8
夢を見た。
最近繰り返し見る夢だ。
濃い魔素に覆われて痩せ細った大地で細々と暮らしている、そんな村に立ち寄ったときのこと。
――お願いします、どうか、どうか、助けてください
通過するだけのつもりでいたのに、村娘のひとりが沼に薬草を取りにいったまま戻らないと、萎びた男女に泣きつかれた。村の暮らしは決して楽ではなく、沼地に生える薬草が貴重な財源になっていた。
よくある、うんざりするような話だ。
この村にしがみついている限り何も変わりはしないのに、彼らは何故か離れない。健康だろうが病を得ようが、ここにいる限り長くは生きられない。魔素で死ぬか、病で死ぬか、あるいは魔性に襲われて死ぬか。そのいずれかしかない。希望もなく、誰もが陰気な顔で地を這いずり回り、実りの少ない畑を必死に耕して、かろうじて生を繋いでいた。
故郷とはそんなにもいいものなのだろうか。故郷を捨てた親に育てられた彼にはわからない。いっそ皆でこの地を捨てて、どこかへ移住したほうが楽だろうに。
仕方なく、助けに行った。魔性に襲われているのなら間に合わないかもしれないとよくよく言い含め、それならそれでも構わないと言質を取ってからのことだ。
たいした魔性もおらず、唯一面倒だと感じたのは動きの早い魔猪くらいのものだったが、目に付くものを片っ端から斬り伏せて沼に辿りついたとき、娘は今にも折れそうな木の上でおんおんと泣きながら誰かの助けを待っていた。その泣き声で魔性を引きつけていることにも気づかずに、泣けば助かるのだと思い込んでいるように、ただひたすらに泣いていた。
木の根元では痩せさらばえた魔犬が三頭、うろつきながら犠牲者が落ちてくるのを待っている。
彼が姿を見せたとき娘はぱっと顔を輝かせて、それから表情を凍らせた。
ゆっくりとした唇の動きだけは、はっきりと覚えている。
――魔性
彼は何もしなかった。
手を下さなかったのは、そうする必要を感じなかっただけ。
彼はただ、娘が力尽きるのをそこで見ていた。じっと、見ていた。
朱い瞳のままで。
――ごめんなさい、助けてください、誰にも言わないから
謝罪を聞き流し、懇願を聞き流し、悲鳴を聞き流した。
断末魔だけはしっかりと耳に残した。娘にとっては何の慰めにもならないだろうが、そうするべきだと思ったから。
酷く喰い荒らされる前に遺体を拾い上げたのは、娘を哀れに思ったからではなく、帰りを待つ親を憐れんだわけでもなく、ただ、血塗れでは持ち帰るのが面倒だと感じたからだ。血は嫌いではなかったが、はみ出した臓物を再び腹に収めるのは意外と骨が折れるのだ。
遺体を村に戻した時、それでも娘の両親は彼に礼を述べた。何度も、何度も、拝むように。
あの娘は最期の瞬間に何を思っただろうか。
娘が悪かったわけではない。彼が、朱い瞳のままあの場に現れたのが悪いのだ。姿を現す前に、興奮を鎮めるべきだった。魔性ではなく人として娘の前に現れれば、あの娘は死んだりしなかった。
可哀相なことをしたと思う。それと同時に仕方がなかったとも思う。見られたことに恨みや怒りがあったわけではない。彼は己が魔性に引きずられていることをわかっていたが、そうと露見するわけにはいかなかったのだから。しかし何よりも悍ましいのは、あれを「仕方がない」と感じてしまう自分だった。
あの日、彼は傭兵を辞めた。
よくある、うんざりするような出来事だった。
***
机の上に並べられた無数のフラスコには、それぞれ何かの断片と思われるものが浮かんでいた。肉片、目玉、千切れた臓物の一部、爪のない指先、毛の束。その中にひとつだけ、形を保っているものがあった。細い刺繍糸のような亜麻色の髪が生命の海にふわりと広がり、卵形の顔の半分以上を瞼のない大きなひとつ目が占めている。見るものに嫌悪感を与えるような異形の人型。しかしそれも、端から崩れ始めていた。
「失敗、か」
ひとつひとつを検分していたカミルは小さくため息をついた。何度目の失敗だろうか。素体の大本となる精液や追加する血液は己からいくらでも採取できるが、それ以外の素材には限りがある。少しずつ比率を変え、添加物を変えとやっているが、完成形のレシピはまだ見えない。ここまではっきりとした人型を取ったのは初めてで、少しだけ期待をしていたのだが。
破望山脈から戻って二月ほど経った。窓の外には時折雪がちらつくようになり、日々寒さが厳しさを増している。ヴォルフスブルクはレーベン湖があるためかあまり雪が積もることはないが、あの山はどうだろうか。もう雪に閉ざされている頃だろうか。
二ノ峰で採取した月光草は、そのまますり潰せば薬の材料として使えるが、乾燥させ蒸留すると純度の高い月の魔力が抽出できる。古い錬金術の文献にも素体を安定させる添加物として載っていたので試してみたが、やはり方向性は間違っていないようだ。
ただ今回は培養が早すぎた。本来であれば人の胎児と同じくらいの時間をかけてじっくり成長するはずだったのだ。与えた魔力が多すぎたのか、あるいはカミルの血に潜む魔素の影響か。
「残念だな……」
フラスコの首を持って軽く揺らす。たったそれだけの衝撃で人型は儚く崩れ去った。生命の海が肉色に濁る。残念なことに亜麻色の髪も溶けてしまった。大きなひとつ目だけがフラスコの底に沈んでいる。
「何かが足りないのか、多いのか……それとも密閉方法に問題があるのかな」
もし己の血に問題があるのなら、どうにかして生き血の調達を考えなくてはならない。出来ればそれは最後にしようと思う。造りたいものが人型の疑似生命体である以上、その辺の動物を捕まえてというわけにはいかないのだ。調達方法を考えるだけでも頭が痛い。可能ならば――そう可能ならば、彼女の血が欲しい。
材料の比率だけを書きつけた羊皮紙に取り消し線を引く。何を使ったかは全部頭に入っている。この家に盗人が入るとは思わないが、証拠は残さないに越したことはない。疑似生命体の創造は聖教会においても魔術師協会においても特級の禁止事項だ。魔術師協会は敢えて明文化をしていないが、過去禁術により数多くの被害が出たことから禁止としている。聖教会は生命の創造は神の領域であるととにかく煩い。結果的に、ほとんどの錬金術師がそれの完成を目指していたとしても、研究していると公言する者はいなかった。
浄化の魔術をかけた壺に網をかけフラスコを傾ける。もとは生命の海だった液体はただの濁った廃液となり、強烈な異臭を放った。次々に廃液処理をしながら網の上に残った核を回収していく。竜の牙も爪も使った。あの魔竜はいい素材だった。魔狼の毛も使ってみた。外套に絡みついていた、彼女の髪も。
最後のフラスコからこぼれた出た緑の石はあの大きなひとつ目の素材だった。魔竜の鱗を加工して何度も合成を重ねて作り出した人工の宝玉だ。合成を重ねたことによりもともと薄かった色が深みを増し、彼女の瞳と同じ色になったから髪と一緒に入れてみた。人体の各部品を模したものを入れたのがよかったのかもしれない。小さいながらも胸のふくらみが見て取れるほどに女性型をとっていた。
完成していたら、もしかしたらこの虚を埋めてくれたかもしれないのに。
「……美味しそうだ」
つまみ上げた宝玉を、無意識に口に放り込む。不思議と甘く感じた。
彼女の瞳もこんな風に甘いのだろうか。彼女の瞳もこうして、飴玉のように舌先で丁寧に転がして、ゆっくりゆっくり溶かして、柔らかく食んで。
――カミルさま
ふいに記憶から呼び覚まされた優しい調べがカミルを打った。
今、何を、した。
慌てて手のひらに吐き出す。ころりと転がる緑の石はやはり飴玉のようで、口に入れることは間違いではないと衝動が訴えてくる。
震える手で口元を覆いゆっくりと息を吐く。落ち着かせるように。
これは飴玉ではない。勿論、彼女の瞳でもない。自分にそう言い聞かせながら理性を働かせる。呑まれてはいけない。これに呑まれたら戻れなくなる。
「失礼します!」
「は、はい!」
突然玄関の扉を強く叩かれびくりと肩が跳ねた。動揺のあまり普段は気にも留めないノックの音に反応を返してしまう。
「こちらはカミル殿のご自宅でよろしいでしょうか」
閉じた扉の向こうから生真面目な声がする。
「どちらさまですか」
「わたくしはエーデルシュタイン辺境伯レオンハルト様旗下の騎士コンラートと申します。我が主がカミル殿に至急お会いしたいとのことで、お迎えにあがりました。よろしければこのままご同行願えませんか」
思わず周囲を見回す。窓はしっかりと施錠している。壁に穴などは開いていない。何かが漏れたはずはない。
「召喚されるようなことはしたつもりがないのですが……」
「召喚ではございません。火急の用件にて、是非ともお願いしたいことがあるとの事」
そこでカミルはようやく扉を開けた。生真面目な声にふさわしい生真面目な表情をした若い騎士が立っている。若いと言っても三十前後か。薄い榛色の目はどこかで見たことがあるような気がした。
騎士は胸に手を当てて綺麗に一礼すると、表情を崩さぬまま言った。
「突然の訪問失礼とは存じますが、何卒我が主の願いをお聞き届けください」
「えーと、はい、せめて顔洗ってきてからでいいですか」
「勿論でございます。お待ちしております」
エーデルシュタイン辺境伯レオンハルトとは黒竜戦役で共に戦った間柄で、決して知らない仲ではない。この二十年、直接顔を合わせることはなかったが、傭兵組合を通した指名依頼は何度か経験がある。こんな風に呼び出される心当たりはないが、そもそも今のカミルは辺境伯の領民のひとりであり、領主さまの御意向とやらに逆らうつもりもなかった。
一度部屋にとって返し中を検める。浄化の壺はよい仕事をしたようで既に異臭はなく、並んだフラスコの存在は若干異様ではあるものの錬金術師の工房としてはそれほどおかしいことでもない。書付の羊皮紙はすべて抽斗に仕舞い込んでしっかりと鍵をかけた。
汲み置きの水で顔を洗い、無精髭を当たるか悩んでやめた。服装やらに言及がなかったのだからそこまで気にすることもないのだろう。馬油のクリームを手のひらに伸ばして前髪を掻き揚げる。鬱陶しいと感じる程度には伸びてきているが面倒でずっとそのままにしていた。すぐに落ちてくるだろうがとりあえずはこれでいいと撫で付けながら戻ると、直立不動で待っていた騎士が目を瞬かせた後に破顔した。
「二十年も経つというのに、あまりお変わりになりませんね」
「あー……どこかでお会いした、ような?」
「はい。先の戦役の際、伯の小姓を務めておりました。竜殺しの英雄のお気に留めていただけていたとは光栄です」
純粋な尊敬のまなざしは面映ゆいを通り越して心が痛い。竜を殺したのは事実だが、決して一人で為したわけではないからだ。むしろ大勢の犠牲がなければ為し得なかった。カミルは英雄と呼ばれることを好まない。あんな悍ましいものを英雄と呼んではならない。
若干居心地悪い思いをしながら案内され、大通りに待っていた馬車に乗り込んだ。