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 そこは薄暗い部屋だった。天井からの吊り下げ式ランプがほんのりと中を照らしているだけで、窓はすべて固く鎧戸を閉じている。

 美しい飴色の天板を持つ机の上には貴重な革張り装丁の書物が乱雑に積み上げられ、いくつかの巻物は床に落ちてしまっていた。壁に後付けされた金属製の網棚には様々な形のフラスコが並び、部屋の隅には大きめのかまどと火箸、何に使うかもわからない金属製の棒状のものが灰に複数突き刺さっている。

 その部屋の机の前、ギシギシと軋んだ音を立てる椅子に男がひとり。


 荒れた息遣い、湿った擦過音。

 それが途切れた次の瞬間、短い呻き声と共に白濁が散った。


 大部分は持っていた硝子の蒸留器の中に収まったが、手や椅子や、床も無事とは言いがたい。大惨事一歩手前の状態だ。さすがにブツを直接収めるのが躊躇われたせいだが、くだらない羞恥心や自尊心など無視するべきだった。どうせ誰かに見られるものでもない。

 乱れた呼吸を整え、蒸留器の密閉だけはしっかりと施して片づけを始める。予想以上の虚しい気持ちに襲われて肩を落とした。


 汲み置きの準備しておいた水で、まずはぬるぬるの手を洗う。指の間まで念入りに。それから布を浸して固く絞り、ところ構わず拭いた。たぶん無事なんじゃないかと思われるところまで全部拭いた。元々清潔にしておかなければならない場所ではあるが、今までやってきた掃除以上に気合を入れて拭いた。お気に入りの机は特に念入りに拭いた。この布は捨ててしまおう。洗いたくもない。


 ひとりで処理をした経験などいくらでもあるが、今回ほど情けない気持ちになったのは初めてだ。瞬間に浮かべた裸体が以前お世話になった年増の商売女だったとか、どうでもいいことに酷く傷つく。何故よりによって。


 わかっている。今までの女の中で一番好みの身体つきだったからだ。胸が大きくて、尻も大きくて、当時まだ若造だった彼にはとても魅力的に思えたのだ。

 だからって今この時に思い出さなくてもいいじゃないか。もっと若い女ならよかったのに。

 ここ数年、女のお世話になどなっていないが。


 布を屑入れに放り投げ、うんざりした気持ちのまま、再度椅子に腰掛けて蒸留器を手で包み込む。魔力を注ぐ必要があるからなのだが、妙に生温かいのが気に障った。


 なんだこの言い知れない気持ち悪さは。

 皆こんなことに耐えているのか?

 それとも耐えられないから手を出さないのか?

 自分は男だからまだいいが、女だったらどうやってこれを手に入れたらいいかわからない。

 誰かに頼むのか? 手伝うから出してくれ、と?


 雑念を振り払い深呼吸をひとつ。意識を集中させ体内に循環する魔力をゆっくりゆっくり指先から、手のひらから放出していく。そうしてしばらく魔力を注いでいると蒸留器の中で反応が始まった。精液と糞と薬草が数種類、渾然一体となって踊るように渦巻く。経過観察の必要があるためにわざわざ高価な透明硝子の蒸留器を用意したのだが、その中に収められているモノは、はっきり言って見ていたくない。自分の排泄物を観察するとか、そんな高度な趣味は持ち合わせていないのだ。


 これは必要なことだ。

 自分に言い聞かせる。湧き上がってきた何かを抑えるように胸に手を当てた。


 彼の内には『何もない』がある。

 それは穴であり、洞であり、虚だった。

 心になのか体になのか、あるいは両方になのか、わからないが確実に『そこ』には何もない。

 ぽっかりと開いてしまったそれが、いつも彼を苛む。何かを失ったのかもしれない。何も失っていないのかもしれない。ただそれは紛れもない『空白』で、『ない』ということそれ自体が、酷く彼を苛むのだ。


 埋める方法を見出すためならどんなことでもやった。戦いは手段のひとつだった。返り血を浴びたときのどうしようもない高揚感は、一瞬だけとはいえそれを埋めてくれたが、興奮は潮が引くようにあっという間に冷めてしまう。その後は、決まってそれが拡がったように感じた。

 彼はもう、人生の折り返し地点を過ぎようとしていたけれど、それを抱えて過ごすには、残りの人生は長すぎた。


 殺しには飽きた。

 狩りにも飽きた。

 飽きるということを、知ってしまった。

 飽きるということは、とても疲れることだった。

 他の方法がどうしても必要だった。


 その結果が、今目の前にある蒸留器だ。


 まずは旅暮らしをやめようと思いついて、昔馴染みもいるこの街へやってきた。小さくとも程よい借家を見つけて移り住み、定住に必要な様々なものを少しずつ買い足す。新しい生活を考えることは意外に楽しくて、気持ちが良かった。部屋に物が増えていくたびに生きているという実感が湧いた。これまでの経験を活かした仕事をはじめ、行きつけの店を増やし、新しい知り合いもできた。

 人の間で暮らすということは、戦いとは別の充足感を彼にもたらしたけれど、それでもやはり物足りなさがある。


 締め切った薄暗い部屋の中で、蒸留器がほのかに発光している。中身は既に元がなんだかわからない別のものに変化していた。気持ち悪いという感情も忘れて蒸留器を額に押し付けると、祈るように目を閉じる。


 彼は何かを生み出したかった。何かを育みたかった。

 それが、戦い奪い続けてきた彼が見出した、新たな方法だった。


***


 頭上高くを鷹が飛んでいる。


 白樺の木々の間からそれを認めたフェリシアは、立ち上がってエプロンをさっと払った。その勢いに、周囲に集っていた栗鼠たちが一斉に散っていく。中の一匹は転げ落ちた胡桃の欠片を目敏く見つけて拾い上げ、問うようにフェリシアを見上げた。


「いいよ、持ってお行き」

 赤い目(・・・)をした小さな盗人は鼻をピスッと鳴らすと、少し離れたところまで逃げてから胡桃を口に放り込み、木を伝って森へと消えていった。


 そんなに慌てなくても元々あげるつもりだったのに。フェリシアは肩をすくめると胡桃や茸を入れた籠を手に持ち踵を返す。今日は思った以上にたくさん採れた。夕飯は少し豪華にしておこう。

 さくさくと落ち葉を踏みしめながら家路を急ぐ。鷹はいつも、何かの知らせを運んでくるのだ。


 エーデルシュタイン辺境伯領、北限の森。すぐ北にはこの世の果てと言われる破望山脈が聳え、ほんの少し南に下ると小さな集落がある。山脈の奥から流れ出る雪解け水が森を潤し、大陸最北の地であるというのに実りはいつも豊かだ。冬の間は雪に閉ざされることもあるが、晩夏から初秋にかけての今の時期は一番過ごしやすかった。

 木々は優しく枝葉を広げ、小鳥たちがその合間を飛び交う。地面の巣穴からは野うさぎやいたちが顔を見せることもあった。少し奥まで入れば大型の鹿や猪もいる。村の狩人たちにとっては格好の獲物だが、どれもフェリシアには馴染みの顔だ。


 フェリシアは森番の娘として生まれ、昨年父が亡くなってからはその跡を継いだ。フェリシアにとってこの森は庭のようなものだった。


 森を少し切り拓いたところに建てられた家に戻ると、裏庭の井戸の傍に立てた止まり木で、鷹が羽繕いをしながら待っていた。フェリシアにもう少し力があれば皮の手甲に止まらせることも出来るのだが、残念なことに重さに耐えられない。一時的になら問題ないが、止まらせたまま動き回るなど無理もいいところだった。


「遅くなってごめんね」

 声をかけるとピュィと鳴いて首を傾げる。顔立ちはとても精悍なのに、この仕草は可愛らしくて好きだった。金色のくりくりした瞳がフェリシアに何かを問いかけている。


 ある種の訓練を施した鷹は、手紙のやり取りによく使われた。翼が強くかなりの速度で飛ぶことができる。長距離だと鳩のほうが使われるが、フェリシアの住む森と、少し離れたところにある街の間なら一刻足らずで往復できる距離だ。

 この鷹は街の組合で飼っているもので、定期的に飛んできてくれる。フェリシアから知らせを出す時に呼べないのが少し残念だ。自分でも飼ってみようかと思ったことは何度かある。餌は森で自由に狩りをしてもらえば賄える。親しくしている小動物が狩りの対象となってしまうが、フェリシアはそこまで自然の営みに介入しようとは思わない。ただフェリシアから知らせを出す機会がそんなにあるかというとそうでもなく、その限られた機会のために大枚をはたくのは気が引けた。暮らしに困るほど貧してはいないが、贅沢が許される身分でもない。よく訓練された鷹は目が飛び出るようなお値段がつくこともあるのだ。第一どうしても急を要することなら村に声をかけて馬を出してもらえばいい。


 脚に取り付けられた小さな筒の蓋を開けると、中にはこれまた小さな紙片が綺麗に丸められて入っていた。手を離すととたんにくるくる丸まりたがる紙片を指で押さえて内容に目を通す。

 毎回そうなのだが、いつも知らせをくれる人の姿を思い浮かべると、こういった几帳面さとは無縁の人柄に見えるのでなんとも言えないおかしさを感じる。特に今日の相手はそうだ。あの大きな手で丁寧に丸めているところはちょっと想像がつかない。

 中身はなんてことはない問い合わせだったが、フェリシアは少し考え込んだ。


「お返事、すぐ書くからちょっと待っててね」

 答えるように短く鳴いた鷹の頭を一撫でして家へ入る。


 近いうちに人が来るだろうから、そのときまでに色々と済ませておかなければならない。まずはこのギイギイと軋んだ音を立てる裏木戸の修理からだ。村の男衆に声をかけたら誰か来てくれるだろう。今日採ってきた茸は吊るして干しておこう。苔桃は煮込んでジャムに。そういえば羊肉の香草塩漬けはまだあっただろうか。

 久しぶりの外の人。もてなす必要はないだろうが、準備を怠るわけにはいかない。


 フェリシアはひとりだった。はじめは親子三人。赤子の頃は祖父がいたというが、フェリシア自身に記憶はない。

 八つで母を亡くした。そこから父とふたりきり。時折街から人がやってきて、父とともに森へ、山へと入っていく。その間はやはりひとりだった。

 父を亡くして本当にひとりになった。跡を継いだといっても、父のようにはできないから、人が訪れる機会は確実に減っていた。村が近くにあるといっても誰かが常に一緒にいてくれるわけではない。


 大切なものをひとつひとつ亡くしても、フェリシアは森を離れない。

 それが森番の生活だと言われればそうなのだろうが、最近は少しだけ、寂しいと思うのだ。

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