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「月光草、ありました」
前を行くフェリシアがそういって振り向いたのは、登り始めてから昼食を含めて二回めの休息を挟んですぐのことだった。かなりの高地まで来たようだ。倒木が周囲を巻き込んだらしく、ぽかりと空間が開いている。今は日の光が弱々しく届いているが、夜になれば月光に変わるのだろう。フェリシアが指差した先には白い花弁を持つ植物がいくつも生えていた。勿論、今その花弁は開いていない。
「これは昨夜開いたものですね。これはそろそろ終わりかな? こちらはまだつぼみ。どれにしましょうか」
「盛りのものとつぼみのものを一株ずつで」
「わかりました。では採取の間は警戒をよろしくお願いします」
フェリシアが荷物を降ろし屈みこんだ。腰から円匙を外し、ひとつひとつの花を吟味する。これというものを見つけたのか、真剣な表情で周囲の草を選り分けた。土を掘る音は連続ではなく止まったり続いたりを繰り返している。カミルは辺りを警戒しつつも、気になって作業中の手元に視線を落とした。
フェリシアの仕事はとても丁寧だ。根を傷つけないよう大きく土を掘り、時には手を使って掻き出していく。高地に生える植物は厳しい環境で成長するために太く深く根を張る。カミルは生えている状態の月光草など見たことはなかったから、その根がこれほど深いとは知らなかった。広げたぼろ布に水袋を傾けて少し湿らせる。掘り出した月光草の根を土とともに軽く整えて包み込み、ぐるぐると巻いていく。上からは花を守るための頭陀袋を被せ茎に添え木をして紐で縛り上げた。同じことを同じくらいの時間をかけてもう一度繰り返し、二株の月光草を採取する。ジギスムントに採取人として雇えと言われた理由がわかった気がした。
採取後の仕事も丁寧に、掘り返した土を戻し整える。月光草があった場所以外は、ほとんど元のままだった。むしろ後から来た者に、ここに月光草が咲いていたと言ったところで気付かないかもしれない。
月光草を積み込んだ荷物を背負い直してフェリシアが立ち上がる。
「おまたせしました。戻りましょうか」
その瞬間、山の上から大気を劈く咆哮が響き渡った。
「っ! 今のは!?」
カミルもフェリシアも思わず耳を塞いだ。山肌にぶつかった咆哮が木霊してがんがんと頭を揺さぶる。遠くから響いてきたはずなのにその衝撃は衰えていない。張り詰めていた空気が一気に霧消し、かわりに恐怖が伝わってくる。山が、木々が、恐怖している。
今のは聞き覚えのある咆哮だった。二十年前にも聞いた、あれと同じ声。いや、あれのほうがもっと恐ろしかった。
「上、ですね」
カミルは冷静に方角を測り、そちらを強く睨みつけた。
「……行かないと」
「行くのですか?」
驚いてフェリシアを見下ろすと、青ざめてはいるが決意を秘めた顔で頷く。引き結ばれた唇が白い。
「わたしが聞いたことのない声でした。何がいるのか確認しないといけません。領主さまに報告して、どうなさるのか方針をお聞きしませんと」
「ものによっては狩ってしまっても?」
カミルの唇が弧を描く。内側が歓喜に充たされていくのがわかる。心臓が打ち鳴らされ全身に血が巡り、体中が早くそこへ行けと強く強く訴えてくる。この感覚が嫌で傭兵を引退したというのに、抑えきれない。
「それは、問題ないですけど、でもカミルさま……?」
「おそらくですが、あれは竜ですね」
「竜!」
「仔竜なら楽に狩れますが、今の声の感じだともう成竜かな。ともかく見に行ってみましょうか」
カミルは手を差し出した。戸惑いながらも乗せられた小さな手を握り返すと、咆哮が聞こえた方角に向かって走り出す。走りながら空いているほうの手を胸に当てた。冷たい鱗の感触。あれは今こうして、カミルの身体を護るものになっている。あの後たくさんの魔性を狩りはしたが、あれほどの強敵にはついぞ出会わなかった。
そうだ。きっと、足りなかったのはそのせいだ。
ならばこれから先にいるものが、カミルの空白を埋めてくれるはず。
「か、カミルさま! 速いです! あ、あの!」
フェリシアをほとんど引きずるような速度になっているのにカミルは気付かない。心が逸る。踊る。何かに急き立てられるように先を目指した。
山頂近くでカミルはようやく足を止めた。後ろからぜいぜいと苦しそうな呼吸音がしている。かなり無理をさせてしまったようだ。
「し、死ぬかと、思った……」
周囲の樹木はなぎ倒されていた。下草の一部が焦げ、細く煙を上げている。その中央に薄い緑色の鱗を持つ竜が鎮座していた。瞳はほの暗い赤。炎のようにちらちらと揺れている。竜の首の前には濃茶の毛皮のおそらくかつては熊であったであろう大型の獣が倒れていた。むせ返るほどの血の匂いが辺りに充満している。
「ちょうど食餌中、と。犠牲者は熊かな」
肉を噛み千切り咀嚼する濡れた音が響く。時折ばきりと硬い音がするのは骨を噛み砕いているのか。長い尾が喜びを表すように地面を何度も叩き、その都度もうもうと土埃が巻き上がる。
引っ張られる感覚がして視線を後ろに投げると、カミルの袖口を小さな手が掴んでいた。白い指先が小刻みに震えている。フェリシアは視線に気づくとぱっと手を放し、恥じるように頬を染めた。
「……あ、ご、ごめんなさい」
「怖いですか?」
「初めて、見ます……すぐ降りて知らせないと」
声も幾分震えている。
「何、あれなら狩れますよ」
カミルは安心させるように軽く答えると、再び竜を見据えた。熊であったものはもう大部分が血に塗れて原型を留めていない。竜は食餌に夢中でこちらに気付いた様子もなかった。
「大きさからいって仔竜ではないがまだ若い竜でしょう。鱗の色の薄さを見るに脱皮してからそれほど経っていない。このまま食餌が終わるのを待てば一番狩りやすい状態になります」
「で、でも、竜ですよ!?」
「大丈夫です。私は以前にも狩ったことがあります、あれより大きいのを。竜が生きている限り他の何かが襲ってくることはないでしょうが、身を隠しておとなしく待っていてくださいね」
「カミルさま!?」
フェリシアの悲鳴のような声を振り切ると、カミルは大地を蹴った。魔竜の足元まで一足飛びに駆け抜ける。駆けながら剣を抜き下段から斬り上げた。
刃は黄金色の軌跡を描き、竜の長い尾を根元から切断した。
バランスを崩した竜がもんどりうって頭から転がる。怒りの咆哮を上げ立ち上がろうとしたところに爆発音。炎の魔術が被膜のような翼を焦がし空への逃避を封じた。
カミルの身体がふっと沈む。両の後ろ脚から鮮血が迸った。続いて前脚からも。
苦痛の悲鳴を上げる竜を前に、踊るように剣を振るうカミルは。
嗤っていた。愉悦に顔を歪めて嗤っていた。
その瞳は、暁の朱の色。
楽しい。愉しい。たのしい。
こんなに愉しいのは久しぶりだ。充たされる。
もっと血を流せ。もっと苦痛に悶えろ。もっと。もっと。
だが愉悦の時間はそう長くは続かなかった。少しずつ動きを封じながらも致命傷は与えない。そうする余裕があるくらい、相手は弱かった。
竜が弱いはずはないのだ。楽に狩れるといった仔竜でさえ、中堅どころの傭兵には脅威である。ましてや成竜ともなれば、何人もの犠牲を出してようやく討伐するような存在だ。
高揚感が急速に萎んでいく。弱々しく吼えながら最後の足掻きとばかりに開いた竜の口に、カミルは無造作に火球を叩き込んだ。
ほの暗い赤の瞳が輝きを失う。竜は断末魔の悲鳴を上げることもなく息絶えた。
剣を軽く振って血の滴を払う。たったそれだけの動作で、オリハルコンは元の輝きを取り戻した。この分なら刃こぼれもしていないだろう。
なんて、弱いのか。こんなにも、弱いのか。
「カミルさま……」
「終わりました」
掛けられた声に振り返ると、近づいてきたフェリシアがびくりと肩を震わせた。
「あの、カミルさま、目が」
指摘に一歩後退る。顔を背け瞼を下ろした。二度、三度と浅く呼吸を繰り返し、再び目を開ける。元に戻ったかどうかは確かめられない。
「……竜は素材の宝庫なので少し剥ぎ取ってもいいですか?」
何事もなかったように話しかけるとフェリシアは忙しなく瞬いた。
「え? ええ」
「しばらく警戒をお願いしますね」
フェリシアがおろおろと周囲を見回すのを尻目に、カミルは竜の死体に歩み寄った。鱗を何枚か剥がし、顎の下にある逆鱗を切り取る。爪を片手分、牙も数本だけ。時間がないのが惜しい。竜は血の一滴に至るまで使えるのに。可能ならば身体ごと持ち帰りたいくらいだ。しかし、突然現れた強者が倒されたとわかれば――そして野生の獣というのはそういう気配に敏感だ――死肉を漁りに必ず集まってくる。
カミルの感覚は今日一番研ぎ澄まされていた。剥ぎ取りながらもその索敵網の端に何かを捉えたとき、フェリシアの悲鳴のような警告があがった。
「カミルさま、何かの群れが近づいてきます!」
「わかりました。失礼」
カミルは素早くフェリシアの側まで戻ると、小柄な身体を軽々と抱き肩に担ぎ上げた。予想通り軽い。
「ひゃっ!?」
「急ぎますのですみません」
急いでいなければ意外とむっちりとした太ももの感触を確かめたかったのだが。
木々の間に無数の赤い光が見えている。カミルが大地を蹴って走り出すと同時に、それらが一斉に躍り出た。魔狼の群れ。ひとつではなく、恐らく複数の。飢えを隠そうともせず、開いた大きな口からは涎が垂れている。魔狼は去っていくふたりには見向きもせずに竜の死体に次々と飛びついた。
カミルはぎりぎり竜を視界に納めることができる距離まで離れると、一旦立ち止まり術式を起動した。轟音と共に竜の死体から火柱があがる。巻き込まれた魔狼の悲痛な叫び声が響く。
「えええ!?」
「屑魔石を火種にしていますが、あとは死体に残った魔力が尽きるまで燃え続けます。竜の血肉は魔性にとってはごちそうですからね。灰になるまで燃やしてしまわなければ」
「そ、そうなん、痛っ」
「黙って、舌を噛みますよ。このまま一ノ峰まで駆け下りますから、少しだけ辛抱してください」
肩に担いだ身体は負荷にもならないほど軽いのだが、フェリシアは恐ろしい速度で遠ざかる景色におびえたのか、なんとか捕まるところを探そうともぞもぞ動いている。カミルとしてはそのまま頭を下げていてもらいたいのだが、そうすると血が上るのでつらいのだろう。腕を突っ張られると柔らかな胸の感触が遠ざかるのでつまらない。小脇に抱えるのはさすがに厳しいので、前へ――フェリシアにとっては後ろへ――引っ張り、腕に座らせる形に抱き変えた。首にしなやかな腕が絡みつく。
「ちょ、こ、れ、は」
走る速度は落とさない。揺れるたびにフェリシアが悲鳴を上げてすがり付いてくる。顔がとても近くて、どこもかしこもすべすべしていると余計なことにも気付かされる。余計だが、とても大切なことに。
「か、みる、さま、あの、お、おも」
「重くないですよ。大丈夫」
フェリシアが小柄でよかった。そうでなければこんな楽しいことはできなかった。
そうだ、とても楽しい。あの竜を斬ることよりも、ずっと。
カミルは声を出して笑った。笑いながら走る姿にフェリシアが引いていると気付いていても、止まらなかった。