第二話 音楽業界
翌日、昼時になって食堂に足を運ぶと、すぐに見つけることができた。
「飛翔さん」
一人でいた彼に声をかけると、眉間にしわを寄せていた飛翔さんは振り向いて私を見下ろす。そして真顔になり、「……杏子か」と呟いた。
「どうしたんですか?」
偶然を装って会いに来たのに、飛翔さんは食堂の入口で立ち止まって踏み出せないでいる。その理由を尋ねると
「クソみてぇに女が多い」
飛翔さんは食堂の中を見つめて不満を漏らした。
「あぁ……!」
そっか。そういうことか。
その事実に傷ついていたのに、どうして察することができなかったのか。
私は自分を責めて、拳を握った。
「じゃあ、私が行ってきますよ!」
「……マジで?」
「飛翔さんは座って待っててください! 必ず取りに戻ってきますから!」
大切な人の弁当を拒むくらい食べたかったのは、私が一番知っているから。
飛翔さんは私を見送り、私は意気揚々と食堂のレジへと向かう。途中何度か女の子とすれ違って、飛翔さんの言っていたことはこのことなんだと実感した。
(早くしなきゃ)
飛翔さんが私を待ってる。
あの時私が救いの手を待っていたように、飛翔さんは私――正確には昼食を待っているのだ。
レジで飛翔さんが求めていたカレーの会計を済ませ、私は辺りを見回す。すると、座っていた飛翔さんが片手を上げた。
「ッ!」
呼んでる。
私はカレーを落とさないように気をつけながら飛翔さんの元へと辿り着き、精一杯笑った。
「杏子の飯は?」
その笑顔が保てたのは、ほんの一瞬。
「あっ、忘れてました!」
そんな私の代わりに笑ったのは、まさかの飛翔さんだった。
くつくつと喉の奥を鳴らし、歯を見せて笑っている。
「――!」
絶世の美男子が、年相応に笑っている。
たったそれだけなのに胸を動悸が打って、息ができなくなってしまった。
私は息を止めていることさえ忘れ、飛翔さんに見入ってしまう。そんな私の視線に気づいたのか、飛翔さんは顔を上げて真顔になった。
「何ボケてんだよ。飯がないんだろ?」
「あっ、はい! そうでした!」
「そうでしたって、まだボケてんのか? ここは田舎じゃなくて都会だ。ボケボケしてたら飯なんかすぐになくなるぞ」
「ひぃっ?!」
そんな、ご飯抜きは――!
振り返ると、食堂のレジはさっき以上に混んでいた。元々人混みに慣れてないのに、またあの中に行くなんて辛すぎる。
「もういい。座れよ、杏子」
視線を落とすと、隣の席を指差す飛翔さんが私を見上げていた。
「えっ……? 私なんかが座っていいんですか?!」
「杏子以外に座られたら困るんだよ。いいから座れ」
飛翔さんは不機嫌そうに唇を尖らせ、私に着席を促す。
慌てて座るけれど、だから私にはご飯が……
「お前、こっから先は食うなよ」
「はい?」
「だから、こっから先は食うなって」
飛翔さんはスプーンでカレーに溝を作って、半分を私の方へと寄せる。
嘘……。それってつまり、
「食べていいんですか?!」
思わず身を乗り出すと、飛翔さんは壁際まで体を逸らして私を睨んだ。
「いいから黙って食えよ」
「いっ、いやいや! 食べれませんよ! だってこれは飛翔さんのお金で買った、飛翔さんが雛菜さんのご飯よりも食べたかった素晴らしいカレーなんですから!」
「だから黙って食えっつってるだろ」
私が遠慮すると、飛翔さんはどこから取り出したのか新しいスプーンを私に向けて命令した。
「ひ、飛翔さん……!」
飛翔さんが優しくて、涙が出そうになる。
どうしてあの日も今日も、私なんかを助けてくれるのだろう。
――だからどんどん、飛翔さんに惹かれていく。
「い、いただきます」
手を合わせて、涙を拭いながらスプーンで掬う。当たり前だけどカレーの匂いがして、口に含めば舌を刺激した。
「辛っ!?」
「そんな辛くねぇよ」
飛翔さんは真顔で食べ続けるけれど、いや、これ……辛くない?
「飛翔さんは辛口派なんですか?」
「杏子の舌が子供なんだろ。誰も食えねぇくらい辛いカレーなんか学食に置くわけねぇし」
「そんなことないです! 絶対に!」
「そこまで言うなら晩飯もカレーにするからな。雛菜に頼んで甘口から辛口まで食わせるぞ」
「望むところです!」
すると飛翔さんは、いたずらっ子のように口角を上げてしたり顔をした。
私はうっと身を引き、一瞬で後悔する。
優しいって思ったばかりなのに、飛翔さんは意地悪だ。
携帯をいじりながら雛菜さんにメールを打つ飛翔さんは、楽しそうに笑っている。
「も、もちろん飛翔さんも食べますよね?」
「甘いの嫌い」
「甘くないですよ!」
思わず反論すると、飛翔さんは早くも勝ち誇ったような表情をするのだった。
*
「ただいま」
「……ただいま帰りました」
二年生の昇降口でぱったりと会った飛翔さんと、なんとなく一緒になってなんとなく一緒に帰ってきたら
「おっかえり〜!」
やけに明るい雛菜さんがスキップをしながら飛翔さんに抱き着いた。
「ッ?!」
それがあまりにも衝撃的で、胸を抉る。
「んでここにいるんだよ、翼咲」
刹那、雛菜さんは飛翔さんに思いっきり引き剥がされて床に押しつけられた。
「ぐへっ?!」
「ひ、飛翔さん?!」
飛翔さんは怪訝そうな表情で雛菜さんを見下ろし、雛菜さんは抗議の声を上げて暴れ回る。
「何してるの、二人とも」
刹那、談話室の方から雛菜さんが姿を現した。
「えっ?! 雛菜さんが二人?!」
「……違う」
「ちげぇよ」
雛菜さんと飛翔さんに一瞬で否定され、私は改めて、飛翔さんから解放された彼女を見つめる。
彼女は私を見つめ返し、何故か嬉しそうに笑った。
「この子が杏子さん? 良かったね、新しい入居者が来てくれて!」
私は働かない頭を抱え、三人にそれぞれ視線を送る。やがて飛翔さんがため息をつき、得体の知れない彼女を顎で差した。
「見たらわかるだろ。俺たちの姉の翼咲だ」
翼咲さんと呼ばれた彼女は再び笑みを作り、私に手を差し伸ばす。
「初めまして! 二人の姉の高雛翼咲です!」
そして、衝撃的な事実を暴露した。
「えっ、姉?! 俺たちのって……」
雛菜さんと翼咲さんを見比べて、二人が双子だってことを把握する。けれど、俺たちのって一体どういう意味なんだろう。
「あれ? もしかして知らないの?! 私たちが三つ子だってこと!」
私の表情見て驚いたのか、翼咲さんは目を見開いてそう言った。
「えっ……? えぇー?! そ、そうだったんですか?!」
「雛菜! 飛翔! なんでちゃんと言ってないのよー!」
「言う必要ある?」
「……ねぇだろ」
「二人がいつまで経ってもそうだからこの寮に人が入らないんでしょー! お父さんから受け継いだ大事な寮なんだからちゃんとしてよー!」
「してないのは翼咲でしょ」
「ピーピーうるせぇんだよ」
「もー! 可愛くないー!」
冷たい態度を取る二人に向かって、翼咲さんは頬を膨らましながら腕を動かす。
言い方はキツいけれど年不相応に大人びた下の子二人とは全然違って、一番上の翼咲さんは年不相応に子供っぽい印象だった。
「け、喧嘩はやめてください……!」
年下の三つ子さんに向かって私は仲裁に入るけれど、これがいつのも風景なのか三人は止まる様子を見せない。多分、こういうところもあるから人が出て行ったんじゃ……。
そんなことを思った私は、意を決してキッチンの方へと向かった。そこからおたまとフライパンを持ってきて、二つを合わせて盛大に叩く。
「――ッ?!」
ビクッと小動物のように両肩を上げ、恐る恐る私の方に視線を向けた三人に向かって私は腰に手を当てた。
「喧嘩はやめてください!」
これで仲裁できただろうか。三人を見ると、固まった表情のままこくりと頷かれてしまった。
*
「で? なんで来たんだよお前」
「新しい人が入ったみたいだから里帰りして来たの〜」
談話室に翼咲さんを通して飛翔さんが尋ねると、翼咲さんはソファを丸々一つ使って寝そべった。
隣に座っていた雛菜さんは迷惑そうな表情もせず、ただじっと翼咲さんの頭を見下ろしている。
「翼咲さんはうちの学校の生徒じゃないんですか?」
「そうそう。私、医療の専門学生だからそっちの寮に住んでるの」
「えっ?! じゃあすっごく頭いいじゃないですか!」
「まぁね〜……」
翼咲さんはドヤ顔を見せるけれど、雛菜さんと飛翔さんは何故か驚くほどに冷めきったような表情だった。
「……なんだけど、雛菜と飛翔も同じくらい頭がいいからたいしてすごくないんですよねぇ我が家的には」
「えっ、雛菜さんと飛翔さんも頭いいんですか?! すごい……! だったらなんで芸能学校なんかに……」
「雛菜は昔っから音楽の才能が秀でてたし、飛翔は雛菜が音楽業界に行くなら〜って感じでついていっただけなんだよ。本当に顔が良くて良かったね〜」
「うるせえゴミ」
「雛菜お姉ちゃんはリスペクトしてるのに翼咲お姉ちゃんには全然リスペクトがな〜い!」
だから、飛翔さんは雛菜さんに似ているのだろうか。翼咲さんも充分にすごいと思うけれど、雛菜さんと飛翔さんの才能には叶わないと心のどこかで思っているような印象を受ける。
「みなさんカッコいいですね」
思ったことを口にすると、正面のソファに座っていた陽菜さんと翼咲さん。そしてかなり距離を置いて隣に座っていた飛翔さんが言葉をなくして私に視線を向けた。
「えっ、私何か変なこと言いました?!」
だったらすぐに謝らないといけない。けれど、誰も怒ってなんかいなかった。
「ううん。杏子さんは素直だね!」
にこりと笑った翼咲さんの笑顔が眩しくて、私は思わず目を閉じる。次に目を開けた時、雛菜さんはそっぽを向いて口元を隠していた。
飛翔さんも、私に背中を向けていた。
*
あの後翼咲さんから「二人は照れ屋で素直じゃないだけだから気にしないで〜!」とフォローを受けたけれど、本当にそれだけなのかと疑うくらい飛翔さんは私とまったく目を合わせなかった。
学校ですれ違っても、寮の突き当たりでばったり会っても、飛翔さんはすぐに視線を逸らす。
嫌われているんじゃないだろうか。
さすがにそれは……と思いつつ、元々女嫌いな彼だ。この反応が本来の飛翔さんだったのかもしれない。
地味に傷つきながら学校の廊下を歩いていると、中庭に飛翔さんがいるのが見えた。
木登りが好きなのか今日もまた木の上にいて、ヘッドホンをつけている。下からじゃ見えないかもしれないけれど、上からだと木の葉に隠れていてもちゃんと気づけた。
「杏子姉、何見てるの?」
「えっ、いや……!」
「あ、高雛先輩だ。相変わらずカッコいいなぁ〜」
窓枠に手をかけて、多恵子ちゃんは飛翔さん見たさに前のめりになる。
「ちょっ、危ないですよ!?」
「大丈夫大丈夫。高雛先輩〜!」
大きく手を振るけれど、飛翔さんはまったくこっちの方を見なかった。
「きっと聞こえないですよ、ヘッドホンしてますし」
それに、聞こえていてもこっちを見るはずがない。この数日で飛翔さんが女の子にモテることは嫌というほどわかったけれど、とことん無愛想だからかその黄色い声はすぐに止む。
上級生の人たちはみんなそのことがわかっていたからか廊下で飛翔さんを見かけても視線で追うだけだった。
「ん〜、そうみたい。残念」
「すごいですね、飛翔さんに声かけられるなんて」
「だって杏子姉とは話してたじゃん? だからイケるかなぁ〜って。杏子姉は声かけられないの?」
「あはは、最近話しかけるなオーラ出されちゃいまして……」
多分、あれはそういうサインだと思う。私の苦し紛れの笑顔を見てか、多恵子ちゃんは「そっか」と答えた。
「なんとなーくだけど、《タカヒナ寮》に人がいない理由、わかった気がする」
私も多恵子ちゃんと同意見だった。