生命法則の宇宙原理と生命体の根本支配エロス、あるいは性エネルギーについて
序説
性について秘教的にエソテリックに
読み解こうという試みです。
私がどこまで性をオカルト的に読み解けるか?
あらかじめお断りしておきますが、
それは保証の限りではありません。
単なる生物学的な読み解きに終始する可能性もあり得ます。
本論
性は、わたしたち人間を読みとくための「秘密の鍵」「秘密の暗号」である。
生命体を根本支配する原理としてのエロスについて、
これらの概念を現代的な課題として研究した第一人者といえば
そうです、
フロイトですよね。
ですが私がここで論及するのはそういう精神分析的な内容でないことをさきにお断りしておきます。
では何を論及するのか?
それは人間を根本で支配し突き動かす神の差配としての、エロスである。
神はなぜわれらに性をお与えになったのか、、ということです。
そもそもエロスという言葉は古代ギリシャで使われた、「知への渇愛」というような概念だったのが、
それがキリスト教が広まると
エロスを俗な愛、低次元の愛、、つまり性愛という風に意味が変わってきたということです。
それに対応する概念としてキリスト教的な高尚な愛として
アガペー(神への愛)という概念が導入されたのです。
だがこのアガペーにしても、
そもそも肉の子としての生の人間が存在しているうえでの
高次元の洗練された神への愛であり。
その基底にあるのはやっぱり「エロス」なのです。
神が先にあって、それから派生して肉の子が、有る、という見解も成り立ちますが、
肉の子がいなければ神は、、「神を神として認めて、拝んでもらえない」という逆説も成り立つわけです。
鶏が先か
卵が先か、、
論争みたいなものでしょうね。
肉の子がいなければ、、だれも神を対他的に認識しない、ということです。
神は絶対な自己認識で自尊するだけということになるのである。
そういう意味合いでは神とは「絶対の究極の孤独者」です。
神はそういう孤独に耐えかねて?
賛美者としての人間に、神を思う心を植え付けて、、つまり知性を付与して、創造したのです。
さてそういう神への賛美者としての人間存在ですが
この存在は「知的生命体」です。
ただし「命」という、くくりでは、生命体という概念では
ミドリムシと全く同格の一生命体です。
多様な生命体のジャンルの中の一種、、それが人間だということです。
そういう意味では
人間だけがことさらエライ?ということなどありません。
ただ先ほども言ったようにこの生命体には知性が宿っている、そこが他の生命体とちょっとだけ違う、、ということです。
そういう一生命体としての人間存在とは
その存在意味とは
他の生命体がそうであるように「生の発動」です。
これは全生命体共通の生命の意味ですので人間だけの意味ではないですが。
もっと砕いていうと、
生命は生きることを欲情?する。
ということです。
生きんとする意志。
生命活動とはまさに生きる欲動そのものです。
その生きる欲動の本質に
エロスがあるのです。
エロスとはここでは「生への衝動」とでも訳したらいいでしょう。
全生命は生きんと欲する。
その基底にはエロスという概念がある。
生イコール、性なのです。
性が無ければ生もありません。」
エロスこそが生命の根本要素なのです。
そのエロスが端的に現れるのが子孫を残す(生殖)ということである。
個体としての生命には終わりがあるのである。
生まれ、、育ち、、老化して、、やがて死んでゆく
という宇宙の大循環があるのである。
だから生命は永続を希求して、生命を次代に伝えようとする強い衝動を持つのである。
これが性欲である。
個体を超えて種としての存続を図ろうという意志、
それがエロス、(性欲)です。
エロスが端的に現れるのが性欲現象である。
全生命体を根本で支配するのが性欲(生殖)である。
下等な原虫類から高等な哺乳類までそれは一切の生命体を根本で支配している。
性とは、だから、生命そのものである。
そのために動物は争い、時には殺し合いさえする。
そうして生命を次代に引き継ごうとする。
より強い種(DNA)を残すために争闘を繰り広げるのである。
よりよく種が発展するように、強い生命を残すためである。
そういう性の闘争は
人間のような「知性」がある動物になると、
それは「恋の駆け引き」などというある種の高尚な?次元になる、
ただしもちろん。その恋の根底にあるのももちろん、「エロス」である。
そもそも、原虫のように
オス・メスという性がなかったらそもそも「恋」なんてありえないからである。
原始生物のように
自給自足で自己分裂して、自己増殖して、子孫を作ればいいだけのハナシである。
ところが人間には知性があるから、ことは面倒だ。
人間もまた一生命体にすぎないのであるが、
何しろ知性があるから
恋という魔法のオブラートがないと、、生殖ができない?という
想定外の事態が出現するのである。
これは生物学的には異常事態である。
恋なんてあやふやな、なんか訳の分からないようなものがなければ子孫が残せないなんて
生物としては、異常な欠陥なのである、
そもそも生命の法則とは
種族の保存と繁栄であり、もとより
個人個人の「好き嫌い」なんかのきまぐれの感情でそれが左右されたら、大迷惑?なのである。
知性(感性も含まれる)を持ったばかりに人間は
なんだかんだと文句をつけて生命法則に逆らったりするから困りものだ。
動物にも、つがいになるには、マッチング(相性)ということがあるのは事実だが
人間のような、ないものねだり?の、ある種の過剰な要求はない。
動物にあるのは、あくまでも生物学的なマッチングであるにすぎない。
動物にもしも人間のような、、、
知性的な
感性的な
フィーリング
好き嫌いの些細な相性
雰囲気
教養
マナーなどなどこうも条件があってはそれらをすべて満たすは不可能だろう。
そういう知性がらみの要求は動物にはもちろんあり得ない。
これらはすべて知性(感性)があるゆえである。
とはいえ人間ももとより生物であるから、その根本はエロス(生きる意志)であるから
まあにんげんらしいやり方で生命の発露が惹起されるのである。
恋のさや当て
不倫
略奪愛
売春
性犯罪
これらのすべての根底にエロスがあるのである、
おそらく去勢してしまえばおそらくこれらは無くなるのだろう。
だが生命現象の根本をつかさどるのが性欲であるから
性を消去すると、生命自体のエネルギー値も低下するのだろう。
まさに「英雄色を好む」という格言があるように
何事かをなすそのエネルギー源は
性欲、、性エネルギーが源ともいえるからである。
性エネルギーを文化的創造的に転化
昇華した時
人は偉人、英雄になるのであろう。
ただし
性衝動は原始的な生命法則そのものであるから
知性をもってしても抑えがたい、、ということでもあろう。
往々にしてそれはあらぬ方向に暴走して
人間を破滅に追いやるものでもあるのである。
たとえば性犯罪などがその典型であろう。
あるいは
分かってはいるけど不倫はやめられない?
ということであろうか?
知性はまた人倫というモラルを人間に要求するのである。
どうぶつ世界では強いオスが弱いオスを戦いでやっつけて殺して
力でメスを支配する、、という構図であるが、
人間界では、暴力でメスを支配すればそれは人倫にもとるということになるのである、
性犯罪ということである。
人倫に基づく、法の支配という概念が知的生命体である人間を支配するからである。
というわけで無理やり力づくでのメスを奪うことは人間界では罪となるのである。
ところで、反対に、
人間だけが知性があるから
「私は一生結婚しません」
「神に仕えるので、非婚です」などという
ことが出てくるのである。
神というものが宇宙原理とイコールだとするならば
これは生命法則への否定であり、まあ、言ってみれば人間のわがままであろう。
人間以外の生命体が「神に仕えるので非婚です」などということがあり得ないからである。
ミドリムシが「私は生涯結婚しません」
「私は一生独身で神に仕えるのです」なんて言えないですものね。
そもそも宇宙原理である神は
人間に対して「産めよ。増えよ。地に充てよ」と生命原理を唱導しているわけですからね。
生命の本義はそういうことだからです。
非婚だの、独身主義だのというのは、まあそれもこれもそもそも神が、人間に、
神を認識してほしいがために「知性」を授けたことが原因なのである。
もっと砕いてわかりやすく言うと、
神様は自分がこの宇宙を創世して、絶対者として存在してるのに、
それを認めてくれて,賛美してくれるモノが欲しかったのである、。
つまり神様は一人ぼっちで寂しかった?のである?
で、、
人間に、神を認識できる「知性」を授けた。
ところが知性はそんな原始的な生命法則を見下してしまって。
高尚な次元からそういう生命法則をある意味、バカにしだしたのである。
これには神も想定外?だったのでしょうね?
というわけで、人間だけが
生命法則に逆らうようなことも出てくるというわけです。
自殺なんて言う生命に逆らう行動も知性がある人間だけの所業です。
死への願望
死への衝動。
それは人間以外の生物にはありえません。
生命は生きることだけが本義ですから、
あるいは。
そもそも個性などというものも
知性があるゆえの、パラドックスであり
人格や個性などは生命という大きいくくりではどうでも良いものなのです。
なくっても良いということです。
生命の本義は生命そのものであり、生命の増殖だけが存立意味です、
人間も生命体にすぎませんから
その根本は個々人の人格・個性などはどうでもいいものであり、
個々の人間とは人間という種の「DNAの運搬人」にすぎないのです。
あなたも
私も
大文豪も
大画家も
大政治家も
ヒトという種のDNAを運搬してる「生命一般」にすぎないのです。
DNAを回す(受け継ぐ)の無個性の歯車にすぎないのです。
生命体全般の究極の目標はその種族のDNAがとこしえに次世代へ運搬・継承されれば良いだけのことなのです。、
そこには
個性とか
人格とか
偉人とか
ヒーローとか
美人とか
大作家とか
大政治家とか
そういう個性・人格は生命法則からは全く無意味なのです。
自然界においては個性とか人格なんて全く無意味です。
しいて言えば、生命力の旺盛なDNAが受け継がれれば、それでよいのです。
生命法則とは
全体としてDNAが維持継承されてヒトが種として、存続し続ければそれでよいのです。
それが生命法則なのです。
人間は知的生命体だなどと威張っていますが
所詮人間も「イキモノ」にすぎないのです。
生命法則から離脱することはできません。
生まれ育ち老い死んでゆくという生命法則から逃れられないのです。
そしてあなたの体を見てください。
男ならペニスがあります。
女なら乳房が、そして子宮があるでしょう。
なんでそんなものがあるのか?
いうまでもないですよね。
生殖して
子供を産むためです。
人という種を存続させるためです。
それが生命法則だからです。
それが宇宙法則だからです。
それなのに?
「私は一生結婚しません」なんて言うのは
極論するならば
生命法則への反逆であり
宇宙法則への屁理屈であり
神への冒涜なのです。
種の保存・生命保存の法則から必要だから、、子宮がある。
なのに、
子宮の本来の機能を使わないという人間のわがまま?
知性が邪魔して?
一生結婚しない、子どもなんか産まないという女性も出てくるのである。、
まあこれもすべて神の想定外の過ち?だったともいえるのでしょうね。
知性を人間に与えてしまった、、という。
本来性が悪だとか、いけないものだとかいうことはないです、
性がなければあなたも私もお釈迦さまも、日蓮も道元も空海も生まれてこなかったのですから。
むしろ性はありがたいもの?賛美すべきもの?ともいえるわけです。
ただし、人間倫理の範疇において、
性を野放しにできない、、というわけです。
あるいは
「私は神への愛に生きるので生涯結婚しません」という。
これも知性あるが故でしょう。
神を認識できるのは人間だけだからです。
ほかの生物はこんな妄言?をはいたりしないからです。
つまり、、
ミドリムシは「神への愛」に生きたりしないからです。
生命法則通りに生きて、自己分裂して生命を継承するだけだからです。
そもそもミドリムシには神認識は出来ないでしょうけどね。
このように人間存在というものは
知性が与えられたばっかりに
原始の生命法則からは逸脱して、屁理屈をこねくり回してしまったり
あるいは人倫という概念からの生命法則の放縦を叱責を受けたりと
何かと矛盾の多い存在だということなのです。
つまり人間という生物は、生物としてはかなり異端派?だということです。
総括すれば
性エネルギーは生命体の根本原理であり
人間もまたそのエネルギーで生かされている。
ただしこの性エネルギーは知性などでは制御しきれないことも
ありうるほど
すさまじいこともありうる。
古代より人間はその性パワーを何とか利用して
超能力を得ようとしたり
サトリを得ようとしたりした。
性エネルギーを封じ込めて抑圧して(禁欲)その、反動で?
悟りに到達するという「禁色・苦行法」
これは古来より多くの宗教で常に行われてきました。
しかしごく一部のいわゆる「性宗教」「タントラ教」では逆に
性のエクスタシーをサトリそのものと、同一視して
積極的に宗教的恍惚感をその中に得ようとした。
まあ今風に言えば。それは、
クスリでもって、恍惚になり
ラりって、それが神との一体感?みたいなものでしょう。
まあそれって違うでしょ?
ですが
そういう性宗教って、一般人にもワカリヤスイ?ですものね?
とことん禁欲して、肉体を極限まで痛めつけて、その果てに神を見る、
なんて一般人は嫌ですよ。
セックスしてそれで神と合体?のほうがイージーですものね?
まあ、実際の性宗教はそれほど安易な修行法でもないですが。
例えば
古代インドではこの性パワーを周天させてクンダリニ(龍)を覚醒させようという
タントラ教という性宗教すらあったのである。ここでは聖なるキノコとかハシーシェを使って幻覚のうちに
交わるという、まあ今風のクスリで昇天?みたいなこともやったようですね・
これって宗教?
という素朴な疑問ですよね・
単なるクスリセックス?でしょう、
ということです。
いわゆる邪教・淫祀でしかないでしょということです。
古代中国の仙道にも
この性エネルギーのパワーを活用して
超能力を覚醒させるという
「房中術」という修行法があった。
あるいはチベット密教では
「秘密集会タントラ」という
金剛上ヴァジラヤーナの悟りを得る性魔術もあったのである。
本来は宇宙を男性原理と女性原理の合体で悟りが得られるという教義で
それがタントラ教です。
だからこのご本尊は男女の神が合体した姿で描かれていますね。
歓喜仏、、ガネーシャがそれです。
だが、そうそう簡単に安易に
性エネルギーを調伏できるかといえば
ムリだということはお判りでしょう。
性エネルギーとは奔馬のごとし
でありそれをうまく都合の良いように
手なずける?なんて所詮無理な話なのである。
秘密集会タントラについて詳しく書くのは憚られるので詳しく書けませんが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E5%AF%86%E9%9B%86%E4%BC%9A%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9
ウイキペディアに解説がありますのでどうぞ、
結局こういう性宗教は、単なるクスリを使った乱交パーティに成り下がってオシマイ、、ということが多かったようですよね。
そもそも、、、
「宗教と性」これを仮にも結び付けたら、、その宗教の破滅は近い、といってもよいでしょう。
性エネルギーをうまい具合に、いいとこどり、、たって無理なんですよ。
それは核エネルギーを良いとこどりして、原子力発電なんて言ってみても、
暴走してメルトダウンすれば、放射能汚染で人類を滅亡しかねない、、というのと似ているかもしれませんよね。
所詮
核エネルギーも
性エネルギーも
あまりにも強力ですから暴走したらもう、手が付けられないという事態になりうる、ということです。
ですからいわゆる、まともな宗教がすべて、性を禁止して遠ざけた、
というのは至極正しい判断だったということです。
性エネルギーの善用・昇華、活用、それはごく少数の
それは究極の超人にしかできないほど難しいものであるからです。
一般的な宗教で一般信者などができることではないのです。
無理なんですからいわゆるまともな宗教は禁止しかないのです。
性は、、生命そのものであり。生命体の根本原理である。
性あるがゆえに、生命もあるのである。
だから神は性を人間のエネルギー源としてはおそらく最大限にまで強力化したのである。
人間は知性がある、、などといってみても、
人間は理性がある、、なんて言ってみても
所詮そんなものは性エネルギーの前では無力な、
「蟷螂の斧」でしかないのである。
それほどにも、強力無比でなかったら?
生命がいとも簡単に衰退して滅亡してしまいかねないからである。
種族保存が強力にできるように性エネルギーは最強なのである。、
であるからして時として
大暴走して性犯罪になったりすることがあるということでもあるのである。
性エネルギー自体はただ種族保存すればいいのですから
善悪とか
違法とか
関係ないですからね。
まあ、というわけで知性的な理性的な側面からしたら
性エネルギーって物は取り扱いが「困ったもの」なんですよ。
ところで
性エネルギーについての精神分析的な論及は
私はしませんので、興味がある人は
フロイトの本でも読んでくださいませ。
性欲とヒステリー
エディプスコンプレックス
欲動の発達と源泉
性の退行現象
性的逸脱 露出症、同性愛,窃視症、幼児性愛
異常性欲 サディズム マゾヒズム、フェティシズム
これらはフロイトの本で研究されているはずですから。
ということで私の論及はここまでで終わりにしたいと思います。
結局
いつもの私らしい?まとまりのない、支離滅裂な?内容になってしましましたね?
まあそういうわけでご容赦くださいませ。
いずれにしましても「性と宗教」というのは連綿とした宗教の裏面史を彩ってきたダークサイト(黒歴史)だったというまぎれもない事実でしょうね・。
今現在において
性を公認したら、、その宗教はもうオシマイなのですから。
ましてや性魔術とか麻薬でセックスなどは宗教以前の問題です。
刑法上で許されるはずもないわけもないですからね。
最後にノヴァーリスのこんな意味深の言葉で締めくくらせてくださいませ。↓
「われらに夜の伴侶を与えてくれる結婚とは、また死の伴侶でもあるのである。
死において愛は甘美であり、愛する者にとって死は婚礼の夜のようなものだ。
結婚とは数々の密議を秘めた秘密の鍵である。」 (ノヴァーリス)
性は生命体の基本原理であり、中核です、
性無くして生命もあり得ません。
依って性は生命のすべてにわたって支配原理です。
そういう中核原理である性は生命を根源から突き動かすのです、
だからこそ、それは強力かつ強靭なのです。
それをちっぽけな人知などで統御したりうまく活用するなどは
はっきり言ってムリなのです、
性はそんなヤワなものではありません。
というわけで性をうまいところ撮りして、性魔術?
性エネルギー善用法?
おいおい
そんなことできるわけないだろう、、っていうことなのです。
性は奔馬のごとし。
個々の人間などという存在は、単なるDNAの奴隷運搬人にすぎないということです。
人間の理性や浅知恵で性を統御なんてできないってことさ。
個々のニンゲンなんてものは、性にこき使われてオシマイ、、
目的は種(DNA)の存続だ、
個々の人間存在などそのための道具・部品・歯車・消耗品にすぎないのだ。
いいかね
分ったかい?
性を手玉に取って?
性を手名付けて?
旨くあしらって
利用して?
しめしめ活用しよう
悟りを得る手段にしよう、
なんてこともくろんだって
お前のほうこそ性にうまく利用されて破滅するのがオチなのさ、
いいかい
分ったかい?
結論
シャカは、、たしか、、、こう説いていたはずだ。
「極端を離れなさい」
「偏った道を行ってはいけません」
「あくまでも中道を行くのです」
こうした、シャカの教えをよくよく考えてみれば
というか、、、
推し量るまでもなく
脱法ハーブを飲んで
十二歳の乙女(第七分、第十五分)
十六歳の乙女(第四分、第七分、第十六分)
二十五歳の乙女(第八分)
、、と、セックスヨガ?
なんて良いハズがないのである。
これでは完全なる逸脱であり
やりすぎです。極端すぎるのです。
これはダメなのです。
逆に仏教のある宗派では
極端な禁欲と苦行を行って悟りを得ようとするものもあります、
絶食
山野をはだしで跋渉
マントラを一日一万回唱える
座禅を徹夜で行う
などなど、、
こうした極端な苦行というのは実は世界のいろんな宗教でしばしば行われれる常とうう手段?なのです。
針金を束にしてそれで自分の背中を鞭打って血だらけになる
性欲封じに自分の陰茎を切り落とす、
などという修行法さえあるのです。
ですがこれも極端すぎます。
禁欲・苦行過ぎてもいけませんし
逆にセックスヨガも極端すぎます。
シャカの教えに反していることは明確でしょう。
極端は結局身の破滅しかもたらさない。
シャカはそう見抜いていたのです。
シャカは、、たしか、、、こう説いていたはずだ。
「極端を離れなさい」
「偏った道を行ってはいけません」
「あくまでも中道を行くのです」
こうした、シャカの教えをよくよく考えてみなければなるまい。
以上。あくまでも私の「私的見解」であることをご承知おきくださいませ。