第三話 課題
芸能人コース、音楽家コース、芸術家コース。様々なコースに分かれて授業を受ける私たち新入生は、さっそく課題を出されることになってしまった。
飛翔さんは芸能人コースらしく、その中でもアイドルを夢見て歌っている。彼が歌う歌はすべて雛菜さんが作った曲で、まだ在校生なのに所属事務所も決まっているという話だった。
音楽家コースの私はこの一週間で一曲作ってこいと言われ、さっそく心が折れかけている。
楽器を演奏することは好きだけど、いきなり作曲しろと言われてもどうすればいいのかわからない。
そんなことに悩みながら、私は談話室にあるピアノの前に座っていた。学校で貸し出されているものには限りがあって、家にある者はそちらでやれと言われたのだ。
(でも、この寮には飛翔さんと……)
そこまで思って手を止める。
「……雛菜さんがいる!」
そうだ。私にはプロの作曲家の雛菜さんが側にいるじゃないか。
こうしちゃいられない。そう思って、私は立ち上がって辺りを見回す。けれど雛菜さんはここにはおらず――私は慌てて廊下に飛び出した。
「あっ」
その時寮の扉が開く。帰ってきたのは雛菜さんではなく飛翔さんだった。
「飛翔さん!」
久しぶりに彼の名前を呼んだ気がする。飛翔さんはやっぱり私の方を一度も見ず、ずんずんと私を避けるように歩いてきた。
「雛菜さんどこにいるか知りませんか?!」
そしてその足を初めて止め、「……雛菜?」と訝しげに問うた。
「はい。探してるんですけど……」
「いないのか」
「まだ全部を探したわけじゃないので断言はできませんが」
飛翔さんは耳に当てていたヘッドホンを取った。やっぱり聞こえてたんだなってその時思って、彼が少し焦る姿をこの目で見る。
「今日は仕事がないはずだ。雛菜は出歩くような奴じゃないし、この中にいると思う」
「あ、じゃあちゃんと探してみます」
踵を返すと、「待て」と飛翔さんに呼び止められてしまった。
「はい?」
「なんで雛菜を探してた」
「今日、作曲の課題を出されたんです。それでアドバイスを貰おうと思って」
すると、真剣そうな表情で尋ねた飛翔さんの唇がへの時に曲がった。
「バカかお前」
「えっ?」
「バカ杏子」
「や、ちょっと、何言ってるんですか!?」
急に態度を変えて私のことを馬鹿にする飛翔さんは、やがて盛大にため息をついて肩に下げていた鞄を下ろす。そしてそのまま私の体に当ててきた。
「その課題はうちの学校の伝統課題だ。どのコースの人間も、どんな奴でも、自力でやらなきゃ意味がねぇんだよ」
「えっ? で、ですが、先生はわからなかったら周りに頼っても良いと……」
「それがウチの、《タカヒナ寮》のルールだ。お前バカだから全然気づかなかったんだろうけど、ウチの寮は成績優秀者しか入れねぇんだよ。少しでも成績が落ちたら追い出す。少しでも才能がねぇと判断したら追い出す。少しでもやる気が感じられなくなったら追い出す。この業界に合わねぇと思ったら追い出す。翼咲は文句を言ってるが、それが俺と雛菜で決めたウチのルールだ」
「……え?」
今、飛翔さんなんて言った?
それは私の聞き間違いなんかじゃない?
「俺と雛菜は、今のところ杏子がダメだなんて思ったことはない。杏子だって……カッコいい人間だと思う。バカでも才能はあるんだから頑張れよ」
私の夢なんかじゃない?
こんな幸せなことを言われた日なんて、今まで一度でもあっただろうか。そう思うくらい飛翔さんの言葉は優しく心に染みてくる。
――だからやっぱり、私は飛翔さんのことが好きだ。
「……優しいですね、飛翔さん」
言葉が漏れた。それくらい嬉しかった。
「はぁ? 優しくねぇだろ」
「でも優しいです」
「俺たちは周りに頼るなと杏子を突き放しただけだ。それで何人追い出してきたと思ってる」
「でも、自力でやらなきゃ意味がないっていうのは一理あると思います。最初から他力本願なのはやっぱり良くないですよね」
私は、わからないからと言ってすぐに雛菜さんに縋ろうとした。けれど、それは多分正しくないのだ。
私はまだ、自分の力で頑張ってない。
「自力でやってみます! しばらくうるさくしてしまいますが、許してください!」
「バーカ。よっぽどの出来じゃない限り、俺たちにとって音楽は騒音なんかじゃねぇんだよ。思いっ切りやって来い」
「はいっ!」
年下だけど、先輩。突き放すけど、それは優しさ。それがわかっただけでも飛翔さんに声をかけて本当に良かった。
すぐに談話室へと駆け込んでピアノに向き合う。この溢れ出してくるメロディを、どう奏でよう。どうすればこのメロディが飛翔さんや雛菜さんに届くだろう。
そう思うだけでわくわくする。
指が、自然と鍵盤の上で踊っていた。
*
「杏子」
不意に名前を呼ばれて視線を向けると、ソファに飛翔さんと雛菜さんが座っていた。いつの間に雛菜さんが、と思って時計の針が差す時間に驚く。
「そろそろ休憩して。キリがいいでしょう?」
言われてみれば、やけにすんなりと雛菜さんの声が耳に入ってきた。集中が途切れたわけでもない、そんな絶妙なタイミングを狙って雛菜さんは声をかけたのだ。
「あっ、はい! すみません!」
慌てて立ち上がり、二人が別々のソファに座っているのを見て足を止める。
女性に触れられたらじんましんが出る――そんな二人のどちらにも近づけなかった。
「来いよ。触んなかったら近くに来ても怒んねぇから」
飛翔さんがぽんぽんと自分の方のソファを叩く。私は一瞬迷ったけれど、やっぱり飛翔さんの側にいたくて駆け寄った。
「し、失礼します!」
「別に言わなくてもいいだろ」
呆れた飛翔さんの声が右側から聞こえてくる。前回はかなり距離を置いて座っていたけれど、この距離は――食堂の時くらいの近さだ。
「いい曲だった」
「えっ?」
恥ずかしくて自分の膝を見つめていた視線を思わず上げる。雛菜さんは、真っ直ぐに私を見据えて頬杖をついていた。
「……珍しいな。雛菜が人を褒めるなんて」
「褒められるような人間がいなかっただけ」
「えっ、ほっ、ほっ、褒めていただけるんですか?!」
「イマドキ感は全然ないけど」
ばっさりと切り落とされたけど、「いい曲だった」って雛菜さんが褒めたのは確かなことで。
「飛翔も口ずさんでたし」
「てない」
「嘘つき」
「てない」
そんな雛菜さんが見ていた飛翔さんの反応が、人生で一番嬉しかった。
「嬉しいです……! ありがとうございます!」
この喜びの伝え方を私は知らない。けれど、二人が笑ってくれているような気がして伝わっているのかなぁとまた嬉しくなる。
私も追い出されるのかもしれないけれど、そうならないようにこれからもずっと頑張らないと。
この寮に人がいないのは、心を痛めた人が逃げたからじゃない。そのことを知れただけでも本当に良かったと心の底から私は思えた。
*
演奏していた楽曲を譜面に記し、デモテープを制作して提出すればこの課題はもう終わり。
楽譜を作るだけならば教室でもできるから居残っていると、窓の方から争うような声が聞こえてきた。
「高雛くん! いい加減に誰にするか決めてくれない?!」
「そうだよ高雛くん! このまま誰も選ばないままでいいの?!」
……高雛くん?
その名前は聞き覚えがあり過ぎる名前で、私は慌てて窓の方へと駆け寄り下を見る。そこには、複数の女の子に囲まれた飛翔さんがいた。
「飛翔さん?!」
「うわっ、杏子姉いきなりどうしたの?」
「飛翔さんが……! 女の子たちに囲まれてて……!」
「あ〜。高雛先輩、まだグループ組んでないっぽいしねぇ」
多恵子ちゃんが納得している間にも、飛翔さんを囲む女の子の数は増えていく。
「な、なんで?! なんであんなに女の子が……!」
「あれ? 杏子姉知らない? ウチの卒業制作のこと」
「卒業制作?!」
「ウチは二年制でしょ? だから二年の先輩はすべてのコースの人とグループを組んで卒業する為の課題に取り組まなきゃいけないの。もう春だし、そろそろ決めないと成績優秀者を確保できないどころかお披露目会に間に合わない可能性だってあるの。だから先輩たちはこの時期すっごく必死なんだよ」
だから飛翔さんは、あんなに多くの女の子に囲まれているの? そんなの、飛翔さんの体質を知っていたらどんなに飛翔さんとグループを組みたくてもできないはずなのに――。
「……まさか、誰にも話してないの?」
即座に嫌な予感がした。
「ほぇ? 何が?」
「……死んじゃう」
「えっ、誰が?!」
「飛翔さんが死んじゃう!」
いても経ってもいられずに教室を飛び出す。飛翔さんには自分がモテるっていう自覚があるはずなのに、どうして肝心なことを女の子に誰一人として伝えていないのだろう。
私にじゃなくて、伝えるべき相手はもっと他に――たくさんいるのに。
焦って階段を踏み外し、私は廊下に飛び出して転がる。
「ッ!」
痛い。同時に熱い。けれど、この後起こるかもしれない飛翔さんの苦しみを思うと立ち上がれる。
「行かなきゃ……!」
死んじゃう。だって、飛翔さんはあの時ちゃんと「殺す」って言った。「死ぬ」って言った。だから――
「杏子?」
――瞬間、驚いたような雛菜さんが私のことを見下ろしていた。
「雛菜さん……」
希望に縋るように、だけど瞬時に彼女にも触れられないことに気づいて私は伸ばしていた手を引っ込める。
「誰にやられた」
怖い顔で私の側に腰を下ろした雛菜さんは、私が誰かに暴力を受けたかのような言い方だった。
「助けて……」
「杏子」
制服越しに雛菜さんが私に強く触れる。
「犯人は誰」
「飛翔さんが死んじゃう……!」
制服越しにしか触れない雛菜さんに訴えると、彼女の体が瞬時に強ばっていくのを制服越しに私は感じる。
「何故」
雛菜さんの声は震えていた。
「中庭で……女の子たちに飛翔さん囲まれてて……あのまま放っておいたら……」
鬼のような瞳だった。ぽんと優しく私の背中を撫でて、他の講師を呼んで、私を託して走っていく。
自分だって触れたら死んじゃうかもしれないのに、三つ子の姉の雛菜さんは弟思いの優しい姉で。私は、両手足の痛みで一歩も動けずに横たわるだけだった。
*
保健室のベッドで横になっていると、救急車を呼ぶという声が遠くの方から聞こえてきた。驚いて起き上がろうとして、手の痛みに気づき起き上がることを断念する。
慌ただしい足音が聞こえてきた。それは保健室に向かっているようで、私は視線だけを扉の方へと向ける。閉められていないカーテンの先にある扉は私の時から開いていて、養護の先生がそっちの方へと駆け寄っていくのも見えていた。
「高雛さん! 高雛さん!」
「ッ?!」
男性の声が聞こえてくる。
「高雛さん、大丈夫?! しっかりして!」
その声の必死さが私の心臓をぎゅっと縮める。
「飛翔さん?! 雛菜さん?!」
どっちかはわからない。どっちもかもしれない。痛みを我慢して起き上がると、飛翔さんが大慌てで保健室の中に入ってくる瞬間と重なった。
「飛翔さん!」
「杏子?! お前、その怪我どうしたんだよ!」
「飛翔さんこそ、雛菜さんは?! 雛菜さんはどうなってしまったんですか?!」
「雛菜は……」
刹那、男性職員に担がれた雛菜さんが姿を現した。ぐったりと弱っていて、美しい顔だけでも恐ろしい数のじんましんがあるのが見える。
「雛菜さん!」
悲鳴にも似た声が出てきた。飛翔さんは私と雛菜さんを交互に見つめて、顔色をサァっと瞬時に青ざめる。
「救急車呼べ! 雛菜と杏子が危ねぇ!」
「えっ、だ、ダメです! 私はたいしたことないので」
「音楽家が手足を怪我してるのにたいしたことねぇわけねぇだろ!」
飛翔さんは怒鳴って拳を強く握り締めた。悔しそうに、私と雛菜さんの側から一時も離れなかった。
救急車に乗る時も、病院についた時も、飛翔さんはずっと一緒にいてくれた。私の手は握らずに、雛菜さんの手だけは握っていたけれど。視線はずっと私の方を向いていたのを、意識があった私は知っていた。