7
一ノ峰の野営地でもう一泊することになった。日没までにはまだ間があったが、何よりフェリシアは疲れ切っていたし、カミルも珍しく息を乱していた。笑いながら走るというのは存外疲れることだった。
朝方消した焚き火を再び起こし、持ち込んだ堅焼きのパンと干し肉で簡単な食事を取る。フェリシアが荷物に忍ばせていた苔桃のジャムは程よい甘さで疲れを癒やしてくれた。そういえば昨日ユリアンにも同じものを渡していたと思い出し、今頃はこれを食べている頃だろうか、村のものはこうやって頻繁にフェリシアを食べているのだろうかと少し羨ましくなる。
いや、違う。フェリシアを、ではない。フェリシアの作ったものを、だ。
カミルは火の番を買って出て洞穴の壁に背を預け座り込んだ。少し離れたところでフェリシアが外套を毛布代わりに横たわる。荷物を枕代わりにしているが、入れていた月光草の包みは丁寧に外に避けられていた。しどけなく横たわる姿は目に毒で、焚き火を見つめることで衝動に耐える。
もう瞳は黒に戻っているだろうか。
赤くても、火に照らされてのことだと思ってくれるだろうか。
覚えのある強烈な殺気を感じ外に視線を向けると、魔狼が洞穴の前を何度も行ったり来たりしていた。時折立ち止まって洞穴を見つめては近づこうとし、魔性避けの結界に阻まれ唸り声を上げて引き下がる。
「ローボ……しょうがない子ね、おいで」
観念したフェリシアが甘い声でローボを呼ぶ。それが何かの合図なのか、結界が一瞬緩んだ。その隙を縫って狼が洞穴に入ってくる。周囲の臭いを嗅ぎ回り危険のないことを確かめてから、フェリシアに寄り添うようにして寝そべった。
フェリシアはしばらくローボの毛皮に指を通し手触りを堪能していたが、思いついたようにぽつりと呟いた。
「……あの竜、魔竜は、どこから来たのでしょうか」
「今までこの山で見かけたことは?」
カミルが問いかけると否定が即座に返ってくる。
「ありません。もしかしたらもっと奥、三ノ峰よりさらに奥には棲んでいるかもしれません」
「あれは鱗の色からいって元は風竜でしょう。高地を棲み処とする種ですから、さらに奥というのはあり得る話です。もっとも何故二ノ峰に現れたかについては疑問が残ります。三ノ峰には結界が張ってあるのですよね?」
竜は鱗に親和性の高い属性の色が出る。炎なら赤、水ならば青というように。緑は風だ。カミルがかつて狩った竜は黒。体内に、瘴気を撒き散らす毒袋を持っていた。
「登り口だけです。だから飛んで越えたという可能性も捨て切れません……でも……わたしは、三ノ峰に入ったことがあります」
「入った?」
「はい、父にも内緒で。小さな魔石をこっそり集めて、結界を刻んで、使い潰して行きました。結界の中なら呼吸もなんとかなりますので……登り口からほんの少し先まででしたけど」
「何を見たのですか」
「……三ノ峰の魔性はほとんどが翼持つものです。飛べるんです。でも今まで下りてきたことはありません。父が狩った人面獅子にしても、三ノ峰にいるものはもっと大きくて……だから登り口だけでも結界には効果があるはずなんです」
泣きそうな顔をしてフェリシアは傍らの魔狼を抱き締める。ローボは抵抗することなく体を寄せ、長い舌で慰めるように頬を舐めた。
「わたしたち森番は人の領域と、山――魔の領域とを分かち、双方の行き来を監視するのが本来の役目。人が魔の領域に足を踏み入れるのを止め、魔が人の領域を侵すのを防ぐ。それが森番の務めです。下手に魔の領域を騒がせれば呼び水になりかねない。だから、それ以来三ノ峰には行ってません。あそこは本当に魔性の土地です。人が触れていいところではない」
「なるほど。呼吸できないほどの魔素というなら、もしかしたら魔素溜まりがあるのかも……竜は気高く賢い幻獣ですからそう簡単に魔性に堕ちることはないはず。ただ魔素溜まりに長く留まれば魔性化する可能性はある」
魔素は放っておけば散じる。そうでなければ土葬の墓地など人が近寄れない場所になってしまう。だから時間が経てば散じるはずなのだ。しかしそういう場所ばかりではなく、何故か土地によって濃い薄いがある。濃いところで何が起こっているかはわからないし、そもそも人はその中では生きていけないから確かめようもないのだが、魔素を溜めやすい何かがあるのだろうと言われていた。それを魔素溜まりと呼んだ。
「どこかから飛来したのであればあまり気にすることはないのですが、いずれにせよ一度山を下りて領主さまに報告したら、また様子を見に行かないと」
沈黙が降りる。フェリシアはローボの毛皮に顔を埋めていた。魔狼は耐える風でもなく、目を閉じてじっとしている。時折耳がひくひくと動く以外は特に何かを気にしている様子もない。洞穴の外から何かの遠吠えが聞こえた。形容しがたい鳴き声や羽ばたきの音もしている。酷く騒がしいが、フェリシアもローボも反応しないということは、これが本来の山の様子なのだろう。
しばらくしてフェリシアがのろのろと顔を起こし、横たわったままカミルを見上げてきた。
「以前にも竜を狩ったと」
「……ちょうど二十年前になります。フェリシアさんは西にあった小国のことはご存じですか」
「まだ生まれていないですが聞いたことはあります……父と、領主さまに。あの、あまり詳しくは話してくれませんでした」
カミルは壁に背を預けたまま目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、大地を埋め尽くす影と赤い光。今でも容易に思い出せる。そして今後も、絶対に忘れないであろう光景。
「そうですね……地獄というものがもしあるのなら、あれがきっとそうなのでしょう」
後に黒竜戦役と呼ばれる、大陸戦争最後にして最大の戦いは、たった一人の男の狂気から始まった。
***
「二十年前、私は傭兵団に属していました。父が団長で、先代のエーデルシュタイン辺境伯に雇われました。辺境伯は外に攻め入ろうとはしていませんでしたが、いつ西から攻めてくるかわからないということで、広く兵を集めていたのです」
当時エーデルシュタイン辺境伯領の西隣にはエスパーダという小国があった。都市ひとつとその周辺だけの本当に小さな国だ。元は北方帝国に臣従を迫られ従属して子爵位を賜った小領だったのだが、帝国の崩壊、分裂時代を経て群雄割拠の時代にはそんな領主が次々に独立を宣言し勝手に国を称したものだ。
あるときエスパーダの王は大陸全土に宣戦布告した。ほとんどの国は相手にしなかった。そのくらい小さな国だったのだ。そもそも既にどこもかしこも戦乱の巷と化していて、今さらの宣戦に何の意味があるのかと逆に訝しんだ。
ことが露見したのは、エスパーダよりさらに西にある国が、ならばと攻め入った時だ。侵攻部隊はついぞ帰ってこなかったが、ある日国境付近の砦に血の雨が降った。文字通りの血の雨。肉片交じりのそれは、無残な姿になった侵攻部隊だったものだ。翼持つ魔性が空を埋め尽くし、それらが咀嚼するたびに口の端から漏れた血が雨のように降り注ぐ。噛み損なった腕が脚が頭が、原型を保ったまま落ちてくる。魔性はそのまま砦に襲い掛かり、惨劇は拡大の一途を辿った。
エスパーダの王は禁忌に手を染めたのだ。
「魔性を喚び、操る禁術の存在は魔術師の間では常識でしたので、それそのものに驚きはなかった。かつては使い魔と称して様々な用途に使役していたと言います。ただその術は失われて久しい。魔導文明の崩壊は、術から解き放たれた魔性の大氾濫により起こったとも言われています。エスパーダの王がどこでその術を手に入れて、そして何故それを行使したのか、今となっては誰もわかりません」
国境砦を皮切りに、エスパーダから溢れ出た魔性は瞬く間に西の国を蹂躙し滅ぼした。その先頭に、当然エスパーダ王の姿はなく。
王は最後まで姿を見せなかった。いや、最初から姿を見せなかった。宣戦布告より後のことは誰も知らない。エスパーダの城も都市も濃い魔素の中に沈み、王が、民がどうなったか、確かめることも出来なかった。
今、エスパーダ王の名はすべての公式記録から抹消されている。
「事ここに至っては人同士で争っている場合ではないと、各国は協力して魔性狩りに当たることになりました。幸い兵の錬度は高い。それまでずっと戦争していたわけですから当然です。少しずつ少しずつ魔性を削り、戦線を押し上げて、ようやく元のエスパーダの国境付近まで戻したとき――奴が現れたのです」
カミルは後方にいた。本来であれば傭兵として最前線に置かれるのだが、ちょうど辺境伯の嫡男――当代の辺境伯レオンハルト――が初陣で、歳が近いということもあってか何故かやたらと懐かれて護衛に選ばれたのだ。大貴族の若様の我侭に付き合った形だが、今から思えば、彼にとっての初めての友人だったのだろう。気さくでやんちゃな少年だったため、ついつい一緒に馬鹿をやったりもした。
レオンハルトは先代辺境伯の唯一の男児で、大切な跡取り息子だった。故に最前線に出ることはなかったが、代わりに本陣を任され刻々と変わる前線の情報を収集し、御付きの騎士や文官たちの助けも得て上手く捌いていた。そこに、ひとつの知らせがもたらされた。
前線部隊の全滅。
無事な遺体はひとつもなく、ただ、磨り潰されたように、血が肉が、大地を赤く染めていた。
知らせを受けてカミルは戦場に急行する。レオンハルトも兵を率いて出陣した。全滅したと言われる部隊には団も、先代辺境伯も含まれていたのだ。
舞台となったのはレーベン湖の南西側。エスパーダとの国境までの間を、無数の赤い光が埋め尽くしていた。どの赤もぎらぎらと欲望を滾らせ、新たな犠牲者の出現を手薬煉引いて待っていた。
その中央に、小山ほどもある巨大な魔性が鎮座していた。艶光りする黒い鱗。蝙蝠のような翼は三対。磨きぬかれた紅玉の瞳。口を開けば炎と毒の息を吐き、前足を振るって鋭い爪で人を裂いた。牙は血に塗れ乾く暇もない。
黒竜。十二分に成長した、もはや老竜と言ってもいいくらいの巨大な竜が、魔性に堕ちて其処に在った。
「父は、生きていました。かろうじてまだ息があった。両脚と右腕を喰われ、左腕も碌に動かせる状態ではありませんでしたが、まだ生きていた。そして私に言いました」
本来負傷者を収容するはずの天幕は死臭に満ちていた。その一角でカミルの父は多量の血を吐き死神にまとわりつかれながらも嗤っていた。
――ざまぁみやがれ、焼いてやった。焼いてやったぞカミル
――あいつは喰われちまった。だがあいつはやったぞ。内側から焼いてやった
――カミル、いいかよく聞け。俺たちは終わりだ。終わりなんだ。だから
「だから、好きにしろ、と」
母も喰われたのだとその時知った。喰われながら、かつて息子に教えたとおり、内側からあの黒竜を焼いたのだ。紅蓮の炎は母が一番得意とする魔術だった。
父はそのまま目を見開いて死んだ。嗤ったまま死んだ。
そしてカミルは、その遺言通り、好きにした。
「魔竜をなんとかしなければと誰もが思っていました。幸いなことに母の最期の足掻きが効いて竜は弱っていた。今しかないのだと。時間を置けば回復されてしまう、そうなったらもう勝ち目はない」
人々はぼろぼろになりながらも戦いを挑んだ。戦わずに磨り潰されるより、戦って死ぬことを選んだ。騎士たちが轡を並べ、歩兵の槍は天を突く。大量の矢が空を黒く埋め尽くし、雨となって魔性に降り注ぐ。魔術師たちは持てるすべての力を振り絞って、炎を、氷を、風を、雷を喚んだ。
カミルも自らの小隊を率いて先陣を切った。団の生き残りは団長と副団長の弔いだと意気込んでいたが、カミルはもうその時何を考えていたかよく思い出せない。ただ殺したかった。殺して、父を、母を喰ったあれを、喰らい返してやらねば気がすまなかった。
最後の戦いは凄惨を極めた。
「……仲間の死体を魔性が喰っている。目の前で、です。そしてまだ仲間に息があっても助けることはできない。そんなことをすれば、次に喰われるのは自分です。誰かが犠牲になっている間に魔性を屠り、死体は――死体になっていなくても、裡捨てて次に向かっていくしかない」
救いを求める悲鳴も、止めを望む懇願も、すべてを振り切って、ただ前へ。
倒れた者に情けをかける余裕などなかった。情けとは余裕がないとかけられないものだと知った。誰もが人であることを忘れていった。
極限の状態で人は獣になる。獣にならねば生き残れない。武器を失えば拳で殴った。手を失えば足で、足も失えば、口で。噛み付いて、噛み千切って、己の命を少しでも多くの死に換える。そうして数多の生と死が費やされた戦場で、ついにカミルは敵と相対した。
戦い方はそれまでと変わらなかった。誰かが犠牲になっている間に攻撃をしかける。誰かが喰われている最中は絶好の機会だった。ひとり、またひとりと、無残な肉片に姿を変えるたびに、カミルの剣は竜の鱗を削り、カミルの炎は竜の皮膚を焼いた。
黒竜が動きを止め大地にその巨体を横たえたとき、立っているのはカミルだけだった。
歓声が遠くに聞こえる。勢いづいた人は、そのまま他の魔性を圧倒し始めた。虐殺は攻守の立場を入れ替えて続行された。
カミルは竜殺しの英雄となった。誰もがカミルを褒め称え祭り上げた。
その中で彼は唯ひとり、己の悍ましさに耐えていた。
「私は勿論、おそらく貴女のお父上も、そして辺境伯もその地獄を見てきたのです。詳しく語らなかったのはそのせいでしょう」
戦後、生き残った諸侯は会議を開き、それぞれの境界と体制を定めたのち、長らく続いた戦争の終結を宣言した。レオンハルトは辺境伯を継ぎ、レーベン湖南にあった領都を現在のヴォルフスブルクに移した。少しでも魔素の影響から逃れるためには仕方のないことだった。かつて帝国の至宝とまで呼ばれたエーデルシュタイン辺境伯領は、領土の西南半分近くを魔素に侵され、その他の国も地域も多くが魔素の海に沈んでいる。
百年に及ぶ大陸戦争における死者のおよそ半数が、この黒竜戦役によるものだった。たった半年に満たない期間にそれだけの人間が死んだ。
一人の男の狂気は何も産まなかった。戦争の終結という、危うくも尊い和平以外は。
カミルは戦争屋だった。多くの魔性を斬ったが、多くの人をも殺めた。そのことに後悔はない。殺さなければ殺される。戦争とはそういうものだ。
だがそういうものだと諦めてしまうことは、本当はとても恐ろしいことなのではないか。
「フェリシアさん、貴女は。貴女は戦いを知らない。戦争を知らない。それはとても、とても幸せなことなのです」
***
夜が更けていく。欠け始めの月がゆっくりと天頂に向かっていた。
黒々とした木々が風に揺れざわめいている。何かの羽ばたきが洞穴の外を横切った。今の時間なら蝙蝠だろう。
「あの時私は過ちを犯しました」
「過ち……?」
「傭兵団が全滅して戦争屋から足を洗って、そのまま魔性狩りに転じました。戦い以外を知らなかったのでそうすることしかできなかった。数えきれないほど魔性を狩り、あるとき気づいたんです……私は、人ならざるものに向かっていると」
焚き火に投げ込んだ枝がパキリと音を立てて爆ぜる。
「様々なものを狩りました。依頼を受けて狩りに行くこともあれば、思わぬ遭遇でひたすら殲滅を続けることもあった」
狩ったのは魔性だけはなかった。小鬼や豚鬼の群れもそれすべてが魔性というわけではない。群れを率いる長はたいてい魔性化していたが、そんな時は長だけ討ってしまえば散り散りに逃げていく。カミルはそれを決して赦さなかった。最後の一匹に至るまで殲滅し尽くした。
「そういうことを繰り返して、あるときふと、私が――己が人の枠から外れていくのに気づきました。気配に敏感になり血の臭いをかぎ分け……それだけなら優れた狩人であればいずれ辿りつく境地でしょう。ですが違った。もっと酷いものだった。今私は、こうして離れている貴女の心音すら聞き分けることができます。トクトクトクトク、と貴女の可愛らしい心臓がどれほど早く打ち鳴らされているか。私の些細な言葉にどれほど乱されているか。そんなことまでわかります」
その言葉でまたフェリシアの心拍数が変わるのがわかった。
「私はもう人ではないのだと、魔性に堕ちたのだと、そう思いました」
「そんなこと……ありえません、だって」
「そう、私より長く魔性狩りを続けている者もいます。だからといって魔性に堕ちるわけではない。でもそういう者と自分との違いを考えたとき――あれが過ちだったのだろうと思います」
もしあの瞬間に戻れるなら、カミルはどうするだろうか。何度も自問したが、答えは変わらなかった。
「二十年前のあの地獄で、私は竜を狩って……竜を殺して、そして……」
死屍累々の戦場で、戦勝の歌を、勝ち鬨の声を遙か遠くに聞きながら、カミルは竜の死骸の前に立ち尽くしていた。本当は立っているのもつらいのに、全身が痛みと倦怠感に苛まれているのに、その場を離れることがどうしてもできなかった。
倒れた竜の瞳があまりにも赤くて。
滴る血のような鮮やかな紅が美しくて。
どうしても、我慢ができなくて。
「私は、竜の瞳を、喰らったのです」
ヒュッと息を呑む音が、静かな洞穴に響いた。
気付いたとき、カミルは抉り出した竜の目玉に噛り付き、ドロリとした中身を味わっていた。どんな味だったか覚えてはいない。甘いと感じた。熱いと感じた。何より、美味いと感じた。夢中で噛み千切り、啜り、飢えを満たすように、渇きを癒すように、ひたすらに喰った。それまでに浴びた返り血よりも、さらに多くの血を浴びながら、ただひたすらに貪った。
「赤い瞳は魔性の証。魔素の塊。それを喰らい、夥しい量の魔素に侵されました。身体を必要以上の魔素に侵されると、それがやがて虚になります。あれは虚としか言いようがない。ぽっかりと穴が開いて、それを埋めたくて仕方がなくなるのです。飢餓感とでも言えばいいのか。とにかくそれを充たしたくて、なんでもいいから充たされたくて、闘争を繰り返したり暴食に走ったりする。魔性とはきっとそういうものなのです。常に何かに飢えていて、それを抑えられない」
「……ローボもそうなのでしょうか」
フェリシアが抱きついた魔狼の毛皮を手で梳る。ローボが顔を上げカミルをじっと見た。余計なことを言うなとその瞳が訴えている。
「おそらく。ただ、今のローボは……充たされているようにも見えます。何によってかはわかりませんが」
「そうなの、ローボ?」
カミルは気付いていた。ローボの血のような瞳の奥にくすぶる熾き火に。
ローボはただフェリシアを慕っているのではない。いや、母のように、番のように、フェリシアを慕っているのは間違いないのだが、それ以上の感情が奥底に渦巻いている。
ローボはフェリシアを食べたいのだ。捕食したいのだ。彼女の柔肌に牙を突き立て、朱い甘露を啜りたいのだ。
ならば何故、お前はそれをしないのか。
何故、お前はその浅ましい欲望に耐えているのか。
彼女を食べたらきっと甘いに違いないのに。
カミルは戦利品を収めた小袋を開き、中のひとつを取り出した。ごつごつしたそれを手のひらで包みこみ、ゆっくりと魔力を沿わせて表面の尖った部分を滑らかに変質させる。道具があればもっと加工もできるのだが、今はこれが精一杯だった。
「フェリシアさん、これを」
「これは?」
「先ほどの竜の逆鱗です。若いとはいえ魔竜の逆鱗ですから、護符にはちょうどいいですよ」
差し出されたそれを恐る恐る受け取ったフェリシアは、逆鱗とカミルとを繰り返し交互に見て口を開いた。
「そんな、貴重なものなのでは」
「私には必要ないので。でもこれからもこの山に入るフェリシアさんには必要だと思います。弱い魔性はそれに竜の気配を感じて近づこうとはしないでしょう。強い個体にどこまで効果があるかは疑問ですが、少なくとも警戒をするはず」
「……綺麗……こんなに綺麗なものなんですね。きらきらして、緑柱石みたい」
貴女の瞳と同じ色だとは、何故か言い出せなかった。
「こうしているとカミルさまが魔性に堕ちたなんて、やっぱり信じられません。今のカミルさまはちゃんと抑えていらっしゃる。違いますか?」
「そう、そうですね……ですが……今回は私が自ら来ましたが、もう戦う気はなかったのです。虚を充たすために戦い続けて……そのたびに人であることを失っていく。戦いの中で私は人ならざるものに成り、そしてそれが、とても怖かった」
「だから引退を?」
「そうです。人里で、人に紛れて生きるべきだと思いました。何かで――それが何かはまだわかりませんが、別の形で虚を充たすべきだと――ですが、やはりだめですね。目の前にしてしまうと抑えきれない」
それ以上に、フェリシアに向き合うたびに思い知らされる。
フェリシアを好ましい娘だと思う。身体つきが好みというだけではない。愛らしく朗らかで、生真面目で、己の分を弁え出しゃばらない。戦えないからといって足を引っ張ることもない。出来る事は最大限努力し、慢心しない。
そんなフェリシアに対してカミルが抱く感情は、決して、人が人に対して抱いていいものではない。
ローボが首を擡げる。燃え上がる赤い瞳がひたとカミルに据えられた。不埒な考えを窘めるでもなく、ただその瞳は「これは己の獲物だ」と訴えてくる。
「ローボ、どうしたの?」
甘い囁きに誘われるように狼は視線を外す。体勢を変え、再びフェリシアに寄り添った。
護るように。
それ以上に、囲うように。