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第四話 桜並木

 結局、私の怪我はたいした怪我ではなかった。打撲だけで、指がダメになったわけでも骨が折れたわけでもない。けれど、別に安心したわけでもなかった。

 死ぬかもしれない。そう言っていた雛菜ひなさんの無事がまったく確認できないから。


 私は治療を受けてすぐに寮に帰れたけれど、雛菜さんと飛翔ひしょうさんはいつまで経っても帰ってこなかった。二人が帰ってこなくて一人だった時はあったけれど、こんな夜中になっても帰ってこないのは初めてだった。

 携帯で連絡を取りたいのに、私は寮の番号しかしない。途方に暮れて、どうしようもなくて、寝ることもできずに談話室のソファに座っていた頃。小さな音を立てて扉が開いた。


「ッ?!」


 飛翔さんだ。そう思って廊下に飛び出すと、そこにいたのは彼じゃなくて翼咲つばささんだった。


「翼咲さん!」


杏子あんこさん!」


 目を見開いて駆け寄ってきた翼咲さんは、私のことをいきなり抱き締める。女性に触れても平気らしい翼咲さんは涙を流していて、私も思わず涙が零れてきた。


「翼咲さん、ごめんなさい。私……」


「杏子さん、良かったぁ〜! 良かったぁ〜!」


「えっ、違っ、翼咲さん! 雛菜さんが……!」


「えっ、雛菜? 雛菜は大丈夫だよ」


「えぇっ?! そんなわけないですよあんなにじんましんが出てたんですから! 死んじゃいますよ!」


「死ぬのは飛翔だけだから大丈夫だよ、杏子さん! 雛菜もダメだけど死ぬほどじゃないから大丈夫!」


「えっ? ほ、本当ですか?!」


 良かったと、すぐに思えたら良かったのだけれど。〝死ぬのは飛翔だけだから〟がどうしても心の奥底に引っかかってしまって拭えなかった。


「……どうして、飛翔さんと雛菜さんは女の子に触られたら死んじゃうんですか?」


 何度も気になって一度も聞けなかったことを聞く。飛翔さんにも雛菜さんにも聞けなかったけれど、翼咲さんなら答えてくれるような気がして私は縋った。


「うーん、飛翔は異様にモテててダメになっちゃって、雛菜は出る杭打たれちゃったって感じかなぁ。雛菜は所謂天才肌で、私と違って愛想が死ぬほどなかったからさぁ。あの子って女の子が嫌いな女の子って感じでしょ?」


「えっ、そうなんですか?! 私雛菜さんのこと大好きですけど……」


「えっ、本当?! 嬉しいなぁ〜……雛菜も杏子さんのこと絶対に気に入ってると思うし、その気持ちちゃんと伝えてあげてね!」


 きゃっきゃっと弾ける翼咲さんは、雛菜さんとまったく同じ顔をしているからかその言葉がぎゅっと心を掴んでくる。

 本当に可愛くて、飛翔さんは本当に格好良くて、高雛家の三つ子さんは私の憧れだ。


「はい! って、翼咲さん雛菜さんのところに行ったんですか? それとも飛翔さんから連絡を貰ったんですか?」


「ううん。私が通う学校のとこに雛菜と杏子さんが運ばれてきたの。そしたら私が急患として運ばれてきたみたいな噂が流れてきて、まさかと思って行ったら雛菜だったんだよ」


「飛翔さんはいましたか?」


「あぁ、いたよ? けど、すっごくショックを受けた顔をしてたから多分もうダメかもしれないなぁ」


「だ、ダメって……」


「触ったらじんましんとかそういうレベルじゃなくて、女性恐怖症の恐れがあるってこと。まぁ、私と雛菜ならまだ大丈夫だと思うんだけど……杏子さんのところに容態を確認しに行かなかったのはそういうことかなぁって」


 言葉が出なかった。目の前が真っ暗になったと思った。

 目頭が一気に熱くなって、はらはらと涙が零れてくる。


 止まったと思ったのに、止まらない。もう手遅れなんだって自覚したら、心が張り裂けてしまうほどに痛くなる。


「杏子さん?」


 翼咲さんが困ったように眉を下げていた。困らせちゃいけないって思うのに、涙は全然止まらなかった。


「翼咲さん、私……こんなに飛翔さんのことが好きだったんだなぁって……思って、それで、止まらなくて」


「杏子さん、飛翔のこと好きだったの?」


 信じられないとでも言うように目を見開いて、翼咲さんはもう一度私のことを抱き締める。


「杏子さん、私、杏子さんのこと好きだよ? 雛菜も杏子さんのこと好きっぽいし、飛翔も絶対杏子さんのこと大好きだよ」


「でも翼咲さん、今女性恐怖症って……私の容態見に行かなかったって」


「言ったよ。言ったけど杏子さん、飛翔が嫌いな女の人じゃないもん。それは飛翔が一番わかってると思うよ? 杏子さんは雛菜のことをイジメるような悪い人じゃないから、いい人だから……その大好きも私は伝えてほしいって思うよ」


「ッ!」


 伝えられるなら、伝えたい。届くなら、伝えたい。

 それで嫌われても、このままじゃ私はずっとこの恋を引きずっている。


「私、飛翔さんに会いたいです」


「うん。まだ病院にいると思う」


「行ってきます」


「一応これ確認していって。飛翔のメアドだから」


 ありがとうございます、消えそうな声でお礼を言った。翼咲さんは大きく首を横に振って、やっぱりもう一度私のことを抱き締める。


 飛翔さんも、雛菜さんも、私のことを抱き締めることは一度もなかった。

 その温もりは今の私にとって一番必要なもので、今一番してほしいことだった。


「翼咲さん、絶対お医者さん向いてます」


「杏子さんも作曲家向いてるよ。雛菜と飛翔がまだ追い出してないんだもん」


「……ありがとうございます」


「……私こそありがとうだよ」


 笑顔になって送り出してくれた翼咲さんに恩を返す為、私は死ぬ気で走り出す。


 今すぐに行って、今すぐに会って、今すぐに伝えたい想いがある。

 帰ってきた道を辿るだけだった。早く、早く行かないとすれ違いになってします可能性もある。


 私は急いでタクシーを拾い、場所を伝えてスカートの裾を握り締めた。窓の外には夜景が広がっていて、東京の明るさに眩暈を起こしながら深呼吸を繰り返す。

 そうして、見えてきた病院の外観に安堵した。





 院内を走ることなんてできなくて、私は早歩きになりながら雛菜さんの病室へと向かう。雛菜さんの病室は個室らしく、教えてもらったフロアに辿り着くとその前の廊下に飛翔さんが立っているのが見えた。


「飛翔さん!」


 その姿を見れただけで緊張が解れる。飛翔さんは俯いていた顔を上げ、驚いたように目を見開いた。


「杏子?! なんで……なんでここにいるんだよ! 怪我は……」


「私は大丈夫です! 打撲だけで済んだので……雛菜さんの方は?!」


 ほっとしたように息を吐き、顎で雛菜さんの病院を差して腕を組む。


「無事だ」


「飛翔さんは、無事ですか?」


「はぁ? どう見ても杏子と雛菜の方が重症だっただろ。なんでそんなこと……」


「だって飛翔さん、女の子に囲まれていたじゃないですか!」


 だからこんなにも心配する。死ぬかもしれない飛翔さんだから、死なないでいてほしい飛翔さんだから、守らなきゃいけない人だと思う。


「見てたのか」


 飛翔さんは苦虫を噛み潰したかのような表情をした。


「別に俺は問題ない。雛菜が庇ってくれたからな」


「そうですか……」


 良かったとは、また言えなかった。

 けれど、翼咲さんは女性恐怖症の恐れがあるって言っていたのに飛翔さんは私のことを怖がっているようには見えない。


「飛翔さん、私のこと怖いですか?」


「いや、別に」


「他の女の子のことは怖いですか?」


 飛翔さんは答えなかった。無言は肯定かと思って、「嫌いだ」と答えた飛翔さんの言葉が胸に刺さる。


「だから杏子、お前と組む」


「えっ?」


「卒業制作。他の面子は男で固めたんだが、音楽家コースの人間にもう男はいない。だからお前の曲を使う」


「えっ?! 飛翔さん、何を言ってるんですか?!」


 話がよくわからなかった。私は確かに音楽家コースの人間だけど、まだ入学したばかりの一年生なのに。


「できる。雛菜に聞いたら一年でも参加できるって言われたからな」


「でも私、なんの技術もないんですよ?! 飛翔さんのお役に立てるかどうか……」


「僕がいるでしょ」


「ッ?!」


 振り返ると、雛菜さんが病室から顔を出していた。


「僕がありったけの技術を君に教える。もう杏子にしか頼れないから、だからお願い、飛翔の夢を叶えて」


「私が曲を作るってことですか?」


「そう」


「それを飛翔さんが歌うってことですか?」


「そうだ」


 そんなの、飛翔さんの夢じゃない。それは、心の奥底で描いていた私自身の大切な夢だ。


「私、やります!」


 一足先に私と同じ夢を叶えた雛菜さんに支えられながら、アイドルを志す飛翔さんの羽根になりたい。飛翔さんに歌ってもらえるのはまだまだずっと先のことだと思っていたけれど、私は今、この青春をかけて飛翔さんの羽根になりたい。

 私の名前は杏子だけど、雛鳥が翼を得て飛翔する高雛たかひな三兄妹のように私だって空を飛びたいと心から思う。心が跳ねる。この学校に来て、飛翔さんと雛菜さんと翼咲さんに出逢えて、本当に良かった。


「飛翔さん! 雛菜さん! 大好きです!」


 伝えたいから伝えたら、飛翔さんと雛菜さんは視線を逸らした。それが照れ屋で素直じゃない二人の照れ隠しだと言うのなら、好きだって言った甲斐がある。

 抱き締めることは絶対にできないけれど。心は何度だって二人のことを抱き締めていた。





「飛翔さん、好きです!」


「……うるさい」


「ずっと大好きですよ!」


「何度も聞いた」


「はいっ。何度も言いました!」


「今日という日くらい黙ってろ」


 振り向いた飛翔さんは、羽根がついた美しい衣装を身に纏っていた。それは、デザイナーコースの先輩が作ってくれた大切な衣装だ。目の前に広がっているステージを着飾ったのは、芸術家コースの先輩が作ってくれた大切なステージ。飛翔さんの綺麗な顔と髪を色っぽくメイクしたのは、美容師コースの先輩がしてくれた大切な芸術品だ。


 飛翔さんは、舞台裏にいても輝いている。他のどの芸能人コースの人たちよりも、輝いている。そう思うから、私は飛翔さんを胸張って送り出せる。


 アイドル志望の飛翔さんはここで歌を歌うけれど、次の先輩は芸人志望の先輩だ。飛翔さんの前の先輩は俳優志望の先輩だったから、複数の先輩たちが役を演じて舞台を披露していた。そんな人たちにも負けない輝きを胸にいっぱい抱き締めて、今日、飛翔さんたち先輩方は卒業する。


「一年間、ありがとうございました」


 卒業制作を始めて一年が経った。私はまだ一年残っているけれど、飛翔さんを含めた先輩たちは全員卒業してしまう。


「まだ言うな、バカ杏子」


「……はい」


「だからって泣いていいとは言ってねぇぞ、バカ杏子」


「……すみません」


 一年間「好き」って飛翔さんに言い続けていたけれど、飛翔さんは最後まで「うるさい」の一点張りだった。

 この想いが届かなくても、届くまで。いつまでも、心の優しいところに届くまで。言い続けてきた私の努力は無駄だったのかそうじゃないのか。


「杏子」


「はい?」


「背中押せ」


「いいんですか?」


 雛菜さんは私のことを服越しに触ってくれたことがあったけど、飛翔さんには服越しでさえ触れたことがない。服越しでさえ触れることが許されなかったのだ。


「今までずっと『好き』って言っといて、何躊躇ってんだよ」


「いや、それとこれとは話が違いますよ! ほ、本当に……」


「頼む」


 そう言われたら断れなくなる。そっと、ゆっくりと、飛翔さんの背中に触れて――私は強く、彼の大きな背中を押した。


「いってらっしゃい!」


 一年間寮でも言っていたその言葉を追い風にして、飛翔さんは力強い駆け出していく。そうして、名前の通り飛翔した。

 私が一年かけて作った曲をステージに降らせて、飛翔さんの透き通った歌声が乗せられる。他の先輩たちと一緒にコンセプトを決めてずっと作ってきたあのステージで、飛翔さんは最後に一番輝いていた。





「飛翔さん、好きです」


 最初で最後のステージから下りて、メイクも落として、衣装から制服に着替えた飛翔さんにちゃんと言う。

 《タカヒナ寮》へと続いていく桜の並木道を歩いていた私たちは、どちらかともなくお互いを見つめた。


「それいつまで言うんだよ」


「この想いが届くまで、私は何度だって言い続けます!」


 強く言うと、飛翔さんは「へぇ」と笑う。何度も言ったからどれくらい本気か伝わっていると思ったのに、飛翔さんにはまだ伝わらない。


「じゃあもう言うな」


「えぇっ?!」


「そういうことだから」


 本格的にフラれた。そう思った直後に飛翔さんはいたずらっぽい笑顔を見せた。


「そういうことって……」


 多くを語らない飛翔さんは、どんどん先に言ってしまう。私は、あの日私たちが出逢った桜並木を走りながら飛翔さんの後を追った。

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