遠距離恋愛の不安 その五
「──あっ、千里さんですか? こんばんわ、高桑です。はい、夜勤ありがとうございました。もうお陰様で元気ですから。はい、ではまた明日」
いつもの日勤後、私は夜勤を変わってくれた千里さんにお礼を伝え電話を切る。
ちらりと時計を見るとまだそこまで遅い時間ではなかったので彗さんにもらった名刺を取り出して電話をかける。
「こんばんわ、晶です。えっと……これからそちらに向かっても大丈夫でしょうか?」
『こんばんわ。はい、お待ちしてますね、どうぞ気をつけていらして下さい』
彗さんは東京に住んでいるって聞いていたけど、彼のマンションへは一度も行った事がない。方向音痴の私は教えられた住所を元にタクシーで向かう。
閑静な住宅街のそこは、富裕層がこぞって住んでいる地区で、自分であれば家賃支払いだけで給料がなくなりそうな場所。
エントランスにある監視カメラと部屋番号入力キー。そして常時入り口にいる警備員に、私はびくびくしながら彗さんの部屋の番号を入力する。はたから見たら不審者っぽい。
数秒後、インターフォンから『開けます』と女性の声が聞こえてくる。
(そうか、彗さんの彼女さんだ)
1人で納得していると、数秒後に入り口の自動ドアが静かに開いた。
田舎者丸出しで驚いた私は警備員に不審そうな目で睨まれたが、関係者ですと引きつった笑みを浮かべて中に入る。
エレベーターに乗り込み10階のボタンを押す。マンションの中だと言うのに、ガラス張りのそれは外の景色が一望できた。
ここは芸能人の家じゃないか? と疑りたくなるくらい環境が整っている。
教えられた10階のフロアは部屋が二つしか無い。見るからに高級そうなドアを上から下まで見つめ、意を決してインターフォンを押す。すると中からチェーンを外す音の後、ラフな姿の彗さんがドアを開けてくれた。
「どうぞ」
「お、お邪魔しま〜す……」
広い玄関で靴を脱ぎ、オーダーメイドであろう真紅の絨毯を踏みしめる。
誘導されたリビングもかなり広く、ゆったりした3人掛けのソファーとガラステーブルが中央を占める。
全体的にモノトーンで纏められた家具は多分、清楚で可憐な彼女さんの趣味だろう。
余計な物が配置されていない部屋は、同じ辻谷兄弟であっても大分違う。
俊ちゃんはゲームが大好きで、いつも寝室には真新しいゲームソフトがこっそり転がっている。
そういえば、先月発売したゲームを私と一緒にやりたいって目を輝かせてたっけ。私、アクションは苦手なんだよなあ……。
「晶さん?」
「あっ! ごめんなさい、ぼーっとしちゃって」
彗さんに名前を呼ばれてはっと我に返る。頭をかいた私の作り笑いを見た彗さんが悲しそうに眉を顰める。
「兄貴に、酷い事をされたんですね」
「そんなこと──」
「晶さんこんばんわ。これを……」
ない。と言い切る前に、奥の部屋からガウンを着た彗さんの彼女がお辞儀をしてこちらに歩み寄ってきた。
彼女は徐に携帯電話を取り出し、フェイスブックのページを開く。
結奈さんのページを見る勇気がなくて、私は書き込みをして暫く放置していたけど、結局アカウントを削除した。
「よく見て、晶さん。この名前」
「えっ。まさか……俊、ちゃん?」
SNS大嫌いで、携帯なんて無くても困らないと豪語する彼が、どうやってこのアカウントを取ったのだろうか。
それに彗さんが私が倒れたことを知っているのも、俊ちゃんが頭を下げて彼にお願いしたに違いない。
辻谷俊介という名前で登録されたフェイスブックに友達は一人もない。全体に向けて公開されているメッセージはたった一言。
はよ電話出ろ、このアホが!
と書かれていた。
そんなの、メールで言えばすぐ終わる事なのに。わざわざアカウントまで作って、この不器用な一言。
全体に向けての発信とは言え、それは私だけに向けたことくらい嫌でもわかる。
「あははっ、俊ちゃんらしい。もう、どうしてこんなに馬鹿なんだろっ」
ツボに入ったらずっと笑ってしまうのは私の悪い癖。涙を流して大笑いする私を見て、彗さん達はほっとしたように目尻を下げる。
「彗、ごめんなさい。晶さんと女子同士の話ししたいから、少し外していただける?」
「はいはい。──晶さん、ゆっくりしてくださいね」
彼女に言われるまま彗さんは寝室の方へ行き、ドアを閉めた。
2人きりになった私は、彼女と向かい合わせの形で座る。
「そういえば私、晶さんに自己紹介していなかったですね。東京世田谷区のM銀行に勤めております、笠原真由です。今年で27歳になりました」
「あ、私は東京H大学附属センターの分院の、4階外科病棟看護師の高桑晶です。今年でもうすぐ30になります」
まるでお見合いのような挨拶を交わし、思わずぷっと笑ってしまう。
少し和んだところで、真由さんはにこやかな笑顔を締めて本題に入る。
「晶さん、大変でしたね。俊介さんはあの通りモテる方だから……まさかこんな嫌がらせをされていたなんて」
数日前まで盛り上がっていた結奈のフェイスブックは、全ての情報がある日を境に非公開とされていた。
真由は結奈と同じ大学を卒業しており、今も多少の交流を持っているのだという。
「私が彗と付き合い始めた時も、俊介さんと付き合えるようセッティングしてほしいって言ってきたんですけど、彼女はあのキャラだから……俊介さんの方が好みやないって……会う前から嫌がっちゃって」
それでも俊介を諦めきれなかった彼女は、まるでストーカーのように彼を追いかけた。そして猛勉強をして俊介と同じ研究所へ入ったのだ。
本来、研究所は男職場だが、特例で入社した彼女は若くて可愛い紅一点であり、重役連中を和ませる役割も持っていたという。
「ごめんなさい……私も、もう少し彗から晶さんの事を聞いておけばこんなことには」
「……いいえ、過ぎた事は仕方ないんです。そんな事よりも、俊ちゃんがフェイスブックなんて。くくっ……」
SNSが大嫌いな俊ちゃん。眉間に皺を寄せながら携帯電話を操作している姿を想像出来ただけで充分。
それと、私だけに向けたメッセージを聞けたのだから。
「晶さんは、強い方ですね」
「そんな事ないですよ? 私なんて、ちっとも魅力なんて無いのに、今まで俊ちゃんが私と付きあってくれてたことが奇跡なんですよ」
分かんないけど、好きだ。
もうそれでいいや。私は俊ちゃんが好き。
「はよ電話に出ろって……相変わらず勝手だなあ。仕方ないから帰りに電話でもしようかな」
リビングにある時計に視線を向けると、時刻は10時を回ろうとしていた。
「ごめんなさい、つい長居しちゃって」
「こちらこそ、こんな遅くまで引き止めてごめんなさい」
腰を上げて帰ろうとすると、バタバタと誰かが近づいてくる足音が聞こえる。
この足音、寝室の彗さんじゃないとしたら──。
「晶っ!!」
バンッ! と勢いよくドアが開いたと共に、息を切らした俊ちゃんが私の視界に入る。
「晶──オレ……」
張り詰めた表情を緩ませた彼がリビングに足を二歩進めた瞬間、寝室から出てきた彗さんがツカツカと近づく。
「歯ぁ食いしばれ!」
俊ちゃんは彗さんに胸倉を掴まれ、左頰を思い切り殴られる。そのまま吹き飛んだ彼はドカッという音と共に、ローボードに背中を打ち付ける形となった。
しかし、彗さんは兄貴を侮蔑を含んだ瞳で見下ろすと、再び拳を振り上げる。私は慌てて彗さんの手首を掴んだ。
「け、彗さんやめてよ。どうして俊ちゃんを殴るの?」
「……どうして? それを、この男に傷つけられた貴女が言いますか? 私はこの男が彼女を傷つけた後にまともなフォローも出来ない事に腹を立てているのですよ」
私の手をやんわり剥がした彗さんはローボードに背中を預けている俊ちゃんを指差す。
「貴女の気が済むまでこいつを殴って良いですよ。それくらいの覚悟があるからこそ、今日この男はここに来たのでしょうから」
弟の冷たい言葉に、俊ちゃんは一切反論をしなかった。ただ、私の顔を見て安心したように目尻を下げる。
俊ちゃんが、わざわざここに来てくれた。ただそれだけで嬉しい。
きゅっと俊ちゃんの首に抱きつくと、彼は私に殴られなかったことに目を丸くしている。
「俊ちゃん……ありがとう」
「あ、晶……!」
眉尻を下げた俊ちゃんが私の頰にそっと手を添える。お互い顔を近づけ、触れるだけのキス。それから唇をついばみながら、少しずつ深いキスへと変えていく。
久しぶりのぬくもりと暖かい腕、力強くて柔らかい唇の感触。
──私達は、ここが彗さんの部屋であることもすっかり忘れて、甘い空気に酔いしれていた。