余話
鮮やかに色づいた白樺がはらはらと葉を落としている。下生えの苔が複雑な模様を描く地面の上に黄金色の落ち葉が降り積もり、短い秋の終わりを告げていた。
この艶やかさは今だけのものだ。もう幾日かすれば雪がちらつき始め、白に閉ざされた静寂の季節が訪れる。吹き渡る風も日に日に冷たさを増していて、森に住まうものたちは皆それぞれに冬篭りの準備を始めていた。
無論、森の一画に住む二人の男女も例外ではなく、家の壁を埋め尽くすほどに薪が山と積まれ、軒下には虫干しのためか毛皮の外套がぶら下がっている。
カミルがフェリシアに出会ってから一年と少し経った。紆余曲折――主に辺境伯レオンハルトとの壮絶な殴り合いと醜い罵り合い――はあったものの、北限の森を終の棲家と定めたカミルは、ようやく待ち望んだ穏やかな生活を送れるようになった。
力尽くでもぎ取った辺境伯の直筆の許可証を手に大工と石工を引き連れて森を訪れると、フェリシアの家のちょうど裏手の辺りを切り拓き、溜め込んだ資産を大盤振る舞いして短期間で新しい錬金工房を建ててしまった。
さらにはフェリシアがあっけに取られている間に、これまでに培った手練手管を弄してお隣さん兼婚約者の座を手に入れる。結果、毎日美味しそうな彼女を愛でることができるようになった。
この地に移り住んでからのカミルは至極上機嫌だった。
なにしろ寝起きのフェリシアのとろんとした顔はとても美味しそうで可愛いし、森で採れる果実やキノコで何を作ろうかと思案しているフェリシアも彼女ごと食べてしまいたいと思うくらい可愛い。
とにかくフェリシアが傍にいて、笑いかけ、名を呼び、時々恥ずかしそうに抱きついてくれるだけでカミルはこの上なく幸せだった。目の届く範囲にフェリシアが存在しさえすれば、本当にそれだけで幸せだった。
彼女から向けられる感情が、未だに尊敬の域を出ていないとしても。
できれば頭の天辺から足のつま先まで毎晩全力で味わいつくしたいのだが、正式に婚礼の儀をあげるまでは手を出さないというのが彼女の後見人であるレオンハルトとの約束で、彼は仕方なしに日々襲い来る不埒な欲求に耐えていた。誰も見ていないのだから少しくらい襲ってもバレはしないと思うものの、それでフェリシアに嫌われでもしたら本末転倒だ。彼女の貞操観念は口煩い保護者たちによってきっちりと躾けられていて、触れあいは許してくれるが最後の一線だけは決して越えさせてくれないのだ。
やっぱりもう少しレオンハルトを殴っておけばよかった。一応領主だからと遠慮したのがまずかった。普段は放置しているくせに、ここぞとばかりに後見人を主張するのは不当だと思う。一年と言われた婚約期間を半年に縮めることにはなんとか成功したが、それ以上は頑として譲らなかったのだ。フェリシアもそれでいいと言うから諦めざるを得なかった。
いずれは夫を持ち子を産む。その意味を理解していないわけではないだろうが、フェリシアにとって結婚とは父親あるいはレオンハルトが選んだ男との間に交わされる契約であって、森番としての義務のひとつなのだ。感謝と敬意の上に成り立っていればそれでよく、カミルの抱えているドロドロとした濁った澱にも似た情愛は存在する余地がなかった。
「あの、カミルさま……」
腕の中でフェリシアが困惑の声を上げる。
「なんでしょう?」
「……この体勢はいったい……」
「私はフェリシアにくっついていたい。でもフェリシアは繕いものをしたい。針仕事のときに横から手を出したら危ないでしょう? だから妥協点を探ってみました」
しれっと言い放って目の前にある可愛らしいつむじに口付けを落とす。
カミルは今、家のテラスに据えつけたベンチに腰掛け、その膝の上にフェリシアを乗せて後ろから緩やかに抱きしめていた。顎を乗せるのにちょうどよい高さに亜麻色の頭があるものの、さすがにそれをするのはフェリシアに悪いという気持ちがある。意外と背が低いことを気にしているようなのだ。カミルにとってはキスをする時に腰を屈めるのが少し大変なだけで、軽くて抱き上げるのにもちょうどいいし、なによりこうしてすっぽり包み込んでしまえるのがいい。自分の裡に閉じ込めて囲っているという感覚に独占欲が満たされるのだ。
「あの、でも、ちょっと、邪魔……」
「大丈夫ですよ。おっぱいを揉んだりはしませんし、頬を舐めたりもしませんので。おとなしく待っていますので終わったらご褒美くださいね」
大丈夫かどうかはたぶんカミルが決めることではないだろうが、これ以上は妥協しないとばかりに力を込める。うっかりすると手が悪戯しそうになるのを抑えるためでもあった。
「ご、ごほうび……?」
「ご褒美」
ベリーのタルトが食べたいですと零せば、フェリシアが諦めたようにため息をついた。腕の中の身体から強張りがとれ、カミルの腹筋にたおやかな重みが掛かる。
膝の上に乗せているのにはもうひとつ利点があった。これだとフェリシアの足は地面に届かず、安定を求めるならばカミルに頼るしかない。
少しずつ少しずつ、そうとは気づかれないうちにフェリシアから様々なものを奪う。いつの日にか本当に、カミルなしには生きていけなくなるくらいに。
フェリシアが存在してくれればそれでいい。だが、存在せしめるための努力は惜しまない。フェリシアの傍らがカミルの居場所なのではなくて、カミルの傍らがフェリシアの居場所であるべきだ。
「邪魔、しないでくださいね」
そう言って手を動かし始めたフェリシアを見下ろした。冬用の綿入れのほつれを繕うらしい。針が行きつ戻りつしながら小さな穴を次々と塞いでいく。カミルも単純な繕いくらいなら可能だが、たとえば縫い跡を見えないようにする技術などは持ち合わせていないため、なかなかに興味深く観察していた。
邪魔しないでの言葉通り腕はお腹に回すに留め、下乳に押し付けて柔らかな感触をこっそり楽しむことにする。できれば掬い上げて手のひらで堪能したいのだが間違いなく怒られるし、手元が狂って針の先がフェリシアの指を傷つけたらと思うとやりきれない。
赤い雫は想像だけでもカミルを狂わせる。吸い上げて舌に乗せて味わいたい。それだけでは飽き足らず指を噛み千切ってしまうもしれない。
「まだですか?」
「はじめたばっかりですよ!?」
フェリシアが身じろぎするたびに、丸いお尻がカミルの大切な部分を刺激してよろしからぬ妄想が駆け巡る。硬くなるのを抑えるので精一杯だ。というか抑え切れていないので気付かれないことを願う。少しでも気を抜けば胸に指を埋めてしまいそうになるし、このまま脚を開いてはしたない格好をさせてみたいとも考えてしまう。恥じらい真っ赤になったフェリシアは、きっと身悶えるほどに可愛いはずだ。
何時からこんなに色惚けするようになったのだろう。だが初めて出会ったときから食べたくて仕方がないのだから、こればかりはどうにもならない。無防備に差し出される熟れた果実を食べずに愛でるだけで済ませるというのは、いくらカミルが温厚で理性的な男であっても大変に苦労することなのだ。
そうでなくても、彼の理性は時々あっさりと魔性に流されてしまうのだから。
「もう、これをしないと冬支度が終わらないのです。なのに――んっ」
首を捻って見上げてくるフェリシアの顎を取り、上から被さるようにしてそっと唇を塞ぐ。ちゅ、ちゅ、と音を立てて啄ばむと伏せた長い睫毛がかすかに震えるのが見えた。
ここまでやってもフェリシアは怒らない。口付けは婚約者として当たり前だし、恥ずかしい行為ではないと教え込んだのはカミルだ。きっと意図的に手を止めるような邪魔をすれば怒るのだろうが、そうでない限り彼女はちょっと困った顔をして、それでも受け入れてしまうのだ。ただ情が深いとか懐が広いというだけではない。
フェリシアは、あまりにも無知で無垢だった。
フェリシアの世界はとても狭い。森と山のことには誰よりも詳しいが、それ以外は村のことが少し、ヴォルフスブルクがほんの少し。森番としてやっていくための知識や技術は身に着けているが、あとのことはすっぽりと抜け落ちて常に意識の外だった。
対人感覚も酷くいびつだ。荒くれ者の傭兵とそれなりに交流はあったはずなのに、簡単に人を信用しすぎる。破望の山に入るのに森番の許可が必要だというのに、実際には傭兵組合が代行しているのは、そういうことなのだろう。フェリシアに会おうとする者は、必ず誰かからの選抜を受けなければならないのだ。父親が生きていた時は父親の。その後はレオンハルト、あるいはその意を受けたジギスムントの。
カミルがするべきことは簡単だ。
森という緑の檻に閉じ込めて、大切に甘やかすこと。
目と耳を優しく塞いで、あらゆるものから遠ざけること。
そうやって囲い込んで、与えられた森という居場所に疑問と不満を抱かせないこと。
外の世界に目を向けさせないこと。
望めば手に入るであろうものを望ませないこと。
知らないということさえも知らない状況に置いておくこと。
これまで父親とレオンハルトが担ってきた役割を引き継いだだけだ。勿論彼らはここまで酷くなかっただろう。父親としては愛しい娘に悪い虫が付かないよう配慮するのが当然だし、レオンハルトに至っては領主としての責任感で親馬鹿の暴走を捻じ伏せていた。ずっと手元に置いておけないのならせめて森からは出さない、という程度には。
だがカミルにはそんな責任感などないし、暴走を止める理由もない。
フェリシアを人の欲望や世間の荒波から護り綺麗なままでいさせるためならば、彼女から他のすべてを切り落とすことに何の躊躇いもなかった。
フェリシアはこの森から出ない。この森以外に行き場所はない。そうなるように仕向けたのはかつてのレオンハルトであり、亡くなった父親であり、今はカミルの役目だった。
フェリシアを手に入れるためならどんな卑怯な手も厭わない。彼女の緑の瞳に映るのが自分だけであればいい。まあ村の男衆――ユリアンは除く――とレオンハルトくらいは、少し我慢してやってもいい。ごく、短い間だけならば。
あの日――フェリシアが愛しの魔狼を喪った日――傍にいることができて幸運だったと思う。そうでなければ、彼女は寂しさに耐えかねて森を出てしまったかもしれないのだ。レオンハルトはもしかしたら手元に置けることを喜ぶかもしれないが、そうなったらカミルの平穏は訪れなかった。フェリシアの弱みに付け込んだのは事実だが、その場にカミルがいたのはきっと運命で、それを正しく掴み取ったに過ぎない。運命の女神とやらは気まぐれで有名なので、振り向かせるには多少強引な手段も必要なのだ。
「ん……ふ、う……」
鼻にかかった吐息がカミルの劣情を煽る。生まれたての疑似生命体のように何事にも染められていない真っ白なフェリシアを、カミルだけが穢している。
ねえ、フェリシア。私はまだホムンクルスの研究を諦めていないんです。貴女には絶対に知られるわけにはいかないけれど。
だって、貴女を食べてしまうわけにはいかないけれど、ホムンクルスなら、貴女で出来た、貴女によく似たホムンクルスなら、食べてしまってもまた作ればいいんですからね。
濡れた音を立てて唇が離れる。間近にあるフェリシアの頬は羞恥に赤く染まって、抗議の色を乗せた大きな瞳は潤んでいた。
「カミルさまは破廉恥です……」
膨れっ面も赤い目尻もつやつやの唇も、何もかもが美味しそうで愛しい。本当に、物凄く頑張って抑えているのだから、少しは勘弁して欲しい。カミルの虚はいつだってフェリシアを求めて啼いている。色々な意味で食べたくて仕方がない。あまりに長いこと待たされ過ぎて、解禁されたあかつきには壊してしまうのではないかと危惧するほどだ。
「頑張って我慢しますのでなるべく早く終わらせてください」
「か、カミルさまが邪魔をしなければもっと早く終わります。だから――」
続きは終わってからにしてください、と。消え入りそうな声をカミルの耳は正確に拾い上げた。
どんな続きにしよう。いかがわしいことも少しくらいなら赦してくれるだろうか。
腕に少しだけ力を込めて引き寄せ、亜麻色の髪に頬ずりする。ふわりと鼻腔をくすぐる木々の匂い。今朝方森の恵みを拝借しに行った際に、朝露で濡れたのだろう。青臭いと嫌う者もいるだろうが、カミルにとってはフェリシアが纏う香りというだけで、街の娘の香水よりはるかに好ましい。爽やかで、甘酸っぱくて、瑞々しい。カミルに食べられるために存在するような、フェリシアの匂い。
「早くしないと食べちゃいますよ」
髪を鼻先で掻き分けて覗いた耳の先を甘噛みしながら囁く。とたんに早くなった手の動きにカミルはくくっと喉の奥で笑って瞼を下ろした。
朱の光を宿した瞳を、隠すように。




