「それでは、私達はこれで」
「ああ。お前、見送ってやれ!」
「はいはい」
襖を奥さんが開けた。そして玄関まで連れて行く。
「相談できましたか?」
「ええ」
苦笑いを見せる九朗。
「あの人ね。特別に強い訳でもないのに、あなた達みたいな人束ねているから、大変みたい。いつも自分責めてる。自分の決断は正しいのか? そもそも自分は本部長にふさわしいのかって……。こんな主人ですが、どうかよろしく」
奥さんの下げた頭に思わず、慌てる三人。
「分かってますよ。それに本部長は素晴らしい人ですよ」
九朗の励ましに、奥さんは笑った。
「ありがとうございます」
三人は東京本部の屋敷の前でしばらく立っていた。九流忠行が二人に話しかける。
「本部長とお話して気付いたよ。あまり楽観できないかもしれませんね」
「かと言って、あまり大きなことと捉えるのも、取り越し苦労かもしれませんよ」
そう返答する。那須川凌空。そして再び考えを巡らす九朗。
「とにかく夜ですな。逢魔が時、人間界と黄泉の国の境が曖昧になる時から朝方にかけて。妖怪が現れるその時に黒い泉が見当たらなければ、問題ない」
九朗が自分に言い聞かすように言った。
「そうですね」
二人は頷く。
「今日は私達はバラバラにお役目を果たすみたいです。ですので、何かあれば本部にもそうですが、すぐお知らせします」
そう那須川凌空が言った。
「はい。お願いします。私は東虎さんと今日は一緒なので、知らせておきますね」
九朗の言葉に二人は頷く。
「では、私達の街に帰りましょう」
義之は家の扉を開けた。
「親父、ただいま!」
「おう。帰ったか。義之」
白い袈裟を着て、顔を見せた。
「学校どうだった?」
「どうって普通だよ。それよりも行くんだろ?」
「ああ、早く用意しな」
襖を開けて、袈裟に着替え始める。その間、九朗に話しかける。
「本部行ったんだろ? どうだった?」
「まあ、今の段階ではなんとも言えんな」
「なにそれ?」
「まあ、何か分かったら教えるさ」
やはり何かあるのか? 義之は疑問を感じずにいられない。
「おい、ぼやぼやすんな。早く行って、早く祓う。寝る時間欲しいだろ」
「ったっく……」
太陽が沈みそうな時間帯、昨日の集まった空き地で義之達は立っていた。
「透が来るんだよな?」
「ああ、早く来る意味なかったな」
「おい!」
九朗は笑顔で言った。
「もうじき来るよ。ほら」
白い蛍光灯に照らされる姿が二人、あれは東虎家当主、邦孝とそれについてくる透だ。
「おーい。透!」
義之は手を振る。
「おう、義之」
二人は駆け足で向かって来た。
「すみません、相模さん。待ちました?」
東虎邦孝は小さな体だ。百六十センチぐらいしかない。しかし、顔、特に眼力がすごい。東虎家は代々、妖怪退治に関して、強い力を秘めている家柄だった。そう言った意味では一番強いのは東虎家である。だから、次の本部長はおそらく東虎邦孝が就くだろう。
そして、その強力な力を持っているのは透も同じだった。親の遺伝なのか。小さな体だが、まるでラグビー部員のような筋骨隆々。何より、目に宿っているものは強さとしか形容できない。
「お役目、なんで合同なんだ?」
透が邦孝に聞いた。
「本部長からの指令によると、特別強い妖怪が出るとかではないよ。探索範囲が単純に広いんだ」
「……そうなのか」
透と義之は頷く。そして九朗が説明し始める。
「まず、この空き地を拠点と考えると、直径一キロの範囲を俺達で回るんだ。妖怪は一反木綿。特に悪さもしてないが、住人が怖がっているので、見つけたら注意するだけだよ」
「そうか……。残念です」
透は肩を落とす。自分の力に絶対的自信を持っている透は、自然と闘うことを好む。妖怪に注意するだけだと、物足りないのだ。
「お、お前……」
東虎邦孝がわなわな、拳を握りしめている。
「何度言ったら分かるんだ。妖怪は敵ではない。ただ、俺達と住む世界が違うだけ。人間界に現れたからと言って、退治したら黄泉の国の住人に申し訳が立たんだろ?」
「はいはい。耳たこだよ。怨念と交われば、悪鬼に相当。愛を持って接すれば、神様なんだろ」
「そうだ。馬鹿な発言と行動を慎め」
「まあいいじゃないですか? 東虎さんも昔、似ていましたよ」
それを聞いて、東虎邦孝は慌てる。
「そんな、昔の話はよしてくださいよ。相模さん」
「親父もそうだったの?」
透がそう言うと、顔を赤面させた。それを見て九朗と義之は笑った。
―――この近くにいるはずだ。探偵はそこまでは調べてくれた。殺人の片棒を担ぐのが嫌だと、後になって尻をまくって逃げやがったが、十分働いてくれてよ。私にはもう、最強の協力者がいる……。
「私はあちらを探索してみます」
九朗が言った。
「じゃあ、俺達はあっち行きますね」
そう透が言う。
「それじゃあ、私はあちらで。それはいいとして、透。絶対に妖怪を勝手に退治するなよ!」
「何度も言われなくても分かってるよ」
そう東虎邦孝に言われ透は強く頭を掻いた。
「まあまあ二人とも、行きますよ?」
「はい!」
丁字路で九朗は右、東虎邦孝は前方を。そして、義之と通るは左の道を進む。
「そろそろ分かれるぞ」
「おう」
そう義之が返事すると、透は別の道を進んでいった。義之もこの月が怪しく照らす住宅街をあてもなく妖怪を探しまわった。
いつのまにか、義之は集まったところとは違う空き地で蹲踞をして休んでいた。溜息をつき独り言を思わず、漏らす。
「見つかんねーよ、こんなの……」
義之がそうもらすことに無理はなかった。夜の住宅街の中で、探し物を見つけること自体に無理がある。もちろん、目だけで見つけようとしている訳ではない。妖気を感じ取れることができる義之達はそれを頼りにしている。しかし今回の標的は一反木綿。それに、注意をするだけの妖怪となればそれもごく小さなものになっている。
「ハア」
ため息をついて、上を見上げた。白い布が泳ぐように、空を飛んでいる。
「あ!」
一反木綿も気付いたのか、一瞬、縮んだ。そして逃げようとすると、義之は叫んだ。
「待て!!」
そうすると一反木綿は体をひるがえし、義之のもとに向かってきた。義之はポリポリ頭を掻いた。
「これで、お役目終了だな」
その独り言に一反木綿は少し慌てる素振りを見せた。
「旦那、私を滅するつもりですか?」
「いや、そんな気ないよ」
「なら、何をしているんですか?」
「それは、お前だよ」
「ヒッ!」
そう言って、また逃げようとした。
「いや待て、退治する気ないって言ったろ?」
義之は布の端をつかまえていた。
「じゃあ一体何を?」
「注意だよ」
「えっ!」
布に皺を作り、口のようなものを形成している。
「お前は夜にここら辺りを飛び回ってるんだろ? 住人が怖がってるんだと」
「はい」
一反木綿は逃げる素振りを見せなくなって、義之の眼前に立ち上った。義之が手を離すと地面に、十メートルぐらい伸びて波立たせている。
長いな。義之はそう思った。一反木綿とはその名の通り。白い木綿の布の妖怪。名の通り一反とは十二メートルに相当する。
「しかし、私も別に好きこのんでやってる訳ではなく……」
「はっ!? どういう意味だ」
「ある人を探してくれと。頼まれて」
耳を疑う義之。
「は? 誰に?!」
「女の人ですよ」
「人間か絡んでいるのか?」
「はい」
「ただの人探しだけか?」
「はい」
「ではそれは俺達が請け負う。お前はとにかく黄泉の国に帰ってくれ!」
「……」
「どうした?」
「いや、それはできません」
その時、コツコツ、下駄の音が静まり返った空き地に響く。誰か来ている。九朗達か? 透か?
「おい! 話は聞かせてもらったよ」
透が仁王立ちをするように義之達の前に現れた。それを見て、完全に萎縮する一反木綿。力が強いことが分かった様子だ。
「おい。義之。妖怪の言うことなんて鵜呑みに住んじゃねーよ」
「おい。お前まだ……」
そう言うと、透が義之を睨んだ。
「舐められてるぞ。お前」
その凍りついた目に、義之は身をすくんでしまう。
「おい! お前、それでどうするつもりなんだ?」
「どうするつもりと言われましても……」
「お前はそもそも、その布で人の顔を巻き付いて窒息させる妖怪だろ」
「そんなことをする輩もいるのはいますが……」
透の眼力は一反木綿を捉え、身動きを封じさせてしまった。
「お前もそうではないのか?」
一反木綿は話さなくなった。しばらくの静寂が辺りを包む。そして口を開いたとき義之は耳を疑ってしまう。
「お前達だけか? 術師は?」
「ああ、それがどうした?」
夜空に舞う白い一反の布。義之達を中心にグルグル回る。
「本性みせやがったな! 義之闘うぞ!」
「ハッ! エッ!」
「お前達、親子は甘いんだよ。妖怪なんて最初から殺る覚悟で挑みな」
そう言った直後にもう、透は印を結ぶ。
「ノウマクサンマンダ バラサダンセンダ マカラシャダソワタヤ ウンタラタカンマン」
不動金縛りの法。空中で一度布が動かなくなったと思ったら、口を模した皺を寄せて言い放つ。
「馬鹿め、お前達ごときで俺が捕まるか?」
体をくねくねさせて、そして透の呪力を吹き飛ばした。
「ッチ。雑魚ではない」
舌打ちをしながら、透は義之を見た。
「お前も加勢しろよ!」
義之は頷き、印を結ぶ。
「臨兵闘者皆陣裂在前!」
人差し指と中指を立てて、他の指をたたみ、刀印を作り、標的がいる方に唱えながら縦横と空中で九回切る。邪を祓う九字の呪文、マントラである。多種多様な使い方ができるが、今回義之が用いたのは斬った方向に網のようなかまいたちを作って、対象を切り裂く術だ。しかし、それを余裕で避ける一反木綿。
「小さいね。それにもし当たっても、この程度、すぐ再生できるさ」
高笑いをする一反木綿。
「クソッ……」
義之はそう口にすると。透はさらなる術へと印を結ぶ。
「調子にのるなよ。弱小妖怪」
「ハッ」
嘲笑する一反木綿。
「お前達など、今すぐにでも殺せる」
「我、火の神の力を欲す者。火の神よ我が刀印に力を授けたまえ。ナモ カリテイカ ナコサタラ ソワカ」
透は手に作った刀印を一反木綿に向かって斬りかかった。空を切ったところが、直線的になった炎が立ち上り、目にも止まらぬスピードで一反木綿に向かっていく。
―――臨
「遅いね。あの小僧よりマシだが。こんな速さ話にならん」
―――兵
果敢に切りかかる透。
「無駄だよ」
―――闘
「ハハハ」
―――者
「遊ぶに付き合う気はない」
―――皆
「まだ続けるのか? そんな安直な攻撃を」
―――陣
「無駄無駄」
―――裂
「はあ、もう諦めな」
―――在
「もう、飽きたわ。お前もう死ねよ」
―――前
一反木綿が透に襲いかかろうとした。透は膝を祓って。静かに言った。
「終わったわ」
その言葉を聞いたとき、義之の体に戦慄が走る。レベルが違い過ぎる。これが東虎。いや透の力か……。
「なんだとお前!?」
一反木綿は透の言ったことに不快感を露わにする。
「お前めでたい奴だな。気付いてないのか?」
「何が?!」
そう言うと、透は刀印を立てた。地面のえぐれたところから、炎が立ち上り、それは空中に浮いた。縦五、横四の線で区切られた正方形の炎の結界の中に一反木綿を閉じ込めた。一反木綿は炎に当たらないように隙間に入る。
「……なあ、義之、九字のマントラにはこういう使い方があるんだぜ」
義之を見て、ニタッと笑っていた。
東虎透は火の神の力と己の自身の呪力を融合させたのだ。また、絶対に抜け出せないように、結界を作り上げる術も用いている。まさに、天才ができる技だった。
一反木綿は抜け出そうと空に上がろうとする。しかし、無駄だった。
「動くな、目ざわりだ。ノウマクサンマンダ バラサダンセンダ マカラシャダソワタヤ ウンタラタカンマン」
一反木綿は動くことさえできなくなる。
「さあ、お前の真名を言え。できるだけ楽に殺してやりたい」
一反木綿は完全に戦意が喪失している。皺をつくり、唇らしきものを動かす。
「……もう、悪さはしないと誓うから、許してくれ」
「駄目だな。死んでもらう」
「頼む。あの女の言うことに、もう二度と加担しないから」
「それもお前が死ねば丸く収まる。お前の選択肢は苦しみながら死ぬか。楽に死ぬかの二択だ」
「……頼む、見逃してくれ」
「見苦しい。臨兵闘者皆陣裂在前」
手で印を結びながら唱える。結界を狭くする。それにより、間の正方形が狭まる。
「熱いだろ? 体が焼けている。でもお前達は死ねないんだ。これからもっと続くぜ」
ゴクリ。ただ義之は見ていた。こんなに非情なのか、妖怪退治をする東虎透は。
「分かった。言うよ真名」
「ああ、それが賢明だ」
「布留」
「そうか、なら滅させてもらうぞ」
透がそう言った、矢先だった。女の声がする。見られても、自分達の姿は見えないので気にかけることではないかもしれないが。あまりこの状況を見られるのは好ましくない。
「おーい一反木綿、いるか?」
何!? 二人は驚いて、その女を確認する。女は年齢はおそらく二十代前半、綺麗な容貌をしている。しかし驚くべきは女から放たれている強い負の気だった。
「おい! 何をしている一反木綿!」
この女は今の状況を見ても全く驚きもせず、動じる気配も見られない。ただ、ただ、この世の全てを呪うような怨念が大きく、そして高く立ち上っていた。
「……」
突然現れた女に思わず、注視させられた二人は自分たちの背後にもの凄い妖気が放たれているのに、気付くのが遅すぎた。
義之より早く気付いた透は印を結ぶ。眼前の炎の結界は一反木綿の妖気に掻き消されていた。遅すぎた。目の前に怨念によって漆黒に染まった布が顔に巻き付く。一反木綿は二人の口と鼻を完全にふさいだ。
「ハハハ! 死ねば。真名など唱えられない」
意識が遠のいていく中、義之はカタカタカタと下駄の音を踏み鳴らして急いでこちらに来る九朗達に気が付いた。どうか、気づいてくれ。右手に刀印を作り、右膝を切った。
「おい! 義之、透無事か?!」
女と一反木綿の高笑いだけが、夜の街に響き渡る。
しかし、この現況下において冷静になっていたのは、東虎邦孝だった。
「でかしたぞ! 義之」
そう言って、印を結んだ。
「ハハハ、無駄なこと。このガキ達もお前も達もすぐ、あの世に送ってやるよ」
それを聞くと、刀印を持って一反木綿を指さした。どうやら、九朗も気付いたようだ。
「布留 滅」
二人の呪文で一反木綿はこの真っ暗な世界で完全に存在を消した。それを見ていた女は膝を崩した。
「一体何故?」
そんな女を横目に二人は義之と透の方に一直線に向かった。
「よくやったぞ! 義之」
そう言って義之を抱えた九朗が言った。二人は荒い呼吸を数回している。命に別条はなかった。
「義之何をやったんだ?」
意識がはっきりした透が義之に言った。
「血の文字を書いたんだ。あの一反木綿の黒い布に。漆黒に赤はよく映える」
「さてと」
膝を崩してしゃがんでいる女の周りに四人は立った。
「一反木綿を使って何をしようとした?」
東虎邦孝はまるで肉食動物が小動物を睨みつけるように見た。
「……」
動じない女。それもそのはず、まだ負の気を強く放っていた。
「じゃあお前達がやれよ! あの女を!」
この状況でまだ、強固な姿勢を崩さない。
「分かった。話が先だな。聞かせろよ」
透が頭を掻いた。
「女とはなんだ?」
「私のお父さんを生命保険にかけて殺したのは、あの女に間違いないんだ。お父さんが自殺する訳ない。許さない……」
さすがに気が動転しているようだ。言葉を理性的ではなく感情的に吐き出している。
「で、その女を一反木綿に殺させようとした訳か」
透が女に念を押す。
「そうだ!」
「あっそう。どうする? この女の気持ちを変えない限り、また妖怪を呼び込むぜ」
透は頭に来ていた。九朗の前だと言うのに、敬語を使っていない。
「……殺してどうするんだ?」
自然と義之は言葉が出ていた。
「は?」
「だから、殺してどうするんだ? と聞いている」
「父さんの無念を晴らすことができる! それで十分だろ!」
「……妖怪に人を殺させたら、必ずその者は地獄に落ちる。あんたの魂は一生、苦しみを味わうことになる。それでもか?」
「ああ、それでもいい。死んだ後なんか知るか!」
義之は咄嗟に女の胸倉をつかんだ。
「死んだあんたの父さんはそんなこと望んでない!」
女は義之のその形相に気圧された。
「……俺は小さい頃、母さんを亡くした。小さい頃の記憶しかないがな、暖かい思い出が沢山あるんだ。あんたにもあるだろ?」
「……」
「だがな。そんな母さんが俺に望むことは、俺の幸せに間違いないんだ。こんなこと一般人に言ってはならないかもしれないが、死んで終わりじゃないんだよ。天国で会えるんだよ。それが、お前が勝手にお父さんの無念だが、なんだが知らないが、履き違えて勝手に地獄に落ちることはお前の父さんが本当に望んでいると思うか!」
大声で放った、その言葉に少し女の心は揺らいだかのように見えた。
義之はひるんだ女の手を取った。
「あんたは幸せになるんだ。死んだ父さんの分まで……」
「……」
「もう、この手を汚さないでくれ……」
「だって、だって……」
女は涙腺が崩壊した。それを黙ってみていた、三人は頷いた。
「もう、この女は無害ですよ。負の気がどんどん消えていってます」
東虎邦孝が言った。
「そうですね。もう、怨念は完全に消え去るでしょう」
そう九朗が答える。
「それにしても……」
九朗が地面にえぐられた線の跡を触りながら言った。
「一反木綿は一体どこから出てきたんでしょうか?」
九朗はある種の可能性を隠せずにいた。あれ程強い妖怪では、その想定は十二分に考えられることだったからだ。
「聞いてみましょうか? 今は義之君が適任でしょう」
「分かりました」
義之は頷いて、女の傍に行く。
「あんた、少しいいか? 一反木綿はどこで出会ったんだ?」
女は手で溢れる涙をぬぐっていた。その顔はもう、ただの無垢な一人の女の顔になっていた。涙が浄化してくれた。
「どこって、ここよ……ここの空き地で出会ったの」
「そうか、怪しいですな……」
離れた場所から聞いていた、九朗は眉間に皺を寄せた。
「東虎さん、ここの空き地を捜索しましょう。もし、黒き泉が出てきたら……」
「はい。分かりました」
東虎邦孝は頷いた。
「おい! お前達、聞いていたな?! 探すのを手伝ってくれ」
「ああ」 「はい」
それに応じる、義之と透。
「ナモ カリテイカ ナコサタラ ソワカ」
九朗は呪文を唱えて炎を作り出す。宙に浮いた炎が空き地全体を照らした。
四人はくまなく、空き地を捜索した。
しばらくして透が声を上げた。
「親父、皆、何かある!」
三人は透の傍まで行った。透は皆が来たことを確認すると、空き地に生える草を掻き分けた。
「何か、上がっている」
「これは……」
九朗は思わず絶句した。そこにはまた小さな黒い煙が立ち上っていた。そして振り向いた時の顔は事の重大さを物語っていた。その顔を見て、東虎邦孝もゆっくりと頷いた。
「お前達、帰れ。俺達は本部に行く!」
「は?」
九朗の言葉に、義之は反射的に言葉が出た。
「おい! 親父、一体、何が起こってるんだ?」
「昨日に引き続き今日も発見した。これは偶然ではない。百鬼夜行が起こる前触れかもしれん」
「百鬼夜行……」
義之と透はそれだけ言って、後の言葉は飲んだ。
「とにかく、俺達はこれを封じ、滅した後。すぐにこの国の術師全員でそれに備える対策を考える」
目で九朗は東虎邦孝に合図した。
「封! 滅!」
黒い煙はたちどころに消えさった。
「行きましょう! 東虎さん!」
「はい!」
そう言って、袴を両手でつかんで、下駄を放り出し、走り出した。義之にとってそれはもの凄く時間が短いものに感じた。空き地に静寂が包む。
「……どうする?」
そう問いかける透。
「どうするって、帰るしかないんじゃないか?」
「それもそうか。百鬼夜行の前兆だとしたら、俺達にできることはないかもな……」
二人はその場で立ち尽くした。
「おい! お前携帯持ってるか?」
突然、透は義之に聞く。
「ああ、しかしどうするつもりだ」
「現状把握だけでもしときたい」
「そうか」
「由佳や空也に連絡してくれ」
義之は頷き、まず由佳に連絡しようとする。
「駄目だ、由佳は電話に出ない」
「どういうことだ?」
「単純に気づいてないだけじゃないか?」
「空也にもかけてくれ」
「ああ」
空也の電話番号にかける義之。空也は電話に出た。
「どうした? 義之」
「ああ、お前のとこのお役目どうだった?」
「……強い妖怪が出た。親父が祓ってくれたが、黒き泉が関係している」
「何!?」
義之は驚いた。
「今、大丈夫か? 集まろう」
「ああ、分かった。待ってろ。どこだ? 昨日の空き地でいいか?」
「了解した」
そう言って、電話を切った。
話は全部透に伝わっていたようで、頷き、二人は空き地から出た。
「由佳はどうだ?」
「駄目だ、つながらない」
得体の知らない恐怖が二人に襲っていた。まさか……もし……。そんなことが頭の中で反芻する。
先に着いた義之と透は空也を待った。やがて、空也が現れた。二人を確認すると、駆け足でやってくる。
「一体どうした? まさかお前たちも……」
「ああ、大変な目に合った。そしてお前と同じで黒き泉が関係していた」
義之が答える。
「そうか……」
「由佳も心配だ。しかし何度かけてもつながらないんだ」
「……由佳も同じ目にあってるというのか?」
「その可能性が高い、それに安否が心配だ」
透が険しい顔をした。
「……とにかく、待ってみるよ。結論づけるにはまだ早い」
二人に言い聞かす義之。しかし、その顔は心配を隠しきれていない。
長い時間が経ったと思われた。しかし実際にはものの三十分ぐらいだ。由佳と連絡がとれないことが、時間の流れを変えてしまっていた。
そんな時、空き地に足を踏み入れた者がいた。その者を確認した三人は目を疑った。
「助けてくれ! 由佳を助けてくれ!」
体のあらゆるところが負傷している。服もボロボロだった。しかし、その者は那須川凌空その者であることに間違いない。
「どういうことですか?!」
心配のボルテージが限界値を振り切ってしまう。
「由佳が由佳が危ないんだ!」
「何があったんですか? 詳しく教えてください!」
全身に焦燥がこみ上げている、那須川凌空の肩を強く揺さぶる、義之。
「私達のお役目先に黒き泉があったんだ。とても強い妖怪が出てきて、由佳は黒き泉に飲み込まれた! もしかしたら天狐かもしれない!」
言い終わった後、とても怖い思いをしたのか? 体をひどく震わせた。
「何!?」
「私では到底かなわなかった。助けを呼ぶことしかできなかった! 助けてくれ!」
全員、気がどうにかなりそうだった。由佳が今、命の危機にあっていて、黒き泉に飲み込まれていること。そして百鬼夜行の親玉である、天狐が出現したかもしれないこと。
義之は一瞬、体と心が硬直してしまう。
「おっさん。早くつれていけよ! どうにかしてやる!」
そう強く言い放った透は汗まれだった。
「九朗さんや、邦孝さん。忠行さんはいないのか?」
「今は本部に向かっているはずだ。今からじゃ、呼び出しても間に合わない」
「……」
「俺達だけでも連れて行ってくれ! 時間が惜しい」
義之の目には覚悟を宿らせていた。自分の命を引き換えにしてでも由佳を必ず助け出してみせると。
四
―――十三年前の夏のとある夜
九朗は女と走っていた。逃げても逃げても、追ってくる妖怪達。
「お前は一人で黄泉の国に帰れ! もう、人間界は終わりだ!」
九朗と女は、さっきまで日本中から集まった術師達とともに、百鬼夜行の発生源で襲い来る妖怪達と闘っていた。しかし、祓っても祓ってもきりがない。それでも、術師は懸命に頑張った。もうここで食い止めなければ、日本全土に数えきれない程の負の気を飲み込んだ妖怪が人々を襲う。もうすでに発生源である、九朗達の住んでいる街は地獄絵図になろうとしていた。
「駄目よ、それでは義之はどうするのですか?」
「義之も連れて行って欲しい」
「そんな……ではあなたは?」
「先にいってるよ」
「馬鹿!」
女はそう言って立ち止まり、呪文を唱えると、銀色の狐に姿を変えた。
迫ってきた体長十メートルはあるだろう、牛の体に鬼の顔を持った妖怪にガブリと噛みついた。牛鬼は断末魔のような悲鳴を上げて、その場で悶えていた。
戻って来た天狐は九朗に言った。
「そんなことは許しません。私はあなたも義之も失いたくありません」
「ならば、どうするというのだ? まさか、本部長のおやじの言うことをやろうと言うのではないな」
天狐は九朗を虚ろな目で見た。
「馬鹿はお前だ! それは俺が許さない!」
「馬鹿はどっちですか? あなた達人間の命は短いのです。たった数十年で儚くも消えてしまう。だから、一瞬、一瞬に大きな価値があるのです」
「どんな理屈だよ!?」
「分からずや! 私はもう、何百年も生きているのですよ。未来に生きる価値が違うと言っているのです」
「分からずやはお前だ!」
「……夫婦喧嘩したのは久しぶりですね。でも、そんな時間も惜しい……」
「お前、何を?」
「あなたごらんなさい。もう、この街はめちゃくちゃです。これが日本、いや世界全土に渡って起こる」
「……」
「あなた達、人間は生きなければならないのです! 短い一生を全うする責務があります」
それを聞いて、九朗はとても悲しい顔をした。
「お前の決意は固いのか」
天狐はコクリと頷く。
「そうか……」
「せめて、最後に義之の顔を見させてください。それが私のあなた達に対する最後の我儘です……」
「ああ、分かった」
九朗は涙を必死にこらえていた。
二人は結界を張って守っている、自宅に向かう。どんなに祓っても、悲しみをはらうことがどんなに難しいことか。
九朗は天狐とともに自宅に足を踏み入れた。この地だけは無事だった。扉を開けて、玄関を抜け、襖を開けて、寝室に入る。二人は幸せそうに寝息を立てているまだ幼い義之を見つける。
「もう、何事も起こってないみたいに、幸せそうに寝ちゃって……」
天狐は義之の傍らにいき、傍らに体を横たえた。前足で、義之の前髪を分ける。
「さよなら、私達の一番の宝物……」
九朗はそれをじっと、じっと目に映していた。
天狐は立ち上がり、九朗に言った。
「さあ行きましょう。時間がありません」
九朗は頷いた。
「お母さん……」
天狐はパッと義之の方を向く。義之は寝言をもらしただけだった。天狐は一度首を下げて、そしてすぐに顔をあげた。
「庭の池に行きますよ」
「……」
九朗は何も言葉が出てこなかった。
庭にある小さな池を二人は見つめる。やがて、天狐は水面に足をつける。
「あなた、いきます」
「ああ」
九朗はもう、我慢ができなかった。涙が、目から川のように流れる。こんなにも過酷なのか。幸せを誓って、二人になった愛する者が、自分が死ぬまで幸せにすると約束をした愛する者が一生会えなくなってしまう。その運命をとても恨めしく思い、そして受け入れられない。
「あなた、泣かないで……」
「馬鹿野郎だ。お前は。なんで、なんでお前が。なんで俺達がこんなことを背負わなければならないんだ! 一生幸せにするって誓ったのに!」
「あなた、覚えていますか?」
「何をだ?」
「義之を産む前、あなたは少しためらいがありましたね。その時に私が言いました『大丈夫よ。あなた。この先、何があっても、恐れることなんて何もないわ』」
「……ああ」
「その通りです。私は恐れていません。未来を悲観しないで下さい。どんな過酷な試練があっても、きっと再び喜びに満ちた日々を送れるから」
「……そんな日が来るだろうか?」
「ええ、神様は私をこんなに幸せにしてくれたんだから。だから、きっと大丈夫です」
天狐は目が潤んでいた。そして、ぽつりぽつりと水滴が落ちていく。
「沢山の幸せをくれてありがとう」
天狐は呪文を唱え始めた。その姿は九朗にはどんどん人間の姿に変化しているように見えた。長年見てきた妻が涙を流している。そう見えてならない。
やがて庭の池が黒く染まり始め、溢れ出そうとしている。天狐は唱えるのを一旦止めた。
「お前……」
「来てはなりません。この池に浸かったら、人間でも黄泉の国につれて行ってしまいます」
「……」
「今、この街の地下一面に、黒き泉を張り巡らせました。私の最後の呪文で百鬼夜行のほとんどの妖怪は黒き泉に吸い込まれ、黄泉の国に行くでしょう……」
時間をかけて頷く九朗。最後の別れになることを分かっていても、それを受け入れることはできない。
「あなた……行きます!」
天狐の放った言葉は強いものだった。
「待ってくれ!」 「結!」
これは、十三年前の夏の夜のこと。天狐は相模家の庭から忽然といなくなった。ただ、池の水が枯渇しているのを九朗は分かっただけ。九朗はその場で脚を崩し、赤子のように泣いていた。
※
義之達は緑地公園の鬱蒼と茂る草地に来ていた。
「どこですか?! 由佳は!」
そう大きな声で言い放つ透。
「おい……あれ……」
空也が指をさした。そこには、今までよりも大きな黒き泉が液状になり、大きな水たまりとなって現れていた。そして、たき火をしているように煙が立ち上っている。
三人は頷いた。あそこに間違いない。義之が聞いた。
「凌空さん。あそこですか?」
「そうだ。でもお前達、気を付けろ、天狐が近くにいるかもしれない。またあれは他の強い妖怪も呼び起こしている」
「そんなこと言っても、由佳があの水の中で埋もれてるでしょ! 助けださなきゃ!」
義之達は黒い水たまりのある所まで走り出した。今は深く考えない方がいい。とにかく由佳を助けだすことに全身全霊を傾けた。那須川凌空はかなり遅れてついてくる。再び心が恐怖で満たされかけているのだろう。
「おいおい! 人間じゃないか……」
風を切る耳がその音を感知した。それでも走っていくと、目の前に大きな足が現れた。見上げると、それはこの世の生き物にしてはあまりにも大き過ぎた。白い着物を着た、大きな坊主頭の妖怪が現れる。
「この妖怪は何だ?」
義之達はその巨体を見ても全く気圧されていなかった。持っているものはただ由佳を助けるという、強い使命感だけ。
「これは、見越入道だ!」
後ろから、那須川凌空が叫ぶ。
「見越入道、聞いたことがある」
そう、もらしたのは透。
「強いのか?」
空也が二人に目配せした。
「ああ。妖怪でもかなりの力を持っている……」
透は印を結ぶ。
「ノウマクサンマンダ バラサダンセンダ マカラシャダソワタヤ ウンタラタカンマン」
不動金縛りの法。しかし、見越入道は余裕で動けるようだ。
「さすがにこのクラスは簡単に動きを封じれないか。しかし、三人ならどうだ?」
「ノウマクサンマンダ バラサダンセンダ マカラシャダソワタヤ ウンタラタカンマン」
三人の詠唱。見越入道はこれはさすがに効いた。
「なんだ? 体が少し重くなった」
大分、のろまになっている。これなら勝てる。三人はそう感じた。しかし、見越入道は口から強風を出したと思うと、不動金縛りの法の呪縛を解き放った。
「ちょこざいな。今度はこちらからいくぞ!」
その象より大きな足で義之を踏みつぶそうとした。
「危ない」
身を乗り出して、空也が義之を突き飛ばし、一緒に倒れこんだ。ドスンと音がなり、一面土埃が舞う。
「ハハハ!」
高笑いする見越入道。
立ち上がった、義之と空也に言った。
「おい、ぼやぼやすんな。こんな奴に遅れをとっていたら、天狐が来たら終わりだぞ!」
そうだ、こんな奴すら倒せなきゃ、由佳達を襲った本当の強敵を倒せる訳がない。
「おい! 木偶の坊、俺はそんなにやわじゃないぜ。来いよ」
透は少し余裕があるように見せる。
「何を強がりを。貴様らごとき、敵ではないわ!」
見越入道は今度は大きな二つの掌で透を握りつぶそうとした。
「臨兵闘者皆陣裂在前」
空に向かて、九字を切る。切った跡は風船のように広がり、透を包んだ。襲い来る大きな手。そうした、見越し入道の手は網目のような切り傷が出来る。見越入道は反射的に手をひっこめた。
「ハハハ。お前、そのままだったら手無くなってたぞ!」
透は強かった。今からどんな妖怪に会おうと、勝てるかもしれないと二人は自然と思わされてしまう。
しかし、笑い声が見越入道の癇に障ったのか、拳を速く地面に突き当てる。大きな衝撃音が鳴り響く。
速い……。それに力は強大だ。天狐どころか、コイツを倒すことも困難かもしれない。
「呪術などを唱える前に片付けてやるよ!」
見越入道はニヤリとした。そして、また拳を叩きつける。三人は逃げることにだけに必死だった。正攻法では勝てそうもない。正攻法でない……。そうか! 義之が思いついたことは、その場で閃いたにしてはあまりにも出来過ぎていた。
「おい! 俺が動かなくなったら 解をかけろ!」
「あ?! お前、何言ってるんだ?」
透が逃げながら言った。空也も義之が何を言っているか分からなった。
義之は刀印を作り、また右足を切る。そして、自分の白い服に字を書きだした。
見越入道は空也の傍に拳を叩きつけると、動いていない者がいることに気付く。
「……お前は潔く死んでみたいだな」
透と空也は義之を見た。あれは……。なるほど。二人は理解した。
今までの俊敏な動きを止め、ゆっくり近づく見越入道。二人はその間、自由に動けた。すぐに印を結ぶ。見越入道が義之を倒そうと、拳を振り上げたときに、二人は叫んだ。
「解!」
それは見越し入道がその音を耳から頭に信号として受信したときだった。彼の動きは止められた。拳から数センチ振り落とせばいいはずなのに、それができない。拳は義之の頭のギリギリ真上で止まっていた。
義之は静止していた体を再び動かす。
見越入道は何が起こったか分からなった。唯一辛うじて動く、眼球を動かす。自分の着ている服に梵字が書かれている。
ノウマクサンマンダ バラサダンセンダ マカラシャダソワタヤ ウンタラタカンマン
「……」
「ハハハ! お前よく、こんなこと思いついたな!?」
空也が笑って義之に話しかける。
「やったことあんのか?」
「いや、初めてだよ」
「俺たちも初めてだ。一反木綿の時といい、今回といい。お前には驚かされるよ」
透は頭を掻いた。
「勝利を喜んでいる時間なんてないぞ。早く行くぞ!」
「おう!」
後からついて来ている、那須川凌空を含めて、四人は黒き泉の水が溜まっている場所が目前だった。そして、水の中に吸い込まれそうになっている由佳を発見した。また数匹の妖怪もいるのも発見できた。五体いる。ろくろ首、柳婆、天井嘗、獺、二口女。いずれも大して強い妖怪ではない。
「天狐は今、ここにいないようだな」
透には皆に言った。
「ああ、変化している訳でもなさそうだ。さっきの奴と比べても取るに足らない」
そう空也が答える。
「とにかく、早くやるぞ!」
義之がそう言うと、二人は頷いた。
由佳は義之達に気付いて声をあげた。
「父さん! 義之! 助けて」
底なし沼のように、はまりそうになっても、必死にもがいている。頭から水がしたたり落ち、目から黒い涙を流しているように見える。
それを聞いて舌打ちをした透は、義之達に言う。
「滅する時間はない! 動きだけ封じろ! 後、おっさんも手伝え。手負いだとは言え、闘えるだろ?」
「……分かった」
「おやおや、おしゃべりはそのぐらいにしたらどうだ?」
妖怪達がニヤニヤ笑っている。
「一人一匹だ。ばらけた方がいい」
四人は頷き、ばらけて距離を離した。
空也は不動金縛りの法をろくろ首にかけた。ろくろ首は動けなくなった。
同時に透は柳婆にかける。那須川凌空は天井嘗に。
義之も二口女にかけた。二口女に上手くかかったがそのとき後ろから声がかかった。
「確か、これは術者を殺したら解けるはずだよな」
後ろを振り返ったとき、獺がせせら笑いをしながら、義之に噛みつこうとした。迂闊だった。上手くばらけたはずだが、その時から獺は見当たらなくなっていた。獺も変化が使えるのだ。おそらく、ここにいる誰かに姿を変えていた。そのため、獺だと分からなかった。
そのとき、マントラが聞こえた。
「ノウマクサンマンダ バラサダンセンダ マカラシャダソワタヤ ウンタラタカンマン」
獺は口を開けたまま動けなくなった。一体誰だ? 今は各々、妖怪の相手をしていて、手が離せないはず。
義之が声をした方を向くと、由佳が笑顔でこちらを見ていた。
「良かった……」
そう言って、気を失いかけている。四人はすぐに黒い水たまりの傍に向かった。
「由佳! 由佳!」
声をかけても返ってこない。それどころか気を失っているため、どんどん沈んでいく。義之が引っ張り出そうと、水面に手を入れようとしたところ、耳に鋭く突き刺さる。
「触るな!」
那須川凌空のそのときの顔は鬼気迫るものを感じた。それが義之を制止させた。今までの情けない姿がまるで嘘のようだ。
「黒き泉は妖怪だけでなく、一度触れると人間も飲み込む」
「じゃあ、どうすればいいんですか?! このままだと由佳は飲み込まれてしまいますよ!」
「私はな。闘い向きの能力って、あまり持ってないんだ。でも、それ以外の例えば神々の加護を用いたり、力を封じる能力は秀でてるんだよ」
「で、どうするつもりですか?」
透が聞くと、那須川凌空は言った。
「任せなさい!」
そう言って、その場で胡坐をかき、頭に指で何やら文字を作るようになぞる。口や舌にも同様にそれを行い。唱え始めた。
「魔訶般若……」
これは般若心経だ。唱える時間が三人はとても長く感じた。
「おっさん! いつまで」
そう透が話しかけると、唱え終わったのか、那須川凌空は立ち上がった。そのとき見た那須川凌空の姿はまるで不動明王の化身になったように見える。
那須川凌空が行ったのは、降霊術である。なんらかの神を体に下ろしたのだろう。
そして一歩一歩、黒き泉に近づく。
「解!」
由佳はイルカが水面から跳ねるように、飛び出してきた。それを抱えるようにキャッチした空也は一緒になって倒れた。透と義之はすぐに近くに寄る。
「大丈夫か?! 由佳?! 由佳?!」
三人の呼びかけに反応がない。まさか、死んだ……。そうハッとなって、義之は胸の音を聞く。
―――トクン トクン―――
心臓は動いている。
「心臓は動いている。溺れたんだ。お前達人工呼吸やったことあるか?」
義之が二人に確認する。
「いや」
「分かった。保健体育ぐらいの知識しかないが、とにかくやってみるよ」
そうやって口を近づけたら、由佳は目を開けた。そして、そのまま頭突きをかました。
「痛あ……」
二人は頭を抱えた。
「何すんのよ!」
「何って、お前!? それよりも由佳、大丈夫なのか?」
頭がぶつかった事も痛みも忘れていた。心配のため衝動的になる。皆、由佳を見つめる。
「うん。ほんとに死ぬと思った。でも、何ともないみたいよ」
「由佳……」
わなわなと手足を震わせながら、那須川凌空が由佳の近くに行く。
「お父さん……」
二人は抱擁した。
「良かった。本当に良かった……」
由佳は抱きしめられている時に、一筋の涙を流した。
「ありがとう。お父さん、義之。皆……」
それを見て、皆ジーンとしていると、透が言った。
「本当に元気なのか? 黒き泉の水をあんなに飲んだんだ」
「うん……別に変化は無いけど」
那須川凌空から離れて、由佳は言った。
「私の解は完璧だよ。それに薬師如来様の力を借りている」
「そんなことできるのか?」
「まあね。私の力は戦闘向けじゃないだけさ。でも、それが原因で今回みたいな事を招いてしまった……」
「お父さん……それは仕方ないよ、あんなのが相手じゃ誰がやったって……」
由佳は恐ろしさを思い出し、震えだした、
「今はそんな話をしている時間はないんだろ? おっさん。今、由佳が無事だと分かった。今の俺達がとるべき行動は、近くにいるかもしれない天狐や、次々に生まれる強力な妖怪から逃げること。早く、黒き泉を滅して行こう」
「ああ……そうだった」
そう言うと那須川凌空は印を結び。
「封! 滅!」
あんなに大規模な黒き泉がそこには何も無かったかのように消え去った。その凄さに目を見張ってしまった。これ程のことは透でも絶対にできない。那須川凌空は真っ赤になった体から白い水蒸気が噴き出ている。これほど大きな黒き泉を滅することは無理がかかったようだ。少しふらついている。
「大丈夫ですか? 凌空さん」
義之が肩を貸す。しかしその好意を断った。
「大丈夫だ。一人で歩けるし、走ることもできるよ。早く逃げよう。妖怪が来る前に」
「はい」
義之が答えると全員、その場で走り出した。どうか天狐と遭遇しないようにと……心の中で思って。
五人は今日那須川凌空と出会った空き地まで走った。そして息を整える。
「どうにか、ここまで無事で来れたね」
那須川凌空が言った。
「はい」
皆答える。
「しかし、まだ緊張は解けない、今日は安全のために四人でいてくれ」
「……はい。分かりました。しかし、凌空さんはどうするつもりですか?」
空也が投げかける。
「私は皆のお父さんが行っている。東京本部に向かうよ。この事態はただごとではない。すぐに本部にこのことを伝達して日本中の術師達を集めて会議を始める必要がある」
皆、コクリと頷く。
「しかし、そんな中、僕たちはどこに待機していれば……」
「君の家がいいだろう」
那須川凌空が話している義之を指さした。
「何故?」
「君の家は昔から特別な結界が張っている。妖怪達は不用意に近づいて来ないだろう」
「そうですか……分かりました。皆で僕の家に向かいます……」
四人一緒だとはいえ、小さい頃以来、由佳を家に入れたことは無かった。少し義之は躊躇してしまう。
「いいんじゃねーの。お前ん家広いし」
そう手を頭の後ろで組んで、空也が言った。
「おい! お前、由佳にエロいDVD発見されたくねーんだろ?」
「馬鹿言え、そんなもんねーよ」
「本当に?」
由佳が純真な目で見る。
「いや、全く無いことはないけど」
「ハハハ!」
皆笑った。別にエロDVDを見つかるのは良かった。ただ、女優がどことなく由佳と似ていることを悟られたくないのだ。
「もういいよ。あんたの助平は。早く行こ!」
「ああ、私も急いで向かうよ」
「うん。お父さん。頑張ってね」
「ああ。お前たちもいつ、お役目になるか分からない。心の準備をしておけ!」
「はい!」
一同に答えると、那須川凌空は走って、やがて見えなくなった。まるで夜の闇に存在を掻き消されていくようだった。不安になった由佳は言った。
「また、会えるかな、お父さんに」
「……分からない。次は会えるかもしれない。しかし、その次は……。これから百鬼夜行と闘うことになれば、会える約束なんてないかもしれないな」
透はそう答える。
「うん……」
由佳は那須川凌空が通った先をずっと見ていた。
四人は義之の家に着いた。義之の家は確かに広い。東京本部のような古い木造建築でその敷地面積は一般的な学校の体育館の半分ぐらい持っていた。家を中心に和風の庭園が広がる。様々な植木、そして池があった。
しかし、その池の水は何年前からか、ずっと枯渇していた。義之もそれがいつからだったか思い出せない。
門をくぐって、扉を開け、玄関で靴を脱ぐ。
「ここで待機って、何する?」
空也が上がり框に足を乗せて言う。
「何って……腹減ったな」
透が答える。皆、とりあえず居間に向かう。そしてソファーに腰を下ろす。
「お前ら、この時間何も食べてないだろ?」
「まあ、そうだが、腹ごしらえってのも重要だぜ」
「まあな……これから、百鬼夜行と闘うかもしれないんだ」
空也が頷く。
「じゃあ、飯作ってくれよな。俺達はお前の部屋で、エロDVDを由佳に見せとくぜ」
「おい!」
顔を真っ赤にする義之。
「さすがにそれは酷いんじゃない? いいよ私」
「いいから、いいから!」
そうやって、由佳の腕を引っ張る透。
「おい! 待て!」
透達が階段を上がる音がする。自分の部屋に行くつもりだろう。まあ、いいか、見つかる訳がない。特殊な場所に隠してある。そう言い聞かせ、立ち上がったその足でキッチンに行く。
「しゃあねー。作ってやるか?!」
そう言いながら、冷蔵庫を開けた。義之は九朗と二人暮らしが長いので、料理は慣れていた。基本的に九朗が作ってくれることが多いが、たまに自分で作ることもある。
卵が沢山ある。オムライスでいいか……。そう心の中でつぶやき、フライパンに油を引く。溶き卵を作り、冷凍庫から業務用のチキンライスを取り出した。
上で何やら騒いでいる。頭を思わず掻いてしまう。しかし、今のこの何気ないひと時が幸せであると思わなければ。そう感じていた。
やがて五人分のオムライスができ終わった後、透たちが下りてきた。
「……見つからなかっただろ?」
そうおそるおそる、確認する義之。
「あったよ。中見てないがな!」
透が答える。
「そんなはずあるか?! どうやって見つけた?」
「お前は昔から単純なんだよ。絶対にそんなとこに無いってとこに隠すだろ。ゴミ箱にかぶせた袋を取ったら、貴重品のようにDVDを集めてるケースがあったぜ」
義之は恥ずかしさのあまり、誰にも目を合わせられなかった。別にコイツ等に見つかったことはいい。由佳に見られたことが、何よりも自分をいたたまれないようにする。
「……もう最低!」
恐る恐る、由佳を見た。
「もう、そんなにおっぱいが好きなの、巨乳の女の人ばっかり!」
吹き出しそうになる空也と透。
「……なんて嘘よ。男の子だもん普通よね」
その言葉に透と空也は意表をつかれた。笑いが収まる。
「あんた達もこんなことしない。やっぱり酷いよ!」
「ああ……」
それしか言葉にできないようだ。やっぱりこういう時、女は強い。
「いいよ。義之、おっぱい好きでも。私だって胸あるしね」
それを聞いてまた顔を真っ赤にした。……それは、お前が胸が大きいから。そんなことは口が裂けても言えなかった。
そんなやり取りを見て、透は少し鼻持ちならない顔をしていた。
「まあそんなことよりも、飯だ。飯!」
そうやって勝手に食卓の椅子に座る。
「ふざけんな! お前に食わせる飯なんてねーよ!」
「まあまあ」
空也が義之をなだめようとする。
「お前もだ! 馬鹿野郎!」
「喧嘩しないの!」
由佳は皆を叱った。
「はい」
そう言って、静かになった。
―――東京本部
九朗と九流忠行そして、東虎邦孝は三人とも眉間に皺を寄せ、座卓の前の座布団の上に座っていた。その他の東京本部に集まった数十人の術師達も同様だった。険悪なムードが大広間をつつむ。
この中で数人は九朗達と同じ現象が起きていたそうだ。微弱ながらも黒き泉が現れた! 多数、同時発生したこの事実は百鬼夜行の前触れだと確信に変わる。
「これは一体どういうことだと思われます? 相模さん」
そう九流忠行は問いかける。
「これは、間違いなく百鬼夜行が起こる前兆でしょう」
「それは私も分かっています。ただ原因は何なんでしょう? 封じ込めた天狐の力が弱まっているため、黒き泉を制御できなくなったのでしょうか?」
「そのことは今、議論しても意味がない。間違いなく十三年前の惨劇が起こる。今は食い止める方法。そして、起こってから私達がどう立ち向かうかでしょう」
「そうですな……」
東虎邦孝が腕組みをした。
襖が開いた。那須川凌空が汗まみれで入ってくる。東虎邦孝は彼が急いで自分達の近くに来るのをじっと見ていた。
「遅かったですな。ありましたか、何か?」
息を整えて、那須川凌空は口開く。
「ありました……私のところは黒き泉が液状になって、大きな水たまりができていた」
「何!?」
三人はその言葉に強く反応した。東虎邦孝はそのことを詳しく聞こうとする。
「どうなったんだ? 由佳ちゃんは?」
「天狐が出て、私達を襲いました。由佳は黒き泉に飲み込まれました」
「何だって?!」
あまりにも衝撃的な事実に九流忠行と東虎邦孝は大きく目を見開いた。ただ一人九朗だけは驚き方が違っていた。
「天狐が本当に天狐か……」
九朗は問いただす。
「はい。あまりにもショックが大きかった出来事ですから、絶対にそうだとは言えませんが、あれは天狐だと思われます」
「そんな、はずは……」
九朗は放心してしまった。三人の目には百鬼夜行の親玉がついに現れたことにショックを受けていると思われている。しかし、九朗の胸中は違った。
「それで! どうしたんだ? 那須川一人で解決はしたのか? それとも逃げてきたのか?」
東虎邦孝はいてもたってもいられず、すぐに向かおうと殺気立っている。
「大丈夫です。東虎さん。息子さんたちの力を借りて、解決しましたよ」
「は?」
思わず目が点になった。
「どういうことだ?」
九流忠行が問う。
「私はあまりのも強力な力の前に何もできず、恥ずかしながら命からがら逃げてしまいました。そしてお役目を果たしているだろう、あなた達に助けを借りようとしましたが、息子さんしか残っていなかった。しかし、息子さんを連れて再び発生源に向かったところ、天狐の姿も無く、数匹の妖怪を倒して、無事に由佳を助けだすことができたのです」
「そうか……。そんなことがあったのか……」
九流忠行は難しい顔をする。
「それで、他の空也達はどうした? 無事なのか?」
「はい。全員無事ですよ。今は相模さんの家で待機するように言いました。一人一人でいるより、子供達も集まっていた方がいいでしょう」
「話は分かった。那須川、これは早急に対策を打たなければならないな。そう言っても、もう手遅れの状況は来ているかもしれない」
東虎邦孝はまだ、放心している九朗の腰を叩いた。九朗はハッとして気を持ち直したようだ。
そんな時、苦虫を噛み潰したような顔をしていた、本部長、藤蔭博基が立ち上がった。
「皆、よく来てくれた!」
その場にいる全員が藤蔭博基に注目する。
「報告は全て聞いている。ここら一帯に、黒き泉が湧き出る現象が多数報告された。そしてその場所には必ず強い妖怪が現れている。違いないか?」
「はい」
「黒き泉の発生源は全て封じ、滅したが、我らが全て把握できている訳ではない。それに那須川の報告によると、水たまり規模の黒き泉が湧き出て、天狐までもが現れたそうだ」
「なんだと?!」 「なんだって!?」
そこにいる術師達がざわついた。
「静粛に!」
藤蔭博基の言葉がジーンと耳に響く。ざわめきは収まった。
「その源泉は那須川が滅してくれた」
「はい」
那須川凌空は返事する。
「現状の最悪の想定はいくらでもできる。しかし、我等が今すべきことは次の発生源を見つけて、滅することでは無いのか?! 百鬼夜行に備えて、日本中の術師を集結させることではないのか?!」
「はい」
一同に返事する。
「……完全に防ぐことは可能なのですか?」
その中で、ある術師が藤蔭博基に言った。
「分からない。この前の百鬼夜行とは違い、今回は歴史的にも初めてのケースだ。天狐の乱心を起こしたなど……」
何か、言ってはならないことを言いかけたのか、咳払いをした。
「そうできるなら、その方法も考える必要は当然あるな。その上で、百鬼夜行が起こった後のことも考えなければならない。できるか?」
「はい」
一同、そう答えるしか選択肢が無い。
そして、藤蔭博基は地図を持ってきた。ここら一帯が描かれている地図だ。
「黒き泉が出現したところを先回りできるに越したことはない。今から、各々、どこに出現したか、黒く丸をつけてくれ」
そう言って、座卓の上に地図を広げた。次々に黒い丸が地図に書き込まれていく。
「……何か分かったか?」
藤蔭博基は皆に聞く。全員、とても頭を悩ました。
「全く分からない、何か法則でもあるのか? それともそんなこと考えるだけ無駄なのか?」
東虎邦孝は難しい顔をした。そこにいる全員がそんな状態だった。少し長い時間が流れた。すると那須川凌空が何か発見したような顔をした。
「これ、もしかしたら文字になっていませんか?」
「は?」
皆、那須川凌空を見た。
「ここをこうやってつないでいって……」
那須川凌空は黒い丸と丸の間に線をつけていった。そして、ある梵字が出来上がった。いや正確にはあと、一点足りなかった。
「もし、ここがつながると、この梵字の意味は……」
ある術師がそう言うと、それを見て血の気が引いていた、九朗がぼそりと言う。
「解」
すぐに、携帯電話を取り出した。そして義之にかけた。
「おい! 義之!」
「おう、親父か……。どうした?」
電話に出た義之は何も分かっていない様子だった。
五
そのとき、ちょうど義之達はオムライスを食べ終わった後だった。皆で談笑していると、義之の携帯が鳴った。
「おい! 義之!」
「おう! 親父か……。どうした?」
「お前、今どこにいる?」
「家だよ。皆と一緒だ」
「早くそこから離れろ! 今すぐにだ!」
「はい?!」
「そこは危険だから逃げろと言っているんだ!」
「なんでさ、ここは結界張ってあるんだろ」
「そういうことじゃない! そこは次に黒き泉が現れるポイントなんだよ」
「何?! そんなこと……」
その時だった。急に家が揺れた。大きな地震だった。マグニチュード六はあると思われる。そのとき、義之は携帯を落としてしまった。
「地震だ!」
空也が大声を出す。家具が大きく揺れ動き、食器が落下する。皆、食卓の下に身を隠す。
誰も言葉を発しなかった。
地震が収まったころ、義之は窓の外に異変を感じた。足元に散乱している食器やガラスを気にもとめず、窓の近くに寄る。そして、それを発見した瞬間、窓を一気に開け放つ。
「……」
目の中に入ってきた外の異変に何も言葉が出てこなかった。
「どうしたんだよ。義之」
そうやって空也達が近寄る。
「……おい。なんだよあれ」
思わず皆、言葉を飲んだ。夜の帳の中でもはっきりと分かる。外には大きな黒い竜巻のようなものが多数立ち上っている。それが、遠いか、近いかははっきりしたことは言えないが、少なくともこの地域一帯に起こっていることは分かる。
「おい! あれは何なんだよ!」
そう言った、空也始め、皆、あまりにも驚愕させられる光景を目の前に気が動転している。
おもむろに由佳が指さした。
「あそこは間違いなく、緑地公園の方よ」
「何?!」
一同、奇声交じりの返答。
「……確かにそうだ。あそこは緑地公園。そして、あの辺りは総合病院。そしてあの辺りは俺達がお役目したところだ」
そう言った、義之はある種、この現象の答えが分かり始めていた。しかし、その事実を受け止めるにはとても覚悟が必要だった。
「そうだ、あれは間違いなく、黒き泉が発生したところ、そして、それが立ち昇っている」
そう、黒い竜巻を目に映している透が言った。
「百鬼夜行だ」
そのときだった。枯渇していた、池から黒い水が湧き出始める。全員、その光景を見て固まった。その意味は分かっていた。ここが次の地点。そして、ここから百鬼夜行が飛び出してくると。
「ぼさぼさすんな! 逃げるぞ!」
そう一喝したのは、透。
「もう、遅いよ……」
空也がそう漏らした。透が池から目を切っていた時に、すでに妖怪がそこから溢れだしていた。もう既に十匹の妖怪が現れていた。義之達を見つけると、襲い掛かって来た。
「人間だ。人間だ。何年、俺達はこの時を待ち望んでいたときか」
負の気を体に纏った妖怪が襲い掛かってくる。やられる。全員すぐに印を結んだ。
「臨兵闘者皆陣裂在前!」
全員、天に九字を切る。別に同じ術をかけると誰かが指示した訳ではない。しかし、透さえも自分の身を守る術を使った。切られた九字はドーム状に広がり、義之達を囲んだ。
四重の九字の結界。これでは妖怪は近づくことが出来ない。しかし、強力な妖怪が現れたらこんな結界、すぐに破られるだろう。ただの時間稼ぎでしかなかった。
由佳は手の指を組んで、祈るように床に膝をつけた。
「おい! 義之! 義之!」
何度も九朗は呼びかけた返事が返ってこない。それは九朗の焦燥に拍車がかかり続ける。
「行くぞ!」
そう、九流忠行、東虎邦孝、那須川凌空に呼びかかる。
「おう!」
「お前達! 今すぐに行動に移すな!」
そう、藤蔭博基は呼び止める。
「馬鹿言え! 息子たちが危ないんだ! すぐ現場に向かう」
「……お前達の子がそこにいるのか?」
「ごちゃ、ごちゃ話している暇はない。本部長、車借りるぜ!」
とにかく時間が無かった。話の途中でその場から立ち去り、本部長の車を勝手に動かし、現場に急行する。
―――義之、どうか無事でいてくれ……―――
一体、何十分経ったのだろうか? もう既に二十匹ぐらいの妖怪が結界の周りを囲んでいる。
「こいつ等、術師か?」
「まだガキのようだが、一応そうらしいな」
「俺達の天敵か?」
「天敵、こいつ等が馬鹿ぬかせ」
妖怪達はケタケタ笑っている。
馬鹿をぬかしているのはお前達だ。お前達ごとき、この数じゃなければ、俺達でも十分だ。親父達はきっと来てくれるはずだ。それまで結界よ、持ってくれ……。そう義之は願った。
すると、一匹の妖怪が結界の近くに寄ってきた。
「お前達、こいつ等を早く始末しろよ」
しかし、周りの妖怪は動けなかった。
「お前ら、こんなチンケな結界すら、壊せないのか? ヘボいのはお前らだ」
そう冷たい目で他の妖怪達を見た。その妖怪は人間の男の大きさとほぼ同じだが、修験者の格好。そして、顔の中心に長い鼻。そして、手には羽団扇、間違いなく天狗だ。そして、大量で強力な負の気を立ち上らせていた。
「こいつはかなりやばいぜ……」
そう、小さく漏らした透。皆、ハッとして見た。透の姿は冷汗で髪の毛をべちゃべちゃになっている。透がここまで思う妖怪は余程の物だ。
天狗は持っている羽団扇で結界に向かって強く扇いだ。結界が吹き飛ぶ。そして皆、吹き飛ばされて、机や壁に背中を強打する。結界は消えていった。
「クソが!」
皆が動けない中、透はすぐに立ち上がる。
「ほほう、活きの良いのもいるようだな」
透は印を結ぶ。
「臨兵闘者皆陣裂在前!」
九字のマントラ、かまいたちの速攻。天狗は羽団扇を仰いだだけで相殺した。
「ぐずぐずすんな! こいつら倒すしか、生き残る方法ないんだろうが!」
皆、透の一喝に顔が上がる。
「俺を倒す?!」
天狗は高々と笑う。しかし、立ち上がった皆の目に好戦的な顔つきになる。
「さあ、やってみろよ?」
「その本当に高い鼻をへし折ってやるぜ」
透は皆と目を順繰りに見て、印を結ぶ。
「ノウマクサンマンダ バラサダンセンダ マカラシャダソワタヤ ウンタラタカンマン」
全員の不動金縛りの法の詠唱。
天狗の動きが止まった。今だ! 全員そう思って空也は「臨兵闘者皆陣裂在前!」と唱え、透は「ナモ カリテイカ ナコサタラ ソワカ」と唱える。火はかまいたちの風によって、強大になり、天狗に襲い掛かる。
「話にならん」
動きが止まっていたはずの天狗はいつの間にか片手で空也の顎の下を持って、首を絞めながら持ち上げている。
「空也!」
空也の危機的状況により衝動的になった義之は刀印だけで、天狗を斬りさこうとした。
「おっと」
軽く避ける天狗。そのため、空也は解放された。義之はもう一度、天狗に攻撃をしかけた。しかし軽く足で腹を蹴られて、飛ばされ、壁に強打する。
「うう……」
ここまでの闘いは他の妖怪達は何もしなかった。ただ、義之達がやられる姿が面白いものなのか、ニヤニヤしている。だが、これは義之達にとっては好都合だったかもしれない。他の妖怪まで相手にしていたら、絶対にとても勝てない。
由佳が印を結ぶ。
「アビラウンケン」
「フン」
由佳がどんな術をかけたのか? それは由佳のみぞ知るものとなった。妖気を掛け声とともに放っただけで、完全に打ち消された。由佳の傍にいって、腹に五発拳を叩き込んだ。
「由佳!」
三人はそう声を上げ、天狗に襲い掛かる。天狗は振り向いて羽団扇で全員をまた、壁まで移動させた。
「クソお……」
全員、まるで歯が立たなかった。義之は戦意が意識とともに薄らいでいく。
「皆! 諦めないで!」
そう言って由佳は刀印だけで、天狗に攻撃する。
「ハハハ、まだ、諦めないのか!」
天狗はまるで子供を相手にしているかのように、余裕で避け続ける。そして、由佳を足の裏で突き飛ばし、義之のいる方に由佳をもっていった。
「……由佳」
勇猛な姿を見ても、それでもまだ、闘気がよみがえることはなかった。
「義之、あのさ、この家の結界ってどこから張ってるの?」
由佳が小さな声で話しかける。
「家の結界、八字文殊鎮宅法のことか? 屋根裏にあるよ」
「それ、力を解放してくれない?」
「は? そんなことしたら、黒き泉から、妖怪が出てくるのを食い止められないよ」
「今は、あいつを倒すしかないの……」
天狗はなお一層、強力な妖気を体から漲らしていた。その威圧感は自分達では、とても勝てないと認識させられるものだった。
「その後のことは、分からないよ。でも確かなことは今、あいつを倒さないと、私達は必ず死ぬってこと」
その由佳の真剣なまなざしに義之は頷いた。賭けるしかない……。
「解! オン アビラ ウン カシャラ」
強力な力が家から解放された。
由佳は人差し指と中指で作られた刀印で、天狗を指した。
「結!」
天狗は両の手で自分の体を抱きしめ、苦しみだした。義之達の攻撃が、天狗に初めて効いた。そして、それが最後だった。
「お前、何を……」
クスっと笑った由佳はぼそりと言った。
「あんたはもう、終わりよ」
天狗は体の中心が赤い光を放ち始め、爆ぜた。天狗の肉片が部屋中に飛散する。しかし、肉片は徐々に集まって天狗の形に戻ろうとしていた。いずれ、再生する。
「逃げるわよ!」
その掛け声で皆、逃げようと動き出す。しかし既に結界によって封じていた邪の力が解放されたため、池の黒い液体が溢れ出してきている。それに相乗するかのごとく、妖怪達が無数に現れる。
―――逃げられない―――
そう、誰もが絶望的な状況だと認識した。やはり家の結界を解き放ったことは最善ではなかった。そのため、この事態を引き起こしてしまった。
唱える暇などない。皆、刀印で妖怪達を一匹ずつ、斬っていくしか手段はなかった。
ほんの数秒単位で体は傷つき、心は疲弊していく。
「皆、無事!?」
由佳の声だ。各々返事はあるものの、一度でも神経を尖らせず、妖気を感じることを怠ると必ず死ぬ。
数十分が経過し、もう精根尽きたと感じた頃だった。妖怪達はピタッと動かなくなった。何事だ? 一斉に黒き泉の方を見ている。本来ならば、逃げるべきであろうし、また目の前の妖怪を倒すべきだろう。しかし、義之は妖怪達と同様にその光景を見て、微動だにできなくなっていた。
「……」
義之は黒き泉に吸い寄せられるように、近づく。
「義之、駄目よ!」
由佳であっても、何であっても、その行動を制御することなどできない。皆、引き止めようと、縁台から降りる。
「母さん……」
義之がそう言い、見つめる先には黒き泉から現れた、美しい女、義之の母の姿があった。
アクセルを強く踏み込む、九朗。どうか間に合ってくれ! そう強く心に念じる。同乗している、東虎邦孝、九流忠行、那須川凌空はもう既に臨戦態勢になっている。
「着いたぞ!」
急ブレーキをして、家の前に止まる。その瞬間、四人は車から飛び出した。
「結界がないぞ!」
異変に気付いた、九朗。
「私達の考えよりもはるかに悪い状況かもしれない。もしかしたら手遅れ……」
那須川凌空の絶望的な見解。
「馬鹿言え! とにかく急げ。結果を見てから、発言しろ!」
そう一喝した東虎邦孝。
急いで門をくぐり、庭を見た一同はあまりにも衝撃的だった。どういう状況か、理解できない。ただ一人、九朗だけは、その光景を見ていてもたってもいられなかった。
「義之駄目よ!」
「母さん……」
一歩一歩、歩み寄る。黒い池に現れた、小さい頃に死んだと聞かされていた、そしてお墓の前でずっと会いたいと手を合わせていた、義之の母がいる。
彼女は綺麗なままだった。小さい頃に会った、その美しい姿。キリッと細くて、とても優しそうな綺麗な目。黒く長い髪。華奢な体。これは、まごうことなく、義之の母そのものだった。
「おい! 義之! 混乱するな! 冷静になれ! 黒き泉に触れるのは危険だ! とにかく今は逃げるんだ!」
透はそんな義之を止めようとする。しかし、義之は止まらない。
「その女は! きっと天狐よ! 私達を襲った。あなたの母親じゃないわ!」
由佳は義之に叫んだ。
「そんなはずない!」
その言葉に強く反応した。
「母さん、嘘だよね! そんな訳ないよね?!」
女は何も話せなかった。まるで何か強大な力に抑えつけられているように見える。
「真名を言って! きっと何も起こらないから!」
しかし、もう何も届かなかった。
「義之! やめろ!」
九朗が声を張り上げる。他の三人は父親達が来ていることを発見する。一瞬、安堵が顔に表れる。しかしもう遅かった。子供達がいる所に、もう黒い水は迫り来ていた。
九朗は唱える。
「オン アビラ ウン カシャラ!」
再び結界を張りなおそうとする。しかし、もう意味が無かった。結界は完全に消滅しているのだから。他の三人は黒き泉を滅しようとする。印を結び、唱える。
「封! 滅!」
全く意味をなさない。これほど大きな源泉だととても滅することなどできやしない。
「クソ!」
そう言って、九朗は黒き泉の中に入ろうとする。
「駄目だ! 相模!」
四人は必死に九朗の体にしがみつく。
「行かせろ! 俺の子供と嫁がいるんだ!」
「馬鹿、黄泉の国に行ってしまうぞ!」
東虎邦孝が強く言い聞かせる。
「馬鹿はお前だ! お前のガキも危ないんじゃないか?!」
「分かってるよ!」
その言葉は波紋を広がるように、鳴り響く。
「……今は仕方ないんだ。俺も後で必ず助け出してみせる。俺だって、透を失いたくなんだよ!」
「……」
もう、既に子供たちのくるぶし辺りまで、黒い水は浸かっていた。どんどん、黒き泉の中に吸い込まれ、落ちていく。
「父さん!」 「お父さん!」
子供たちは門から動けずにいた、父親達を見る。
「由佳!」 「透!」 「空也!」
一同に返事する。
「必ず助け出してみせるからな!」
その言葉は重なった。しかし、九朗だけは膝を崩し、地面に頭をつけながら手の指を組んでいた。
―――義之、お前、どうか無事に帰ってきてくれ……―――