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さほど時間をおかずにフェリシアが再び家の中から現れた。深緑色をした厚手の袖のない外套を羽織り、小さく纏められた荷物を背負っている。腰には不釣合いな鉈と小さな円匙。どれも古びて使い込まれているように見える。他にもこまごまとした装備が増えていたが、カミルはそれを観察する余裕もなく視線を逸らした。肩に食い込む荷物のせいで服が引っ張られ、胸が強調されるのだ。歩き始めれば背中を追うことになるから問題ないのだが。
「カミルさま、月光草はどれくらいご入用ですか?」
「二株もあれば」
「わかりました」
フェリシアは頷いて、扉脇の戸棚の中から何枚かの頭陀袋を装備に追加した。
「では参りましょう」
テラスを下り、森へ入る。背の高い白樺や松の合間をするすると抜けていく。今日はほぼ歩き通しだが疲れはまったくない。ヴォルフスブルクの街中を歩くほうがよほど疲れた。
暖かな木漏れ日や小鳥の囀り。足元を走り抜ける野鼠の小さな姿。黄金色に色づいた葉が時折はらはらと落ちてくる。いつしかカミルは森の風景を楽しむようになっていた。これから向かう先が魔性の棲み処であると聞いても、この長閑さは緊張感を奪う。
「カミルさまは他の傭兵の方とは少し違いますね。あの、皆さんもう少し荒々しくていらっしゃるから」
フェリシアが少し速度を落としカミルに並んだ。背の高さと同じく歩幅も違うのでかなり一生懸命歩いていたようだが、カミルが思った以上にゆったりとしているので合わせたのだろう。
「まあ、私は傭兵ではなくて……元ですが、今は錬金術師です」
「え!?」
驚きで丸い大きな瞳がさらに丸くなる。
「見えませんか?」
「え、でも鎧とか、あれ? あの、えと、その、すみません」
今のカミルは現役時代に使用していたのと同じ装備だ。服は上下とも黒、その上から皮革に黒竜の鱗を縫い付けた胴鎧を着込んでいる。腰には飾り気のない片手剣。飾り気はなくとも上古の遺跡から発掘されたというオリハルコン合金の業物だ。フェリシアと同じく袖のない暗褐色の外套を羽織り、一見すると軽装備の傭兵としか思えない。魔術の発動を補助する聖銀の指輪が唯一の魔術師らしさだろうが、ローブを着ているわけでもないから錬金術師という職業はすぐには出てこないだろう。ジギスムントに似非と言われて反発したが、言われても仕方がないかもしれない。
「まあ傭兵としては引退したばかりなので見えなくても仕方がないです」
「まあ、そのお年で引退を……? あ、不躾でしたね。失礼しました」
傭兵は脛に傷持つ輩も少なくはないから、詮索を嫌う。それに思い当たったのだろう、フェリシアは即座に謝罪した。
「いえ。三十年くらい戦い続けて、少し疲れたんです」
「三十年!?」
時々思うのだが、女性のこういった素っ頓狂な声というのはどこから出てくるのだろう。決して五月蝿くはないのだが、なんだか気になった。
「三十年です。今年三十八になりました。たぶん、貴女の二倍くらいは生きているかな」
「は、はい。え、ま、待ってください。三十八で三十年て」
「初陣、よく覚えてます。七歳ですね。そうすると三十一年か」
「な、七歳!?」
フェリシアの驚きは一々新鮮で面白い。
「両親も傭兵でね、自然とそのまま傭兵になりました。それ以外の生き方を知らなかったとも言いますが。母は魔術師だったのですが、元はどこぞのお嬢様だったようで礼儀作法も叩き込まれました。生き残るための手札のひとつとして。この言葉づかいはその名残ですね」
これまで深く考えたこともなかったが、さすがに初陣が七歳というのは異常だと思う。両親ともに、カミルを置いて戦いに行くという考えはなかったようで、物心ついたときには既に戦場にいた。
初陣については無我夢中でほとんど覚えていないと言いたいところだが、実のところかなり鮮明に記憶がある。父親に小振りの短剣――大人の手には短剣だが、子供には十分すぎるほど大きかった――を持たされ、とにかくそこにいろと放置され、気づけば目の前には薄汚れ錯乱した男が何かを振り上げて迫っていた。
ごく自然に刃を立て、全身でぶつかった。刺したのは相手の太ももだ。何しろそれより上には届かなかった。苦悶の呻きを聞いた、と思った次の瞬間には、生温かく鉄錆の臭いのする赤を頭から被っていた。いつの間にかカミルの後ろについていた誰かが相手の首を刎ねたのだ。確か戦闘が終わって戻ってきた父親に頭を撫でられて、次はもっと上手くやれと発破をかけられた。やはりどう考えても異常だ。
その二年後には初めてひとりで人を殺した。その時は刃だけではなく、母から手ほどきを受けた炎の魔術も使った。傷口を開くように短剣で抉り、刃先から炎を出した。内側から燃えていく人間の臭いは不快で、耐えきれないほど不快で――どうしようもなく、興奮した。
思えばあの頃から、カミルは少し壊れていたのかもしれない。
「フェリシアさんは森番としては長いのですか。正直女性とは思っておらず驚いておりまして」
「昨年父が亡くなってからです。それまでも一緒に山をめぐっておりましたけれど。父は元騎士でして、自ら剣を取ることができました。わたしはそのあたりが不器用で……逃げることと隠れることは得意なのですが。あ、見えてきました」
「……これは……」
森が途切れ、目の前の光景に言葉を失う。山というのはこんなにも唐突に現れるものだっただろうか。巨大な一枚岩を無造作に置いたようにも見える。切り立った崖が壁のように続き、左右どちらも先が見えない。森が途切れたというより、壁によって遮られたといったほうが正しいかもしれない。上に視線を転じれば、頂上は雲の中に隠れていた。
その崖に一か所だけ切れ込みがあった。フェリシアが手を挙げてそこを指差す。
「あそこが登り口になります。不思議な地形でしょう? 神話の時代、神々が築いた壁を巨人が斬ろうとした跡だと言われています」
そんな神話にも納得できるような地形だった。崩れているのではなく、割れているというか、鋭い刃を入れ引き抜いたというのが一番的確な表現だ。芋か何かに切れ味のよい厚手のナイフを入れたらこんな切り口になりそうだ。奥に向かってなだらかな坂が続いているが、これほどはっきり見えるのに気を抜くと何故か見失いそうになる。
「ちゃんと着いてきてくださいね。登り口には魔性避けをしてあるのですが、実は人避けもかかっているんです。知らず知らずに迷い込んだりしないように。しっかり意識していれば無視できる程度のものですけど」
「一ノ峰への出入りはここだけですか?」
「わたしが知る限りではそうです」
先導するフェリシアに従って隘路に足を踏み入れる。確かにしっかりと気を持っていれば入り口を見失うことはなかった。ただ非常に、不快だった。肺腑を握りつぶすように不安を掻き立てられ、内面が酷くざわめいてここに在ることを全力で拒絶する。フェリシアが平然としているのは術者だからなのか。登り口を抜ければその感覚は消えたので範囲は広くないようだが、かなり強力な魔術がかけられていると感じた。
「崖というか壁ですね……迫ってくるみたいだ」
奥は真っ暗だ。見上げれば黒々とした天井に一本の白い線が引かれているように見える。切り込み自体は上にいくにつれて徐々に広くなってはいるようだが、そこからの光は当然下まで届かない。フェリシアが小さな覆い付きのランプを掲げ周囲を照らした。
足元は細かい砂が踏み固められたようになっていた。岩肌も思ったよりつるつるしており崩れてくる心配はなさそうだが、揺らめく灯火の作り出す陰影も相俟ってとにかく圧迫感が酷い。手を左右に広げれば両の壁に指先が届いてしまう。その壁が頭上はるか彼方まで続いていた。ふとした瞬間にこれが閉じて挟まれてしまうのではないか、そんな気もする。
顎門だ。
これは、不用意に侵入した不埒者を捕え無慈悲に噛み砕く、大地の顎門だ。
奥に向かって真っ直ぐに伸びる坂道は、はじめは緩やかだった。フェリシアの小さな背中を追いながら、周囲を眺める余裕もあった。その背がふいに右へと逸れる。
「この先、少し滑りやすいのでお気を付け下さいね」
岩壁をくりぬいた洞穴に、人の手で削りだされたと見える急勾配の階段が続いていた。洞穴の高さはカミルが屈まずに済むくらいはあり、幅はやはり人ひとり分程度。段差がきつく小柄なフェリシアには辛そうだが、ふっふっと規則正しい呼吸と共に危なげない足取りで登っていく。あのまま切り込みを真っ直ぐに進んでいくと行き止まりになるのだと彼女は言った。山そのものとこの岩壁は別のもののようにも感じるのだが、登りきってしまうと山と岩の境目はもうわからないのだそうだ。どちらにせよこの岩壁自体も山脈の一部ではある。
意外にも洞穴の中は明るかった。天井や壁のいたるところがぼんやりと光っている。明かりの魔術がかかっているようだ。しかもよく見ると、かかっている場所は周囲の壁と明らかに材質が異なる。
「魔石……?」
思わず口に出すとフェリシアが振り向いて微笑んだ。
「そうです。ここは魔石の鉱脈でもあるんです。この辺は小さな屑石ばかりですが二ノ峰の奥まで行くともっと大きいものがたくさん取れますよ。掘るのは禁止されていますので、わたしも落ちているものを拾うくらいですけど」
「それだけ魔素が濃いんですね」
魔石は地中に閉じ込められた魔素が長い時間をかけて結晶化してできると言われている。比較的小さいものなら入手もしやすいが、大きいものほど貴重になる。握り拳程度の大きさのもので城が建つと言われているし、鉱脈はたいてい魔素が濃い所にあるので掘り出すのも命掛けだ。魔性化した獣の肝などから出てくることもあるが、それらは小粒なものだ。石自体が魔力を帯びるので、術式を刻んでおけば魔術師でなくても起動できる。明かりの魔術自体は触媒になるものがなんであってもかかるのだが、魔石を触媒に使うことで効果が持続するのだ。
「これ、フェリシアさんがかけたんですか?」
「いいえ、昔からですね。ここに埋まっている限り、ほぼ永続しているといっていいでしょう。時々切れているものもありますけど、時間が経てばまた魔素が溜まって光るようになります」
ここにある魔石は小さいものであれば砂粒ほど。大きいものでも小指の爪程度の大きさしかない。魔力が尽きるのも早いが、常時濃い魔素に晒されている状態だから溜まるのも早いのだろう。
「ここは誰かが作ったんですよね?」
「おそらく。わたしもよく知らないのですがずっと昔からあるそうです」
「とんでもない労力ですね……どうやって削ったんだろう」
階段は真っ直ぐではなく途中で何度か折れ曲がっている。万が一転んだ時に下まで落ちて行かないようにという配慮だろうが、少しでも削りやすいところを選んだ結果かもしれない。閉じた環境だけに風化もしていないが、いつ頃のものなのか、何かの道具を使ったのか、カミルには見当もつかない。上古の時代には今よりもっと大規模で強力な魔術が飛び交い、山を削り海を割ったともいうから、魔術によるものかもしれない。
登っていくうちに壁が変化してきた。岩ではなく土に近い。このあたりは壁の魔石も自然のものではなく、後から埋め込んだもののようだ。ちらほらと大きいものが目に付くようになってきた。
「もうすぐ、です。出ると突然尾根の上ですよ」
フェリシアの言葉を受けて前方を見上げると、四角く切り取られたような出口が見えた。階段を上っていくにつれ、光を強く感じる。カミルは思わず目の上に手を翳した。
「おお……」
出口は北向きの斜面に開いていた。崩れないよう石を組んで補強してある。いきなり斜面に転げ落ちないようにか大きな一枚岩が足場として設えられており、カミルはその上に立って周囲を見渡した。ちょうど尾根を越えたあたりに出たようだが、地面から垂直に立ち上がった壁の頂点を尾根と呼んでいいのかどうかはわからなかった。
まばらに生えた樹木はどれも捩れて尖っている。奇妙な形で葉はついていないが枯れているわけではなさそうだ。足元は細かい砂礫、その隙間を縫うように下草が逞しく顔をだしていた。寒いというほどではないが空気はひんやりとしており、唸るような音を立てて風が吹き抜ける。木と土の臭いに何かの腐敗臭が混ざる。鳥の声はかすかだが、虫が鳴いているのはわかった。また、いくつかの気配がこちらを窺っている。ただの野生の獣か、もしくは魔性にしてもそう強い個体ではない。ぴりぴりとした恐怖と警戒心が伝わってくる。
予想よりは生命力に溢れている。恵みをもたらすというのだから当然禿山ではないはずだが、破望山脈という名前から受ける印象はもっと荒涼としたものだったのだ。
「あちらが」
フェリシアが左手で西側を指す。緩やかな登りが続き、木はさらにまばらになっていた。その向こうに太陽がゆっくりと沈んでいく。
「この一ノ峰の頂上になります。今日は必要ないので行きませんが、見晴らしはとてもいいんですよ。晴れた日なら遠くにレーベン湖がきらきらしているのが見えます」
だいたいいつも霞んでいますけどねと続けると、フェリシアは背中の荷物を揺すって位置を整え、慎重に斜面を下り始めた。特に道らしきものがあるわけではないのだが足取りに迷いはない。カミルもその後に続こうとしたとき、背後から強烈な殺気を感じた。
「フェリシアさん!」
警告の声を上げ振り返る。何もいない。肌を刺すような殺気だけが漂う。
腰に下げた剣の柄に手をかけ、膝を軽く落としていつでも抜けるよう姿勢をとる。
遠くから黒い何かが凄まじい速度で走ってくるのが見えた。赤い双眸がひたとカミルに据えられている。と思った次の瞬間、それが勢いよく正面に躍り出た。
「ローボ!」
「!?」
剣は抜けなかった。抜こうとしたが、鋭い声がそれを止めた。黒い何かはカミルに襲い掛かったりはせず、見事な跳躍であっさり飛び越えてしまう。
「……もう……だめよ、ローボ……」
後ろを振り返ると、呆れたような、諦めたような声でフェリシアが呟き項垂れていた。その腹部に、黒い何かが頭をこすり付けている。
黒い毛皮をもった大きな狼だった。瞳は赤く爛々と輝いている。甘えるように幾度も額をこすり付け、撫でろと命じているようでもあった。
「もう……あの、大丈夫です、この子おとなしいので……」
「……魔狼ですよね……?」
赤い瞳は魔性の証。元がどんな色であれ、魔素に侵されたものは、濃さや色合いに若干の違いはあれど瞳が赤くなる。この狼の目は血のような赤だった。首を斬ったときに噴出す鮮血の色に似ている。カミルが七歳で初めて浴びたあの赤だ。
「はい、本当はいけないんですけど……子供の頃に助けてしまって……。もう、いつもは無視するくせにどうして今日に限って出てくるの」
フェリシアはローボと呼ばれた狼の頭を手で押さえ何度も引き離そうとするが、狼のほうが力が強いのだろう、上手くいっていなかった。おまけに差し出した手をべろりと舐められて愛らしい悲鳴を上げている。
「信じられない。魔狼が懐くなんて」
野生の狼は人に懐かない。ましてや魔性が懐くなど考えられなかった。媚を売ることで相手の油断を招くということも考えられないではないが、そもそもフェリシアはか弱い女性であり、どう見ても魔狼よりは弱いだろう。そんなことをする理由がない。
「二ノ峰の登り口で倒れていたんです。内臓がひどく損傷していて、それで、つい。たぶん二ノ峰の群れから独り立ちした後、何かに襲われて逃げてきたんでしょう。だめよローボ、あっち行って。二ノ峰まで行くのよ。お前は行かないでしょう?」
「……悪さをしないならこのまま行きましょう」
ローボはしきりにフェリシアの匂いを嗅ぎ、足の周りをぐるぐると回っている。絶対に離れないと訴えているようだった。時折カミルを見上げフンと鼻を鳴らす。よりによって畜生に、あからさまに馬鹿にされて思わず顔を顰めた。魔狼は知恵が回る。どうやら感情も豊かなようだ。カミルより自分のほうがフェリシアに近いのだと、そう言っているのだ。
「すみません。野営地には魔性避けがあるので、たぶんそこで別れることになります」
フェリシアはローボを引き離すことを完全に諦めたようだ。ひとつため息をついて歩き出す。ローボはたまに先導するように、あるいは何かを警戒するように前に出てはすぐに戻ってくる。そして彼女の太ももに身体を擦り付けた。
ふと、これは、マーキングなのではと思い当たった。
「それにしても、狼とは……いえ、すみません」
クスリと笑いをこぼすとフェリシアは恥ずかしそうに頬を染める。
「ご存じでしたか」
「ええ、西の国の言葉ですね。私の主戦場はあちらに近かったので」
「助けるのはまだしも名前だけは絶対につけてはいけないと父に叱られて。だったら狼と呼べばいいでしょうって。そんなわけないのに」
フェリシアが歩きながらローボの頭を撫でている。いくら人に親しくしているとはいえ野生の狼だ。その毛皮は硬いのだろうが、手つきはどこまでも優しく、無理に梳るようなことはしていない。カミルも触れてみたくなった。いや、触れられたくなった。決して、ローボの毛皮にではなく。
「さすがに餌を与えたりはしないんですね」
「この子は自分で狩りができます。一ノ峰では敵知らずですね」
「二ノ峰には魔狼以外に何がでるのでしょう。魔熊もいると聞きました」
「そうですね……月光草が咲くあたりは縄張りから外れていますが魔猿の群れもいます。あといくつか沢が流れていてその近くには小鬼が集落のようなものを作って棲んでいるはずです。小鬼は群れるので避けて出会わないようにしているのですが……見かけると時々気の毒になります」
フェリシアは少し沈痛な表情を作った。
「気の毒?」
「はい。弱い個体は奴隷のように扱われます。魔性化しておらず呼吸もままならないのに、同族に追い立てられて……実は一ノ峰の窪地にも棲んでいるのですが、そちらは私にも怯えるくらいの弱い集団なんです」
外見が醜悪な小鬼は魔性でなくても嫌われ者だ。身体が小さく基本的にはあちらから人を避ける傾向にあるのだが、繁殖力が旺盛で気づけばあっという間に増えている。運悪く集落の側に棲みつかれると農作物や家畜に被害が出るため、農夫にすら積極的に追い散らされる。確かに気の毒といえば気の毒になる種族である。
「放っておいて大丈夫なんですか? 増えたりは」
「……ここではそんなに増えません。生まれたら生まれた分だけ、死んでいきます……何かに食べられて」
魔性の領域は残酷なまでに弱肉強食なのだ。
「今までに二ノ峰で見た一番大きい魔性は人面獅子でしたが……こういうものは滅多に出てこないですね」
人面獅子はただの獣ではない。元は幻獣と呼ばれる。何故そのような分類になっているのかは知らないが、ともかく古の研究者たちがそのように名前をつけた。顔は老人、身体は獅子、蝙蝠の翼を持ち、尾は蠍に似ている。上古の時代、錬金術師たちがこぞって行っていた合成実験により生まれたとも言われているが、残念ながら現在にはそれを裏付けるような資料は伝わっていない。仮に生まれはそうであっても今は普通に繁殖して生まれてくるのだから、野生といっても過言ではないだろうが。
幻獣の多くは元々知性を持っている。特に人面獅子は頭が人間だからか、人と意思の疎通ができたはずだ。しかし、狡賢く性根は悪と断じてもいいくらい捻じ曲がっているので、魔性に堕ちたものがどう振舞うか想像に難くない。
「その人面獅子はどうしたんですか?」
「父が。わたしが見たのは、実は死体でした。父が戻ってこないと思って迎えにいったら、そうなっていて」
「お強い方だったのですね」
「そうみたいです……わたしには厳しくも尊敬できる人でした」
魔性化した人面獅子と一対一でやりあえるならそこらの傭兵よりよほど強い。元騎士だというなら二十年前の戦争の最前線で生き延びた者かもしれない。もしかしたら、顔見知りだった可能性もある。
斜面を下りきり谷間に辿り着いた。日はもう山の端に隠れてしまい、辺りは薄闇に包まれている。フェリシアがもう一度魔狼に言い聞かせるようにするが、それでもローボは離れない。外套を噛んだり手首を甘噛みしたりして引き止めているようにも見える。
「ローボ、もう本当にだめよ、行きなさい」
おそらく怖い顔を作ったつもりの表情で重ねて繰り返すと、ローボは渋々といった体で離れていった。
「そちらで野営をします」
フェリシアが指した先は斜面が削り取られていて、間口の広い洞穴になっていた。奥に薪にするのだろう木の枝が積まれており、実際に火を起こした跡もある。入り口自体は谷間より少々高い位置にあり、水が流れ込むのを防ぐためだろう、奥に行くにつれてほんのわずかだが上りの傾斜になっていた。
一ノ峰登り口のような不快感を警戒して、入るのに躊躇う。実際に足を出せば、それほど強くはなかったが、それでも嫌な気分になる程度には拒絶の感情がわき上がった。
カミルの逡巡を見て取ったフェリシアが不思議そうに話しかけてくる。
「カミルさま、どうされました?」
「あ、いえ」
カミルは視線を逸らす。そして背筋を震わせた。
木立の間から、ローボが燃えるような瞳でこちらを見据えている。四肢を突っ張り、今にも飛び掛かろうという姿勢でカミルを睨みつけていた。
魔狼は気付いている。カミルが抱えるあの空白に。だからこそこんなにも警戒しているのだ。
ローボに向かって唇だけを動かす。伝わったかどうかはどうでもいい。カミル自身に言い聞かせるものでもあったから。
大丈夫、我慢できる、と。