奥様と秘書さん その1
先日の海水浴の件で魔王様にお褒めの言葉を頂き、ついでに特別休暇も貰ったアストロスは三日ぶりに王宮へのぼった。
「うん、良い休暇だった。今日からまた魔王様の為、頑張らないとな」
基本、根が真面目であるアストロスは精を存分に吸って気力も体力も充実した休暇明け、勤労意欲に燃えている。
こうした突発の休みは直属の部下である第二秘書のゴーストの力量を測るにも丁度良く、何の連絡も無かった辺り確かな成長を感じ取ることができた事もアストロスの気持ちを軽くする要因となっている。
そして足取りも軽く魔王の間に向かっていると、向こうから歩いてくる女性に気付いた。
黒い巫女服を着た女性などこの国に一人しか居ない。
いや、恐らくは世界で一人か。
彼女の事は遠くからでもすぐにわかる。
という事で彼女の方に歩みを向け、普通に声が届く距離まで近づいた時点で声をかけた。
「奥様、おはようございます」
「ええ、おはようアストロス。これから旦那様のところへ?」
アストロスが奥様に挨拶をすると、奥様もにっこりと微笑み、返事を返した。
同時に、後ろにひっそりと控えていた奥様付きのメイドであるシルキーもアストロスに頭を下げる。
「はい。奥様はこれからどちらへ?」
「昨日、実験の一つが上手くいっていないと報告をうけたのよ。だからその確認と対策を検討する為にね」
どうやら魔術研究所に向かっているらしい。
奥様は今日もお忙しい。
「お疲れさまです」
「いえ、これも目的の為だから。それに最近は気持ちも充実していて疲れを感じないの。アストロスのお陰ね」
「私ですか?」
アストロスは小さく首をかしげる。
「ええ。先日の海水浴はアストロスの提案だったのよね?」
「ああ…… その事ですか」
先日の件のことかとアストロスは合点がいく。
あそこで魔王様と奥様が初めて手を繋いだのだ。
あれが余程嬉しかったらしい。
「そうよ。あれ以来旦那様とも以前よりもっと気持ちが通じ合えたような気がするの。あなたのお陰だわ」
「それは大変ようございました。私も計画を立てた甲斐があります」
アストロスは深々と礼をする。
自分の仕事を認めて貰えるのは何にせよ嬉しい事である。
魔王様といい、奥様といい、成果を上げたものを最大限に認めて労ってくれる。
有り難いことである。
「この分なら、旦那様の子を授かるのも遠くは無いわね」
は?
感慨深く頭を下げていたアストロスは、続く奥様の言葉に礼をした姿勢のまま固まった。
手を繋げるようになったのはつい先日のことである。
なのにあれからもうそこまで進んだのか?
いや、魔王様本人はかつてを思えば切っ掛けさえあればどこまでも進むだろう。
しかし、奥様の恥じらいガードがあれですぐに解かれるとも思っていなかった。
なにせこの奥様だ。
そうなれば魔王様がそのガードを早々突破できるはずも無い。
一体何が起こった?
まさか自分がこういう事で読みを外すとは……
この奥様の発言はアストロスのインキュバスとしてのプライドを著しく傷付けた。
それでもアストロスは何とか姿勢を戻すと、無理に笑顔を浮かべる。
苦しいときほど表向きは平静に。
それが秘書として必要な能力だ。
「そ、それはよいお知らせです」
動揺が誤魔化しきれない。
くそぉ。
「でしょう? 私も楽しみにしているのよ。いつ天女様は子供を連れてきてくださるかしら」
「………………は?」
てん、にょ?
「奥様、それはいったい…… 何のことで」
「え? 前世で小さい頃、お父様に子供はどこからくるの? と聞いた時に教えてくれたのよ。夫婦がとても仲良くしていたらその夫婦の元に天女様が子供を連れてきてくれるって。あんなに毎日旦那様と仲良くお話ししてるんだからきっと天女様もうちに来てくださるに違いないわ」
奥様はいたって真顔でフェアリー理論を展開した。
……ちくしょう!
私の傷ついたプライドを今すぐ元に戻せ。
なんでこの奥様はここまで器用で多彩な才能を持ちながら、この一点だけが欠けてるんだ。
アストロスは全力でこの場にいない何かに怒りをぶつける。
「いえ、あの…… 奥様、それは……」
「うふふ、楽しみだわ」
奥様はとても嬉しそうだ。
うん。
このフェアリーの如き笑顔を突破する自信は私には無い。
メイドも後ろで困った風に笑みを浮かべていた。
恐らく彼女と私の気持ちは今、一つになっている。
「天女様はいつ来て下さるかしら」
「そうですね。そう遠くないうちにはきっと来て下さいますよ」
アストロスは秘書としての能力を最大限に発揮し、至極真面目な顔で言い切った。
「そうね、うふふふ。それじゃ、私は行くわね」
「はい」
奥様がこの場を離れるのに合わせ、メイドもアストロスに小さく礼をして奥様の後を静かについていく。
そしてアストロスは秘書として温かい笑顔でフェアリー奥様を見送ったのであった。