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 一夜明け、ようやく二ノ峰に足を踏み入れることになった。一ノ峰の時と違ってここから登り口というほどはっきりしたものはないのだが、比較的斜面の緩いあたりに人や獣の通った跡がうっすら残っている。


 歩き始めたフェリシアが唐突に背を伸ばした。大きな目をさらに開き、緊張の面持ちで周囲を見回す。


「どうしました?」

「……静かすぎます」


 渦巻く風の音、木の葉擦れ。しかしそれ以外の、およそ生命と呼べるものすべての音が絶えている。風が止むととたんに静寂が襲ってきて、逆に耳鳴りがするくらいだ。


「本来はもっと騒がしいというか、監視されているような感覚があるのですが……」

「昨日一ノ峰で感じたような?」

「あれよりもっと敵意に溢れています。いつもは、ですが」


 感覚を研ぎ澄ませてみても何の気配も感じない。いや、いるにはいるのだが、どれも息を潜めてひっそりとしている。一ノ峰より魔素が濃いのはわかるが、まだ命に影響が出るほどではない。ただ、痛いほどの緊張感が周囲に満ちている。


「ともかく進みましょう。警戒しますので」

「はい、お願いします。逃げるのと隠れるのは本当に得意なので、もし何かが襲ってきてもわたしのことは特に気になさらなくて大丈夫です」

「わかりました」


 フェリシアは登り口の魔性避けの結界に異常がないことを確認すると歩き出した。相変わらずカミルにとっては不快だ。一ノ峰にあったものよりもさらに強い。逃げ出したくなる気持ちを無理やりねじ伏せて、フェリシアの後を追った。


 登り口は複数あると彼女は言う。そのすべてに魔性避けをかけてはいるが、一ノ峰と二ノ峰の境はただの谷でしかなく、出入りを完全に制限できるものではないそうだ。人は道を歩きたがるが、獣には関係ない。第一大地を駆ける獣ばかりというわけでもない。その気になれば簡単に越えられる。それでも結界があるというだけでなんとなく近寄らないものらしい。


「不思議なことに三ノ峰の登り口は一か所しかないんです。登り口そのものはそれなりの広さがありますが、周囲はやっぱり断崖絶壁で。だからそこにはすごく大きな魔石を使って、出来る限り強力な結界を張っています」

「三ノ峰に行かれたことは?」

「……入口だけですね。二ノ峰の奥、一番高い尾根を越えて下りに入ったあたりから急激に魔素が濃くなります。月に一度、結界を張り直す以外はほとんど行きません」


 なんとなく何者かの意志を感じる。山の向こうからか、あるいはこちらからか、明らかに出入りを制限しようとしている。そういう意味では、管理下に置いて無闇な立ち入りを禁じている辺境伯の方針は正しいのだろう。


「太古、神々はこの地を世界の果てと定められた。世界が狭まることを嫌った巨人は神々に戦いを挑み、山を越えようとした……」


 フェリシアが囁くように神話を語る。北の地に伝わる素朴な神話だ。山越えに挑む巨人に怒った神々は壁を立て、さらに山を高く連ねて侵攻を阻む。その繰り返しでこの山脈ができたのだと。


 この地形を作り上げた者が何者であっても、それがたとえ神と呼ばれるものであったとしても、もうこの世界に対する興味を失っているのではないかと思う。カミルは神など信じない。少なくとも聖教会の説く神は。戦いの中で神に縋る者は少なくないが、逆に見限る者もいる。カミルは後者だった。神は人を救ってはくれない。もし神が人を救うなら、カミルはきっとあんな地獄を味わいはしなかった。


「フェリシアさんは神を信じているのですか?」

「……考えたこともありませんでした。村には神殿もありませんし……」

「辺境伯は聖教会とは距離を置いていらっしゃるようですしね。神殿、あったかな」

「ヴォルフスブルクにはあると聞きました。行ったことはありませんけど」


 聖教会は上古の魔導文明が滅びた後に建国された神聖王国の流れを組む。万物の創造主を唯一の神として信仰し、人は神の愛し子であり、すべての恵みは神の慈愛と説いた。大陸南のほうでは広い地域で信仰されているが、それはかつての神聖王国が興った地域だからだ。大陸北にも支配は及んでいたが、現在それほどの影響力はない。北は神聖王国衰退の原因となった北方帝国――帝国を名乗った王朝は歴史上ひとつしか存在しないが、後の統一帝国と区別するためそう呼ばれていた――の初代皇帝が世に出た土地であり、古くから土着信仰が盛んだった。フェリシアの語った神話もそうだ。謳われる『神々』は、聖教会のいう神とは異なる。聖教会はひとつの神しか認めないから『神々』などとは言わない。それに聖教会は『神話』を語らない。彼らが語るのは『経典』である。


 聖教会はとにかく煩い。特に復古派と呼ばれる神聖王国再建を目指す一派は何にでも口を突っ込んでくる。おまけにそれが多数派だ。すべてを神の思し召しで片付けるものだから、下手に楯突くよりは適当に隠れてやり過ごしたほうが楽だったりもする。群れれば権力を持ちたがるのもお約束で、南ではいくつかの国が『神聖国』やら『神国』やらを名乗っているらしい。


 だが人は戦乱を経験した。神にどれほど祈っても救われないことを知ってしまった。魔素が大陸を覆い、魔性は溢れ、人の住まう土地は縮小している。復古派の言い分では、神聖王国は魔素を浄化し魔性を産まなかったというが眉唾だ。魔素が浄化されて薄れてしまえば当然魔術は使えなくなる。魔術に関する研究は途絶え、今に伝わることはなかっただろう。それにそんなことができるなら、まず彼らはこの大陸中央部を浄化して魔素から解放すればいいのだ。そこに、かつての神聖王国の都があったのだから。


「仮に神がいらっしゃるとしても、聖教会のおっしゃるような悪を罰し衆生をお救いくださる方ではないと思うのです。もっと冷徹で冷酷な、観察者のような……。わたしは森と山で生きてきました。ここは破望山脈。望みの破れる山、魔性の領域。わたしは……ローボのような魔性と共存していますが、それで神罰が下ったことはありません」


 聖教会とそれが祀る神にとって魔性とは明確な敵である。もしフェリシアに神罰が下るなら、カミルなどとっくに生きてはいないだろう。


「……変なことを聞いてしまいました。すみません」

 他人の信仰に立ち入るべきではなかったのに、つい聞いてしまった。


「いえ、気になさらないでください。それより……ローボを斬らないでいてくれてありがとうございます」


 フェリシアが晴れやかに笑った。その顔に見惚れてしまう。ほころんだ唇が艶やかで美しかった。



 それからはふたりともしばらく無言だった。尾根筋に向かって斜面を登っていく。魔素の影響によるものなのか一ノ峰以上に捩れた樹木が多いのだが、こちらは緑というよりは灰色に近い葉がたくさん繁っていて鬱蒼としていた。日の光も届きづらく全体的に薄暗い。大気が冷えているのは標高によるものだけではないだろう。

 時折フェリシアが立ち止まり周囲を確認するそぶりを見せる。何度か首を捻ってはまた歩き出すということを繰り返した。


「いつもこんなに何も出ないということはないですよね?」

「勿論です。普段ならもっと姿隠しや音消しを使っています」

「……それだけ自在に魔術を使えるなら戦えるのではないでしょうか」


 音消しはともかくとして、姿隠しは術者自身の姿を周囲に溶け込ませ相手の目をくらます術で、かなりの集中力を必要とする。少しでも乱れれば効果を発揮しないのだ。それを頻繁に使っているのなら、魔術にはかなり熟達しているはずだ。勿論大規模な術式では詠唱も複雑になるから、魔性に面と向かっている最中に悠長に唱えることなど出来はしないだろうが、火球をぶつけたり氷柱で刺し貫いたりする程度であれば逃げながらでも可能だろう。

 カミルの疑問に、フェリシアは少し気まずそうに視線を逸らした。


「……当たらないんです」

「え」

「炎や風を手の上で操ることはできます。でも、不器用で、当たらないんです」

「……嘘」

「嘘ではありません! 本当に当たらないんです。自分でもなんでこんなに狙いが悪いのか……剣だって自分を傷つけてしまいそうになるし、槍なんか振り回せないし、弓もたくさん練習したんですけど前に飛ばすのが精いっぱいで……わ、笑わないでください……」

「……失礼……いやすみません、本当に、くく……」


 上手く当てられないというのならおそらくだが射出系が苦手なのだろう。カミルは基本的に何でもできるし、誰かに教えたこともないからそういう者がいるとは思い当たらなかった。確かに魔性避けの結界は接触で張るものだし、音消しも姿隠しも対象は自身だ。案外相手に接触してかけるものであれば上手くいきそうだが。


「まず近寄れません……」

「……それもそうですね」

 前提からして無理だったようだ。


「と、とにかく。戦うことは無理ですが、隠れること、息を潜めてやり過ごすこと、この二つだけは父に徹底して仕込まれました。だからひとりなら本当に大丈夫なんです。でも採取の間は無防備になってしまいますので」


 フェリシアの顔が赤い。恥らう様子もとてもいい。

 この娘は、なんて美味しそう(・・・・・)なのだろう。


「この少し先に確か月光草の群生地があったはずです。今はいい時期ですから行ってみましょう」

 カミルは踵を返すフェリシアの、耳まで赤いことに気付いてしまった。本当に、どれだけ惑わせれば気が済むのだろうか。


 美味しそうで、とても美味しそうで、はやく、食べてしまいたい(・・・・・・・・)――。

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