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ヴォルフスブルクはエーデルシュタイン辺境伯領の領都であり、大陸北東部でも随一の大都市だ。豊かな水を湛えた北部の重要な水源であるレーベン湖の東岸に築かれた、歴史ある城塞都市である。実のところ、ヴォルフスブルクが領都になったのはここ二十年足らずのことである。しかしそれ以前から、北方辺境の陸路と水路が交わる要所として栄えていた。
そしてその歴史ゆえに内部の構造は複雑怪奇の一言で、一応大通りらしきものが東西に走っているものの全体的には迷路のような造りになっていた。市壁は二重になっていて、内側は旧市街と呼ばれ領主や役人、古くからの住民が住まう土地。意外にもこちらのほうがまだ解りやすい。外側は後から拡張された部分で新市街。自然発生した民家が所狭しと建ち並び、とにかくごちゃごちゃとしていた。最近は外側の市壁のさらに外にまで民家が出来始めている。遠からず、市壁は三重になるかもしれない。
カミルはヴォルフスブルクの新市街に住んで半年になる。行きつけの酒場、食材や日用品を買い付ける市場、街道へと続く東街門。迷わずまっすぐ行けるようになったのはその三ヶ所だけで、後は常に一旦大通りに出て、行きつ戻りつしながらなんとか辿り着くような有様だった。自分はいつから方向音痴になったのかと疑いたくなる。住み着く以前、旅暮らしの間にも何度か訪れているのだが、宿も酒場も大通りの周囲に固まっているからなんとでもなった。旅人には優しい都市なのだ。住民にはすこぶる厳しいが、この街に生まれ育った者には当たり前の光景だから、今さら文句もないのだろう。
この日も何度も道を間違えながらようやく目的の建物の入り口までやってきた。扉に掲げられた紋章は盾に交差する剣と杖、狼の横顔。ヴォルフスブルク傭兵組合の紋章だった。
「なんだってこんな複雑なんだ……」
扉に手をついてがっくりと肩を落とす。身体はたいして疲れていないのだが、心が折れそうだった。訪れるのは別に初めてではないのに、道が複雑すぎて覚えられない。
空を飛んで行こうかと何回も考えた。そんなことをしたらすぐに衛兵を呼ばれそうな気もするが、道が複雑なのが悪い。都市を造成したのは何代も前の領主で、その後の拡張に次ぐ拡張の結果こうなったのだろうが、少しは計画性を持てと言いたい。力いっぱい言いたい。またここが、東街門から来ると意外とわかりやすい場所にある、というのがさらに神経を逆なでする。こんなことなら東街門まで一旦出てから来ればよかった。
うんざりしながら扉を押し開ける。何種類かの材木を重ねて作られたその扉はとにかく厚く重い。
こんちくしょうめ。
心の中で悪態をついて傭兵組合の建物に入った。
中には屈強な男が数人いて、皆思い思いに過ごしていた。談笑している者、壁に貼られた羊皮紙を熱心に読んでいる者。それぞれの装備に統一感はないがむさくるしさだけは一致している。
カミルに気づいた者は目を瞠り、次いで軽く頭を下げた。憧憬と尊敬とわずかに畏怖の混じった視線。相手は自分を知っているのに自分は相手を知らないというのはあまりいい気分ではないが、仕方がないと諦めている。
傭兵組合はその名の通り傭兵たちの互助組織だ。戦争の時代であればいくつもの傭兵団が所属し、互いに情報交換をしながら各地を転戦していた。金さえ払えば誰にでも雇われると思われがちだが、内情はそんなに簡単なことではない。たいてい出身地というものがあるし、そこがよほど酷いところでなければ、皆それなりに故郷を思って行動するものである。自然、傭兵組合も国や地域に縛られる。
二十年前、諸侯会議を経て百年続いた大陸戦争の終結が宣言されてから、状況は徐々に変化していった。戦争屋として成り立たなくなった大規模な傭兵団は解散し、今は個人や少集団で続けている者が多い。隊商の護衛や各地に湧いた魔性の掃討など、むしろ傭兵としての活動の幅は広がったのかもしれない。
カミルは今年引退したばかりだが、二十年前までは傭兵団の一員として、その後は個人の魔性狩りとしてそれなりに名を知られた存在だった。
受付台に近づくと、つまらなそうに座っていた男が慌てて立ちあがった。
「カミルさん、すぐ! すぐ『隊長』来ますんで!」
そんなに気を使ってくれなくてもいい。うんざりが顔に出ているのかやたらと緊張される。別に取って食いはしないのに。
食べるならもっと柔らかくて美味しそうな、若い女のほうがいいに決まっている。出来れば肉感的な美女がいい。大きな乳房に歯を立てたら、きっと愉しいだろう。
周囲の視線を受け流しながらぼんやりと壁の傷を眺めて待っていると、そう時間を置かずに奥から禿頭の大男が現れた。カミルも背が高いほうなのだが、それよりもっと大きい。ヴォルフスブルク傭兵組合の長、『隊長』ジギスムントだ。
「来たな、似非錬金術師」
「似非じゃありませんよ、歴とした、駆け出しの錬金術師です」
カミルはいかにも心外だというように眉を顰める。
ジギスムントは先の大陸戦争で名を馳せた傭兵で、男爵位を持つ貴族でもあった。当人は領地も持たない没落貧乏貴族に卿だの男爵だのは似合わないからと、周囲に『隊長』呼びを強制している。既に初老の域に入っているが、未だに現役を自称し鍛え上げた身体にも衰えは見えない。
カミルとも古い付き合いだ。戦場で何度も顔を合わせた。幸い敵同士になることは一度もなかったが。
「駆け出し、ねぇ……まあいいか。引退した傭兵の第二の人生としちゃ悪くない。稼げるかどうかは知らんがな」
「使う当てもなく貯め込んでいた資産を吐き出す毎日ですよ」
「ハッ、ずいぶんと優雅なことで。っと、ここじゃなんだ。奥に来い」
ジギスムントは肩をすくめると自分が出てきた扉を親指で示し顎をしゃくった。
傭兵組合の奥には商談のための小部屋がいくつか存在している。そのうちのひとつにカミルは通された。部屋は狭く窓も小さい。無骨な造りだが、余計な調度品が何もないのはいっそ好ましい。勧められるまま椅子に腰掛けるとジギスムントが口を開いた。
「前も言ったが、傭兵組合に来ねえか。人手不足でな」
「嫌ですね、これまで散々働いてきたんです。自堕落な生活がしたい」
「腐るぜそのうち」
「今までの生活のほうがよほど腐ると思いますよ。で、結果はどうなんです」
いきなり脱線しかけた会話を止め、本題を切り出す。
「その前に聞かなきゃならんことがある……お前、月光草を何に使うつもりだ」
ジギスムントは眼光鋭く尋ねてきた。
月光草は高地に咲く多年草で白い五角形の花をつける。月夜に咲き、朝に萎む。貴重というほどでもないのだが、使用方法は限られる。いくつかの薬の材料になるのだが、月光により蓄えられた魔力が調合に強く作用するためだ。
「新しい薬の調合を試したいんですよ」
「薬、だな?」
「ええ」
探るような視線に敢えて正面から見返して答える。嘘は言っていない。敢えて言わないことがあるだけで。
「……まあいい。そう珍しい素材じゃないしな」
「ずいぶんと含みますね」
「神殿の御禁制に触れる可能性があるものは逐一確認を入れなきゃならん。奴ら本当に煩いからな。特に今のお前は……錬金術師だ」
魔術師は皆、自分の好奇心の赴くままに研究をするきらいがある。中でも錬金術師は格別だ。カミルも元々は魔導研究などというガラではないのだが、引退後の有り余った時間は研究につぎ込むのにちょうどいい。
「駆け出しですよ」
「言ってろ」
「それで、見つかったんですか?」
「ああ。ほら」
ひらりと差し出された紙片は手のひらよりも小さい。指二本分くらいの長さと幅に、細かく流麗な文字が綴られている。しっかりとした教育と豊かな教養を感じさせる文字だ。とはいえ書いてあるのはほんの一言だけだった。
『二ノ峰にあり』
「二ノ峰……?」
「北に聳える破望山脈、麓の村から登って二つ目の峰のあたりをそう呼んでいる」
首を捻ったカミルにジギスムントが重々しく答えた。
「破望山脈はその名の通りのろくでもない山だ。過去に幾度も踏破を試みて、その都度跳ね返されてきた。豊かな恵みをもたらすが魔性の棲み処でもある。もっとも、三ノ峰以降はどうなっているかさっぱりだがな。あそこは領主の管理下にある。入山するには麓に住む森番の許可を得て、森番を案内人として、今回の場合は採取人としても雇う必要がある」
ヴォルフスブルクの周囲は言ってしまえば荒野である。そこに山から流れ出た川が巨大なレーベン湖を形成していて、川を遡って行き着く先が破望山脈ということになる。その先は前人未到の地だ。誰も足を踏み入れたことがない。いたのかもしれないが、帰ってきた者はいない。まだこの地が、辺境伯領と呼ばれる以前からそうだ。
魔素というものがある。目に見えるわけではないがそういうものが存在し、体内に取り込むことで変質し、魔術行使のための活力――魔力となる。長年の魔術研究の結果、それははっきりしていた。ところがそれ以外はよくわからない。はるか昔、上古にあったとされる魔導文明の時代には、人は自由に魔素を操っていたというが、時代の流れの中でほとんどの知識や技術が失われてしまった。
その辺に漂っているはずのなんだかよくわからないこの魔素を、感じ取れるようになることが魔術師修練の第一歩だ。感じ取ることができ、次に取り込めるようになったら、ようやく魔術式に触れることができる。魔術を使えない者は、そもそも第一歩が踏み出せていないことが多い。また、魔素には濃さというものがあって、薄いと当然魔術は使いにくいし、濃ければ濃いで命に関わる。人は取り込める魔素の量というものが個人でなんとなく決まっており、たくさん取り込める者は当然大規模な魔術が使える。カミルは許容量が多いほうだ。
前人未到の地と呼ばれるところは、たいていこの魔素が濃すぎるのだ。おまけに先の戦争の影響で魔素の濃い土地が爆発的に増えた。生き物は死ぬときに体に残った魔力が放出され再び魔素に戻る。本来はそのまま拡散してしまうのだが、戦争で人も人以外も死にすぎた。結果拡散されないまま魔素が溜まり、大陸の中央から西寄りのあたりはほとんどが不毛の土地になってしまった。
もうひとつ、魔素には重大な問題が存在していた。魔素が濃いところでは魔性が多く生まれる。ただの獣だったものが、ある日突然魔性化して襲ってくるなどということもある。何か作用しているのだろうというのはわかるがそれだけだ。人はそれを「魔素に侵される」というが、どうすれば侵されるのか、あるいはどうすれば侵されないのか誰にもわからない。少なくとも、今まで人の間で魔素に侵されたものはいない。いないことになっていた。
「許可はいただけるんでしょうか」
「お前が行くならな」
「私が?」
思いも寄らないことを言われたとカミルは声を上げる。月光草について傭兵組合に問い合わせをしたのは、在り処がわかれば当然傭兵を雇って採取に行ってもらう心積もりだったからだ。
「傭兵組合が代行で許可を出す。さっきも言ったが魔性の棲み処だ、実力が伴わない奴らを行かせるわけにいかないんでね。言っとくが今の森番は戦う術を持たん。森番に守ってもらうどころかこちらが守ってやらにゃならん」
「それで森番が務まるんでしょうか。一人で山に入ることだってあるのでは?」
「戦うのが仕事じゃないってことだな。先代の森番はそりゃあ強いお方だったが、歴代では珍しい方だ。ちなみにお前が行かないなら最低三人雇え。駆け出しじゃ話にならん。少なくとも一対一で魔熊とやりあえる奴をな」
一対一で魔熊──魔素に侵された熊──とやりあえるとなると、かなりの手練れとなる。ただの熊より力が強く動きも早いし、なにより知恵が回るからやっかいだ。魔性化した獣はたいていそうなる。
「三人もですか?」
「お前だったら魔熊だろうが魔狼の群れだろうが物の数にもならんだろうが、自分を基準に考えるなよ。魔性に十重二十重と囲まれても平然と帰ってくる奴なんざ俺は他に知らねえ。ああ、雇うんだったら斡旋はしてやるが金額交渉は自分でしろよ」
暗に高いと言われてため息をつく。
「……ハァ、わかりました。これ、鳥でやり取りしたんですよね。そんなに遠いんですか?」
渡された紙片を机に放るとゆるく丸まる。人の手を介したのではなく、鳥の足筒に納められていたのだろう。よく見ると裏側には月光草について訪ねる文言があった。小さいとはいえ紙は貴重品だ。再利用したのだろう。
「いいや? 歩いて一日ってところだな」
「それなのに鳥で?」
「向こうは一人、こちらには出て来れん。まあ呼べば来るだろうがこの程度で呼びつけるわけにはいかん。逆にこちらが出向くのもなしだ。使いにやれるほどの人手はない。だからお前が傭兵組合に来てくれてもいいんだぜ」
事あるごとに勧誘してくるジギスムントに苦笑を返す。実際、組合が人手不足なのは知っている。傭兵などという輩は脳にまで筋肉が詰まっているような連中が多いのだ。引退して暇になったからといって、書類仕事もある組合でそのまま仕事が出来るかというとそうではない。依頼書を読めなくては話にならないから簡単な文字の読み書きは出来るだろうが、それが得意と豪語する者はそう多くないのだ。
ジギスムントなど見た目は荒くれそのものなのに、腐っても貴族である。書類仕事はお手の物だし字を書かせるとやたらと上手かったりする。また、カミルのような魔術師だと組合に入らずとも生活の糧を得ることが出来てしまう。私塾を開いたり、薬を調合して売ればいいのだ。
もっとも、引退まで無事でいられる傭兵の方が少ないのだが。
「それは遠慮します。まあ仕方ない、自分で行ってきますよ。とりあえず地図か、ないなら道のりの説明を。あと今から出てあちらに泊まるところがあるか。それから特殊な能力を持った魔性がいるかどうかも教えてください」
「何が出るとも断言はできんが一通りの準備だけはしておけ。森番は山を熟知しているから指示に従っとけばなんとでもなるはずだ。出るなら明日の早朝、お前の足なら昼過ぎにはつくさ。そのまま山に入るなら野営することになるだろうが、順調にいけば一回か二回で済む。鷹を出しといてやるから村についたら誰かに森番を尋ねろ。ガキでも知ってるはずだ」
ジギスムントはにやりと笑った。
カミルは傭兵の間では半ば伝説化している存在だった。そんな男を久しぶりに外へ引っ張りだせたことが嬉しいのだ。