遠距離恋愛の不安 その一
外科病棟は忙しい。毎日の入退院と午前も午後も手術が入っている。正直な話、人手は常に足りない。
勤務移動して来た千里さんが頑張ってくれているが、それでも寿退社で3人程退職してしまった穴は大きい。
私は感情を表に出さないよう努めていたつもりだが、ここ数日プライベートで少しイライラしていた。
それが、顔にも出ていたのか珍しく千里さんに呼び止められる。
「晶ちゃん、なんかあった?」
「え? 別に……」
さすがに千里さんは誤魔化せない……。伊達にメンタルカウンセラーの資格を取った人だけある。
見た目はかなりぽやーんとしているが、彼女は人一倍スタッフの微妙な変化に敏い。
────────
千里さんと昼食をとる間、私は彼氏の事について相談した。すると珍しく返ってきたのは呆れたようなため息。
「それは100パーセント彼が悪いよ」
「あ、やっぱりですか?」
事の始まりは、1週間前に来た1本の電話。
彼氏こと、俊ちゃんとのやり取りはLINEが基本。
お互いの生活サイクルが合わないのと、電話で声を聞いてしまうと『会いたくなるからやだ』と電話は断っていた。
それでも、毎日何十通も飽きずにやり取りするメールとLINEの往復だけで、俊ちゃんは離れていてもいつもそばに居るような気がする。
──その日は普段鳴らない筈の着信音が鳴っていた。
お互いに電話をしないので、彼からの電話は何かあったのではないかと不安になる。
「もしもし?」
『おっ、晶? 元気しとったかー?』
嫌な連絡かと不安のまま電話に出ると、受話器から聞こえた声はいつもの明るいもので、思わず拍子抜けする。
「さっきLINEで言ったじゃん」
ほっとした私はソファーに転がり、久々に彼の関西弁を聞いて癒される。
「どうしたの? 珍しいね、電話なんて」
私の言葉に彼は珍しく歯切れの悪い言い方で話を切り出す。
『実はな、同じ職場の後輩、木嶋結奈がストーカー被害にあってて、オレに恋人のフリしてくれへんかって』
「ええっ? まさか、俊ちゃんそれオッケーしたの?」
木嶋さんという名前は何度か聞いた事がある。俊ちゃんの職場にいる紅一点。
年は27歳、茶髪のショートカットに二重のアーモンド型の瞳。そして性格も明るくて、男にモテそうな可愛いタイプ。
ハッキリ言うと、化学者というよりはアイドルに居そうなタイプと揶揄されてる子だ。
そんな子が、わざわざ俊ちゃんに声をかけるなんて絶対裏がある。
「嫌よ。大体フリって……俊ちゃんは私と付き合ってるのにどうしてそんな……」
『あのぉ〜、よろしいでしょうか?』
突然、電話を変わったのは可愛い声の女の子。わざとらしく、俊ちゃんの隣に例の彼女が待機していたらしい。
電話越しの彼女は申し訳なさそうにごめんなさいと言って突然泣き始めた。
そのストーカーとやらは、どうやら同じ職場の違う部署にいるらしい。
しかも、職場関連の話を出されては無下に追い払うことも出来ず、警察に突き出すような直接的被害はないとか。
毎日近づかれても、『仕事の話もあるんです』と言われてしまえば言い返すこともできない。
『わたしが悪いんです。ハッキリお付き合いしてる人が居るって言えば済んだんですけど、もうその人しつこくて……だから勢いでつい、辻谷さんと付き合ってます! って言ってしもたんです』
「ええ〜……そ、そんなの撤回してよ。俊ちゃんは私と……」
彼女の身勝手な言い分に段々腹が立ってきた。そんな理由を黙認なんて出来ない。
こっちはただでさえ遠距離で不安だってのに、可愛くて積極的な後輩とフリであったとしても……付き合うなんて。
『ほんま、頼みます! 1週間でいいんです! お願いしますっ!』
そうは思っても、切実な彼女の言葉が胸に刺さる。可愛い後輩がストーカーに会っていたら、そりゃあ何とか助けてあげたいよね。
私は電話を握りしめて小さくため息をつく。
「1週間で、その変なストーカー片付けられるの?」
『はいっ!』
「じゃあ、俊ちゃんと変わって……」
結局、彼女の涙と熱意に押された私は、俊ちゃんが木嶋さんの彼氏の『フリをする』ことをは了承してしまった。
────────
それから1週間。俊ちゃんからパッタリ連絡が途絶えた。毎日何十通もしていたメールもLINEもない。
それも、どうやら木嶋さんからの条件らしい。
彼氏が他の女と連絡を取っていると、ストーカーに『やっぱりお前らは付き合っていない』と勘ぐられるからだとか。
おまけに、俊介の携帯にある女子の連絡先は、全て偽名に書き換えられて電話帳に登録されているらしい。
「彼氏を信じて待つしかないよね、こういう場合は」
「1週間長すぎますよお……こんな気持ちになるならぶっ通し夜勤して何も考えたくない」
千里さんだけが支えとなってくれたのが幸いだったと言えよう。彼女がいつも彼氏を信じてと励ましてくれたからこそ、悪夢のように長い1週間を耐えることが出来た。
「もう大丈夫よね? 約束の1週間だし……」
会いたくなるから電話はしなかったのに、LINEではなくその時は普通に電話んかけていた。
『お掛けになった電話番号は、電波が──』
「地下鉄にでもいるのかな……こんな時間だから会議ったことも──?」
時計をちら見して後から掛け直そうかと思ったが、何か胸騒ぎを感じ、私はメールをカチカチ入力した。
送信した数秒後にバイブ音が鳴る。そこに記載されていたのは送信先不明との英語メール。
さらに、LINEまで管理されているのか、いくらメッセージを送っても返答がない。まさかブロックでもされているのか。
彼と全く連絡が取れないことが、私をどん底に突き落とす。
このまま自分の知らない所で俊ちゃんが他の女に攫われる。──そんなの、絶対に嫌だ。
「なに、これ──」
フェイスブックのツーショット写真を見て、私は携帯を落としそうになった。
木嶋さんとは友達ではないが、わざわざ私に友達登録の許可まで送ってきたらしい。
そして彼女のフェイスブックには、俊ちゃんと楽しそうにUSJで遊んでいるもの。何処かのお店で仲良くジュースを飲んでいるところ、腕を組み歩く恋人同士の写真が、大量に掲載されていた。
どれも『私の自慢の彼氏です』と紹介しており、つけられたコメントやいいね! には若い子の可愛い顔文字で楽しそうに返信している。
この時点で私は自分と彼女の立場が入れ替わった事に初めて気がついた。
もし私がここに書き込みをしても、木嶋さんの友人から見るとモテない年上女子の僻みにしか取られない。
「私が、俊ちゃんを信じるの……それしか無いんだから」
私は俊ちゃんに貰ったピンクのハート型ネックレスを胸元できゅっと握りしめて瞳を閉じた。