死化粧
水死体の美しさを濃密に描きたかった作品です。瞳孔は愛する人と死を前にすると大きく開きます。瞳孔は死と恋を表す素晴らしい剥き出しの臓器だと思ったので書きました。
春の朝霧めいたドレスを纏う女だった。水底に生きゆくものさながらに、虹彩と瞳孔は濡れている。
以来、死化粧。
閑散とした雑木林だった。小川のようにうねった細い根は、女の足の指ひとつひとつを、触れるように丁寧に追った。地べたを這いつつ、蛇が素知らぬ顔をして、禁断の地まで彼女を森の奥へ誘っている。
幻妻は足下まで垂れたドレスをもったいぶって揺らし、星に恋をしたかのような声で唄を口ずさむ。彼女の煌めくドレスが舞うと、草木をかき分ける詰まった音が響いた。真昼に鳴くはずのヨーロッパコマドリの澄んださえずりが、高く虚しく木霊する。相手の囁きも聞えぬまま歌を唄う、飛禽の孤独だった。
クックロビンは誰が殺したのだろうかと訊いても、雀はどこにもいなかった。
朝の静けさに、気の狂った唄ばかりが陽気を誘っている。彼女が――オフィーリアという現象の女がでたらめな足取りで、茂った道を踊り歩く。どこへ行くかは見当も付かぬ。ただ見え隠れする細い足先には、哀しみさえ拾えぬ艶笑が映っていた。
緩やかに女の手に握られた 雛菊や菫は赤や白を咲かせているが、既に摘まれたその己の死を、その身が枯れることを、眠りにつくことを待つしかなかった。つまり、オフィーリアはすっかり気が狂っていたのだった。
オフィーリアは悲恋の女である。
不幸にもオフィーリアは古い小唄を口ずさむうち、デンマークの小川に真っ逆さまに落ちた。道中に拾い集めた花々を花輪にして、それを柳の木に掛けようと枝によじ登ったとき、憐れにも。深い哀しみの涙の川に、純潔の唄と花輪は沈み堕ちた。水辺の草木は、彼女の儚い唄を啜るように鮮やかに茂った。
それから青ざめたオフィーリアの輪郭は、己の憐れすら知らずに、しずかに水に抱かれたのだった。彼女の拾い集めた花々も、音もなく豊かに水面に浮かび上がり、罪を知らぬ赤い雛菊が、じっと息を潜めるばかりに。たちまちに水を吸うドレスのすそはだんだんと広がり、姿態は泥のように。すると最期には、古い唄は止み、美女は静謐に孤独の水の淵で眠った。紫蘭は死人の指へ変わりゆこうと水面に這っている。それからはもうずっと、そのまま。水底に生きゆくものさながらにそうやって。
オフィーリアはある男を愛していたが、残念ながらいつ何時もその愛が叶うことはない。男はその女を深く愛すことなく、悲運にもその男は違う男と間違えて、オフィーリアの父を刺し殺した。彼女を狂気に突き落すのに、父の死はとても簡単なことだった。クックロビンは枝の上で彼女をいつでも見下ろし、「誰が殺したクックロビン」とだけ繰り返す。もうずっとそうやって生きてきた。
「誰が殺したの。誰が父を殺したのかしら。私の愛しいクックロビン」
現象の女は麗らかにそう唄っていた。決してそれは良い顔をしていなかったし、ましてやその瞳には苔が生えているように盲目だ。しかしその姿に誰しもが惹かれるのは、薄く開かれた控えめな狂気に足を踏み入れ、あの小川もろとも醜く溺れ死ぬからなのだろう。
*
「レイアーティーズ《愛しい人》」
オフィーリアは父の死の知らせを足に引き摺って、胸一杯に抱いた花を配り歩いていた。しかし既に正気ではないゆえ、己の兄レイアーティーズを、愛した男と勘違いする。オフィーリアは愛おしげに、紫色の花を兄に差し出していた。
レイアーティーズはそれを受け取ると、「ああ、この子は憐れなのだな」と素直に同情した。それと同時に、彼は胸に熾烈な痛みを感じた。
「あなたには迷迭香を。そしてこのわたくしにも。花ことばは追憶よ。忘れるなという徴なの。ねえ、わたくしからのお願い、忘れちゃいやよ」
花の茎は高く真っ直ぐに伸び、そこから何十本ものシソの葉がしな垂れている。淡い色をした紫の花弁が、彼の方向を見定めていた。囁く愛は変わらなかった。ゆえに、なおいっそう彼には狂おしく憐れに映るのだった。オフィーリアはやおらに、もう片一方の花を手渡す。それはもの想う人のように頭を垂らしていた。
「そしてこの三色すみれをあなたに。これはね、もの想い。いつでもあなたを想うの」
若い血液を吸った蛭のような赤い唇だった。薄い舌が覗く。彼女が三度ほど瞬きすれば、うつろな足取りでその場から消えていくのだった。
オフィーリアは王を前にする。最愛の男の父を亡き者にした陰謀者とは知らぬ。
「ごきげんよう、クローディアス王《憐れな方》。梟はパン屋の娘だったんですって。知っていらした? そうだわ。あなたには茴香を差し上げます。ひどい毒蛇の仕打ちを父が受けたものですから……。可哀想なあなたにはオダマキ草もすてきね」
オフィーリアは目元を弓なりにする。視線の先の毒蛇を偽りなく射止めていた。彼女が瞼を閉じぬとも男は罪に啼き、それからその原罪は、悪臭を放って天まで届くのだった。
「王妃ガートルード《悔恨の方》」
オフィーリアは最愛の男の母を前にすると、四枚の花弁を黄蘗色に咲かせたハーブを手向ける。
「あなたには芸香を。そうね、わたくしにも少し取っておきましょう。知っている? これは安息日の恵み草とも言うのよ。でもいけないわ。わたくしとあなたでは、違うように身につけなければいけないものだから……」
「雛菊もあるわ。それとあなたには忠実な菫の花も差し上げたいのだけど、それももう無理ね。父の亡くなった日に皆枯れてしまった。立派な最期だったそうよ」
陶器のような真白い顔に表情はなく、手渡した鮮やかな花たちだけが彼女の胸から離れる。
「愛しいロビン、わたくしのすべて」
それからはもうそれきり、さざめいた川に連れ去られてそれきり。王妃は彼女の狂気の眠りを知らせに行くのみ。悔恨はそのようにしていつ何時も変わらぬ。
*
「しんでいるのですか」
水死体の女が描かれた絵画を見た男が、そう訊いた。淡々と、また泥に沈んだような低い声で、川辺に膝をついたふうにしてそう訊く。すると瞳孔の開いた女の苔色の瞳が、うんと深くなったような気が、男にはした。その姿に彼の背筋がぞっとしたが、しかしまるで、彼女はその言葉をしっかりと耳にしたかのようだった。柳の枝の隙間から頭上に突き刺さる穏やかな太陽を、真っ直ぐに見つめている。誰に惑わされることなく自然に学んで流れる川に、薄茶の毛髪が揺らいでいた。
この冷たい水面と共に落命したのだとそう頷いているのか。彼には判らなかった。ただ男の腹の底で、この女を好いているような、不思議な予感だけが渦巻いていた。
そのとき、彼女の網膜に映る光が、ぼんやりと揺らいだのを男は見た。するとその瞳と対になった男は、ようやくあることに気づく。この瞳孔は「わたし」に熱を浮かべ、いつかの女がこちらを見つめたときの、真黒いそれの大きさと、全く同じであったことに。この女は死してなお美と愛を唄っていたのだ。彼女の終末を虹彩に宿らせている。
「ああ。ほんとうだ。本当に、美しい瞳ですね。本当に、本当に……」
男が愛した女は美しい死化粧を施していた。濡れた双眼は眠りの深淵で、菫の悲嘆を湛えている。
コマドリひとり啼いたところで、誰もその声を聞きはしなかった。
もう帰ってこないのかしら?
もう帰ってこないのかしら?
そう、死んでしまった、あの人は。
私も死の眠りにつこう。
あの人は戻らない。
お髭は雪のように白く
髪の毛は麻のように銀色。
ああ、死んでしまった、あの人は。
泣きくれても空しいだけね。
どうか安らかに。
そしてみなさんも安らかに。さようなら。
ハムレット 第4幕第5場より。
読んでいただきありがとうございました。文章の美しさを考えてみました。オフィーリアの絵はとっても綺麗だと思います。紫蘭は死人の指と言われていたそうで、花言葉などを調べると見ていて楽しいですね。瞳孔を開くのは好きな人に美しく見られたいからなのかなとか考えるとなんだか楽しかったので、開いた瞳孔は死化粧だなあとか思いました。なろうに登録したのも投稿も初めてで色々よく分からないことが多いですが書いてみました。問題があれば消そうと思います。ありがとうございました。