オ○ニーのやりすぎが危険すぎる件について
いま自慰をしている人は、世界に何人いるのだろうか。
金曜の深夜一時。性欲旺盛な若き男女は、きっと本能に身を任せ、きつく顔を歪めていることだろう。性に淡白な子が増加しているといえ、人間である以上はみんなエロが好きなのだ。
ジャックは頭に力を入れた。埼玉県さいたま市。この地域で、現在オナニーしている人数を探り当てる。雑念があったら失敗するので、間違っても余計なことを考えないようにする。せっかく神様から授かった能力なのだ、有効に使いたい。
五十万人。やはり多い。総人口およそ百二十万に対して、この数は脅威的である。
――これは仕事が多そうだ。
ジャックは、彼らが腰を振っている姿を透視した。もちろん五十万人をじっくり調べるのは時間がかかるので、ざっと監視するだけである。これだけで充分だ。
ジャックは、ふとひとりの人間に注意をひきこまれた。おそらく高校生。男。ジャックの子どもと同年代くらいか。さっきまでベッドで獣と化していたようだが、いまはまったく動かない。瞬きすらない。右手はペニスを握ったままだ。
――そらきた。テクノブレイクだ。
一日に何度も自慰をするとこうなる。脳が異様に興奮し、性ホルモンの過剰分泌によって肺機能停止。死亡。医学的にはまだ解明されていないが、こんなふうに死ぬ若者は多い。申し訳ないが、可哀想な死亡理由である。
ジャックは、彼の部屋までテレポートした。それが仕事だからだ。
ごく一般的な男子高校生の部屋。
勉強机、テレビ、ベッド。アイドルポスターもちらほら見える。ベッドには遺体がひとつ。そして、その遺体の近くには―
―
「よっ。あんた、元気あるか?」
ジャックは、男子高校生の幽霊に話しかけた。童顔の丸い顔。背も小さい。
ベッド上で微動だにしない遺体に呆然としていた男子高校生は、情けない声をあげた。
「ひゃっ。な、ななんですかあなたは! 僕が見えるんですか!」
「ジャック。まあ神の使いみたいなもんさ。あんた、名前は?」
「加賀拓也です。……あの、神の使いがきたってことは、僕はやっぱり?」
「そ。テクノブレイクで逝った」
「あああああっん! あんあん!」
拓也は両手で頭を抱え、わんわん鳴きはじめた。何度も地団駄をしていた。なんのダンスだろうか。
面白そうだったので、ジャックはからかってみた。
「ふふ、テクノブレイクはな、残された人たちを可哀想にするんだぞ。『私の息子、高校生のときに死んだんです。病死? いえテクノブレぶぇほっ!』ってなるからな」
「それを言わないでええっ!」
「『私の彼氏、昔死んだの。事故? いえテクノぶっほぅ!』」
「美咲ちゃああん!」
なんだ、彼女いるんか。ジャックは拓也をすこし見直した。
――まあ、それはともかく。
ジャックは耳をほじくった。
「拓也。俺がここに来たのはな、アンタを助けるためさ」
拓也が急に顔をあげた。
「生き返らせてくれるんですか?」
「アホか。死亡した原因を変更してやるんだよ」
拓也は顔をしかめた。
「どういうことです?」
「急病とか交通事故とか、死亡した理由を神様が変えてくれる。あんたはテクノブレイクでは死ななかったことになる」
そう。オナニー死ではあまりに可哀想である。神も不憫に思ってか、ジャックたちを派遣してオナニー死した人を助けているのだ。
沈黙が流れた。ややあって、拓也は意を決したように言った。
「じゃあ、首吊り自殺ってことでいいですか」
「自殺? 本気か?」
「はい」
ほう、とジャックは唸った。自殺とは珍しい。これまでの死者は、みんな事故死を希望していたのだが。
不謹慎ながら、ジャックは好奇心をそそられた。
「別にいいけど、なんで自殺にするん?」
「それは……」
拓也は躊躇するように黙りこむ。突然現れた神の使いとやらに話していいものか迷っているのだろう。
数秒後、拓也は重そうな口を開いた。
「実は昨日、美咲に浮気されたことがわかったんです。金持ちそうな人とつきあってて」
ジャックの心がうずいた。
「だからヤケクソになって、ひとりで自慰をしていたんです。それで死ぬなんて、ホント馬鹿ですね僕」
「で、自殺を選んだ理由は?」
「僕が自殺すれば、彼女も反省するかもと思って……」
「馬鹿野郎!」
ジャックは思わず、近くの壁を殴った。拓也の背筋がぴんと伸びた。
「そんなんで解決するか! ビシッと一言、気持ちを伝えてこい!」
「でも、僕はもう死んでるし……」
「んなもん知らん。五分だけ生き返らせてやる。とっとと話をつけてこい」
「い、いいんですか?」
「駄目に決まってるだろ。だから急ぐんだよ」
神に知られたらルール違反で処罰されるが、そんなことは眼中にない。加賀拓也。彼の気持ちが毒のようにひしひしと伝わってくる。その心に答えてやりたかった。
ジャックは、拓也に美咲の家を教えてもらってからテレポートした。
美咲とやらの部屋は、拓也のそれとは雰囲気が違っていた。ほんのりとしたピンクのカーペット、心地良さそうに居座るぬいぐるみ。美咲は音楽が好きなのか、CDプレーヤーの隣には大量のディスクが並べられていた。当の美咲は、机に向かって読書をしている。長い黒髪の、清潔な女の子だ。
――そう。想像通りの、女の子の部屋だ。
「ち、ちょっと待ってよ!」
拓也が、ムチを打たれた馬のような奇声をあげた。まだ彼を生き返らせてないので、彼の姿は美咲には見えない。もちろん、ジャックの姿も。
「なんだ、まだ文句あんの?」
「当たり前だよ。なんで急に美咲ちゃんの部屋にくるんだよ。変態だと思われるよ」
「いや、本当に変態だからいいだろ」
「ひどい! いくら僕が何度もオナニーしてたからって!」
ぎゃあぎゃあうるさい奴である。どうせ死んでるんだし、この際どうでもいいではないか。
「じゃあ、五秒後に生き返らせるぞ」
「だからやめてってば!」
「落ち着け。おまえが生き返ったとき、そんなふうに騒いでたらどうなる?」
拓也は青ざめ、口を一文字に結んだ。彼は本当に美咲に嫌われたくないらしい。微笑ましい気持ちで、ジャックは能力を発動した。
★ ★ ★
加賀拓也は身体が軽くなったような気がした。心も晴れている。やっと錘が外された心地だ。生きるとは、これほど素晴らしいものだったか。
もう逃げるわけにはいかない。拓也は覚悟を決めた。
「えっと……、み、美咲ちゃん」
自分でも恥ずかしいくらいの細い声。思わず逃げ腰になってしまう自分。それでも、読書中の美咲を振り向かせるには充分な声だったらしい。美咲は一瞬、言葉を失ったように思えた。
「拓也くん……? ど、どうして」
彼女の声は震えていた。
「落ち着いて。五分だけ、時間をちょうだい」
「な、なに。どうやって入ってきたの」
彼女の質問に答えている時間はない。拓也は美咲の質問には触れず、自分の疑問を口にした。
「美咲ちゃん。正直に言ってほしい。僕のことどう思ってる?」
「……大切な人よ。で、あなたはなんでこの部屋に入って……」
拓也は美咲の言葉をさえぎった。
「本当かい? 本当にそう思ってる?」
美咲は顔をしかめながらも、こちらの質問には答えた。
「ええ。大切な人よ」
「じゃあ、きみが浮気していたあの男は、いったい誰なの」
絶句の間。
やはり、浮気していたのは事実なのか。拓也は両手を握りしめた。
「そう。気づかれてたのね。だったら別れましょう」
喉元まで叫び声がでかかった。
「なん……でだよ。なんで浮気したんだよ」
「金持ちの人とつきあえ、ってパパに言われたからよ」
――パパ? 意味がわからない。
「きみのお父さんって、たしか……」
「そう。五年前に病死したわ。ずっとパパに言われてたの、将来は金持ちの人と結婚しなさいって」
――なんだよ、それ……。
「パパは最期まで私を気遣ってくれた。だから私は、パパの遺言を実行してあげたいの。自分の好きな人と別れてでも」
頭が爆発しそうだった。理性を失いそうだ。それほど美咲の発言は馬鹿らしかった。僕だって、人並みに仕事すれば――
手を振りかざして、美咲を平手打ちしようとする。
それを幽霊姿のジャックがおさえてきた。抵抗できないほどの筋力だった。
『おっと、すまんな拓也。俺のジャックという名前、実は仕事上でのニックネームでね』
ニックネーム? こんなときになにをいっているのだ。
拓也は暴れまわった。目の前にいる女だけは、一発殴っておきたかった。
そのときだった。ジャックが「生き返った姿」になった。見た目はさっきと変わらないが、これでは美咲にジャックが見られてしまう。拓也は急に寒気をおぼえた。
ところが、ジャックはなに食わぬ顔で美咲に話しかけた。
「よっ、美咲。五年ぶりだな」
美咲も血の気が引けたらしい。その場に立ち尽くしていた。
「パ、パパ。なんで……」
「おまえが中学生になってから、俺はおまえの部屋は覗けなくなったが……。想像通りの、女の子らしい部屋だな」
美咲の瞳には一粒の雫があった。
「パパ、病死したんじゃ……」
「病死か。はは、本当はそうじゃないんだけどな。家族にすら死因が知られないってのは、すこし悲しいわ」
拓也はわけがわからなかった。ジャックが美咲の父? そんな馬鹿な。たしかにジャックは、必要以上に僕に手助けをしてくれた。もしや、これが目的だったのか……? 考えれば考えるほどわからない。拓也は混乱した。
そんな拓也をよそに、ジャックは美咲に語りはじめた。
「悪いけどな、美咲よ、おまえは変な勘違いをしているぞ」
「勘違いって。なにを……」
「俺は金持ちとつきあえ、なんて言ってない。これ、俺の嫌いなセリフだぞ」
美咲は目を丸くした。
「そんなわけない。私、覚えてるよ。ガンで急に倒れたパパが、病室で私に言ってくれたもの!」
「はは、そんなふうに変更されてんのか」
ジャックの声が沈んでいく。
「美咲。俺はな、本当はその……テクノブレイクってやつで死んだのさ。ガンじゃない」
「テクノ……? それって、もしかして……」
「情けないよな。すまん。申し訳ない。憂鬱になった俺は、神様に頼んでおまえたちの記憶を操作させてもらった。信じられないかもしれないが、事実だ。現に、こうして死んだはずの俺がいる」
美咲は、懸命に状況を整理しているようだ。頭をうつむかせ、なにかをブツブツとつぶやいている。
「じ……、じゃあパパは、拓也くんとつきあうのを許してくれるの?」
「ああ。こいつは、誰よりもおまえを愛しているさ。間違いない」
一瞬の間。
美咲は拓也に抱きついてきた。ごめん、ごめん、何度もそう言ってきた。拓也の服がシワだらけになりそうであった。
拓也も抱きしめた。
温かい。
長らく忘れていた。これが、美咲の……。
自然と拓也の肩が震えた。涙はだすまいと我慢していたが、無理だった。
「拓也くん。本当にごめん。これからもよろしくね」
「うん……。よろしく」
――しかし。
僕は生きることを許されていない。約束の五分までもうすぐだ。
たとえ五分でも、よりを戻せてよかったと思う。僕が死んだおかげで、カップルに戻れたのだ。ここは前向きに考えよう。
拓也は、さらに強く抱きしめた。
「ごめん美咲ちゃん。僕もおじさんと同じさ。死んじゃったんだ」
数秒の静寂。美咲は目を見開いた。
「死んだ……って、どういうこと?」
「そうだね。んー」
どう考えても、答えはひとつしか浮かばなかった。死因を偽っても、ジャックのように苦しむだけだ。拓也は、ジャックをちらりと見て、言った。
「自慰行為のやりすぎで死んだ」
ジャックが小さく頷いているのが見えた。
「そんな……拓也くん。それって、もしかして私のせいで……」
「そう考えちゃ駄目だよ。僕が馬鹿だっただけさ」
身体が徐々に消えていく。ああ、これが成仏というやつか。
良い気持ちだ。僕は、なんて幸せ者なのだろう。
「拓也くん! 私、ずっとあなたが好……」
拓也の意識は、そこで途切れた。