その日だけ
締まり掛けのドアに体を滑り込ませると、同時に苛立ちを感じさせる声で「駆け込み乗車は危険ですのでお止めください」と車内放送が流れた。
まるで私に向かって言っているように。
「しょうがないじゃないの」
思わず心の中でそのアナウンスに答えながら、スマホを取り出す。
16時25分。学校までは四十分ほどかかる。五時までには着けるだろうか。
普段は夜の8時、9時に乗っている電車は、夕方となると随分違って見えた。
学生たちはお菓子を食べたり一緒にゲームをしたり、買い物帰りのママ友たちがおしゃべりに興じていたり。
そんな賑やかな車内で、私は必死にメールを打つ。
無理を言って抜けてきた会議に参加している部下から届く、リアルタイムの報告に返答を送る。七歳ほど年下の部下は、いつも私の意図を組んで率先して動いてはくれているが、全部を任せるにはまだ心もとない。
「もう、なんなのよ、いったい」
危なく声に出してそう言ってしまいそうになる。
思わず手を口に当て、そっと周りを見渡す。
いつも乗り合わせる乗客たちは、ようやく家に帰れる安堵感と疲れでただ静かに運ばれていくだけだが、今乗り合わせている人たちは、電車の中の時間すら楽しんでいるように見える。
独り言の代わりに、私は深くため息をつく。
娘が通う小学校から携帯に電話が入ったのは、会議が始まる寸前の四時少し前だった。
電話の向こうで、三年生になる娘の香奈が万引きをしたと、担任が沈痛な声で告げた。
学校が終わった少し後の時間。
いつも香奈は、学校が終わると私たちが二人で住むマンションの近くにある、私の実家へと帰る。
私の仕事が終わり、そこに迎えに行くまで私の両親と一緒に過ごす。多くの場合、夕食もそこで済ませている。
離婚をして香奈を引き取った時、仕事を続けるために、実家の近くにマンションを借りた。産休を挟んだが、ずっと勤めて来た社内で、私はそれなりの地位と報酬を得ている。充分一人で香奈を育てる事が出来るはずだった。いくら時代が変わったと言っても、まだまだ女性の管理職は少ない。産休の遅れもある。でも、女親だけのハンデを香奈に感じさせるのは嫌だった。
香奈が将来の選択で何かを望んだ時、それに応えられる親でいたかった。経済的な理由で何かを諦めさせるような事は、絶対にさせたくない。そんな思いで、同期の男たちの倍働いて来た。
香奈が万引きをした。
実際に何があったのかは、話してみないとわからないが、その事実に胃が絞りあげられるように痛む。
学校に着いたのは、五時を少し過ぎた頃だった。
玄関を入り、靴を脱ぐが、来客用のスリッパなどがあるわけでは無い。私は靴下のまま校内へと上がる。リノリウムの床が痛みを感じるほど冷たい。校内に人影は無く、暗い廊下の先に非常口を示す緑色の光がぼんやり光っているのが見えた。
玄関を入ってすぐ右手に見えた職員室のドアをノックすると、白衣を来た若い男の教師が、対応に出て来た。
まだ大学を出て間もない幼さを残した顔は、まだ仕事を覚えるのに必死な会社の新人たちと同世代に見える。
彼らのような若者に娘を預けている事に、改めて気付く。
「高橋と申しますが、娘の事で担任の倉吉先生からお電話を頂きまして」
「あ、高橋さんの保護者の方ですね。聞いてます、聞いてます。今教室にいるはずだから、案内しますよ」
白衣の教師は、そう言うと職員室を出て、私の前に立って歩き出した。
パタパタとスリッパの音をさせながら歩いているが、私がスリッパを履いていないことに気づかない。
「ここです」
三年一組、と書かれた札がかかる教室を指さすと、白衣の教師はすぐに踵を返して来た道を戻る。その後ろ姿を少しの間見送り、私は軽く髪の毛を整えてから、ドアをノックした。
「はい」
ノックに答える声と一緒に、椅子が床を擦る音が聞こえた。
ドアを開けたのは、担任の倉吉だった。
倉吉は、私より年齢が少し上の中年男性で、私も何度か会った事がある。倉吉は小学校教師には珍しく、いつもきっちりスーツを着ている。私にとっては馴染み深い服装をしている事で、なんとなく信頼出来る教師に思っていたが、実際どんな先生なのか、香奈に聞いたことは無い。
「お待ちしておりました」
倉吉が体をずらして、私を教室の中へ誘導する。
四つずつの机を固めて作られた六つの島の一つに、香奈と一人の初老の教師が向かい合って座っていた。
香奈は、そこに何か大事な事でも書いてあるかのように顔を伏せて机の上を見つめている。
「学年主任の馬場です」
倉吉が初老の教師を手で示しながら言うと、馬場が「どうも」と言いながら軽く頭を下げる。
「お母さまもお座りください」
倉吉が香奈の横の椅子を指し、そして自分は馬場の隣に座る。
香奈は私が座っても、顔を上げない。
「三時ころ、近くにある文房具屋から電話がありまして、うちの生徒が万引きをしたと。警察には言わないから、来てくれと。聞くと、名札を見た店長が三年一組の生徒だと言うんで、倉吉君に行って貰ったわけなんですけど」
馬場が前置きも無く、一気に説明する。
「万引きって、何を」
「アニメのキャラクターが書かれた小さなメモ帳なんですけどね」
今度は倉吉が答える。
「ね、香奈、ほんとなの?」
香奈に向かって聞く。
香奈は、顔を上げずに小さく頷く。
「なんで、なんでそんなことしたのよ。ちゃんとお小遣いもあげてるし、必要な物ならおばあちゃんに」
「あ、お母さん、ちょっと、ちょっと待ってください」
次第に責めるような口調になった私を、倉吉が宥める。
「勿論、高橋さんがこんなことをするのは初めてです。今日は怒ったりせず、落ち着いてゆっくり話をしてあげてくれませんか」
「怒ったりせずって、そんな、万引き」
「だから、それも含めて」
「二人でって、帰っていいってことですか?」
「はい。今日は学校としてもどうこうすることはありません。親子で話してみて、何か私たちに出来ることがありそうでしたら、遠慮せずに話して貰えませんか」
校舎を出ると、日が暮れかかっていた。
床で冷やされた足から、全身へ冷気が広がっていく。
学校を出ても、香奈は顔を上げない。私とはまったく目を合わせようとしない。
香奈が顔を伏せたまま、思いのほか早足で家へ向けて歩き出す。私はため息をつき、その後を追った。
家への帰路の途中に、小さな川を渡る場所があった。
川と言うより、水路と言ったほうが相応しいような細い川だ。川の両側は護岸ブロックで固められ、その上に緑色の金網が張られている。
かつては屈曲していたはずの川は、今ではほぼ真っすぐに改修され、金網の外側には住宅が立ち並んでいる。
香奈は、その川に掛けられた橋を渡る前、突然私の手を握った。目は伏せたまま、少し足を速める。
橋の真ん中に差し掛かった時、ようやく香奈が顔を上げ、そして、橋から川の先を指さした。
真っすぐに続く川の真ん中に、夕日が沈もうとしていた。
川を挟む建物の幅に合わせたようなぴったりな大きさの夕日が、辺りを赤く染めていた。
「あ」
私は思わず声を上げる。
「今日だけなの」
香奈が答える。
やがて、夕日が水面に接すると、川面を夕焼けがゆっくりと滑り始める。水面を染め上げる赤色が、私たちの立つ橋を潜っていく。
「ぴったりなのは、今日だけなの」
ようやく香奈が見せた笑顔も、赤く染まっている。
「そんな、一日や二日ずれても」
「だめ。今日だけなんだから」
そう答える香奈の顔を見ながら、気付く。
この子は、毎日こうしてこの橋で夕日を見ていたんだと。
すぐに家に帰る事をせず、こうしてこの橋に佇んでいたんだと。
「まさか、このため?」
「そう。ママと見たかったの」
私の手を握る手に、力が籠る。
私もしっかりと握り返す。
そこから伝わる暖かさ、それが全てだと思い出す。頑張る理由も、生きる理由も。
「今日は、ママが美味しいもの作ってあげる」
「ほんとに? じゃあ、おばあちゃんに電話する」
でも、それからさらに少しの時間、夕日が完全に川の中へと溶け込んでしまうまで、私たちはその場所でその風景を眺め続けた。