夢に堕ちる
「人間に戻してやる」
エルがそう切り出した。
あまりにも唐突な言葉に、思わずぽかんとしてエルを見上げる。
あれほど「ネコがネコが」と騒いでいたエルの口から、こんな言葉が出ようとは。
「ほら、何ぼさっとしてる。こっちこい」
手招きされて、不思議に思いつつも近寄った。
「……どうかしたの?」
魔物としては、異常な程にネコに執着していたエルである。不自然すぎる。
何か不測の事態でもあったのかと尋ねる。
それにエルは緩く首を振りかけて、微妙な表情を浮かべた。困ったような、悩んでいるような、そんな表情だ。
「……まあ、そんなとこだな。もう少し寄れ。そこじゃ魔法が届かない」
エルの指示に素直に従って、少し首をひねる。
魔法には詳しくないが、そんなに射程範囲の狭い魔法ってあるのだろうか。確かかけられた時はもう少し距離があった気がするのだが。
「このへん?」
エルから歩幅ひとつ分離れた場所に座る。
エルは軽く頷いて、腕を上げた。黒い爪の先に、淡い光が浮かぶ。
不可視の力が、絡みついてくる。体中を四方に引っ張られるような感覚に、思わず目をつぶった。
「目を開けていいぞ」
暫くして、感覚が引いたころ、エルの声が聞こえた。
恐る恐る目を開けて、視界の違いに驚く。
地面が遠かった。見下ろした両手は紛れもない人間のもの。爪のひとつひとつまで、懐かしい自分のものだ。
「……っ」
嬉しさに声がでない。焦がれ続けた元の姿。鏡があるなら、今すぐにでも確かめたい。
ぱっと顔を上げて、思いがけず近い距離にエルがいることに驚いた。
「わあっ」
思わず声を上げてのけぞると、エルが僅かに眉を顰めた。
「何だその反応は」
「あ、いや……驚いて……」
少し後退しつつ、返す。
こうして間近にみれば、エルとの身長差はそれほどでもない。エルの方が僅かに高いかどうか、という程度である。ネコの時は見上げる形だったので、さほど考えていなかったのだが。
ネコと人では距離感が違うということをどうして失念してしまっていたのか。己の浅慮が悔やまれる。歩幅ひとつ分など、手を伸ばせば十分届く距離ではないか。
「そう怯えずとも取って食わんと言ってるだろ……人に戻って思考もまともになったか?」
エルがにやりと笑みを浮かべ、揶揄する。
「元々思考はまともだよ!」
思えばこの姿で反論するのは……初めてな気がする。
無駄に動揺しながら更に後退しようとして、エルの腕に遮られた。
「……何?」
エルの右手が腕を掴んでいる。一瞬、脳裏を戦慄が掠めるが、見返したエルの双眸に危険な光はない。真紅の瞳は穏やかな色をしている。
「逃げることはないだろう?」
「別に逃げてないよ」
これは単にパーソナルスペースというやつだ。他人との程良い距離。それが、この距離だと保てないため、なんとなく居心地が悪いのだ。
「魔物憎しというやつか?」
「そうじゃなくて……って、エル?」
何やら誤解をしていそうなエルに説明しようとして、違和感に気付く。エルの空いていた左手が、気のせいでなければ腰に回っているような。
「何だ?」
「えーっと、別にそんなにがっちり捕獲しなくても逃げたりしな……うわっ」
気のせいだと言い聞かせながら続けようとして、おもむろに腰を引き寄せられた。
自然、エルと抱き合うような体勢になる。
「っ、エ、エル!ちょっ、」
エルの左腕がしっかり腰に回されている。図らずも体重の殆どをエルに預ける形になり、とにかく離れなければと思うのだが、動揺のあまり身動きできない。
「何してるの、離し……」
「何故だ?」
必死の抗議に、エルは綺麗な笑みを浮かべて首を傾げた。むしろどこか不思議そうですらある。
悪びれるどころか予想外の反応を示したエルに、ますます動揺が加速する。
もしかしたら自分がおかしいのだろうか。
これが魔物流の挨拶なのか。
一瞬そんなことを真剣に考えて、ふるふると首を振った。
そんなばかな。
「なぜって……この体勢は、ちょっと、ほら!」
遅ればせながら抵抗して、エルの腕を解こうとするが、そこはいくら細く見えても魔物の力である。剣も碌に扱えない人間など赤子同然だ。
「体勢? ……気になるか?」
エルの声のトーンが少し低くなる。その変化に、思わず顔を上げた。
間近に仰ぐ、真紅の双眸。
どこか懐かしいような感覚が胸の中に広がる。
もっと見ていたい、と囁く声。
瞬きすら惜しんで、瞳の奥を見詰めていたい。
真紅の輝きから目が離せない。
「スノウ」
エルの唇が、囁く。常ならば呼ばない名を。
その響きにぞくりとして、抗おうとしていた四肢から力が抜けていく。
真紅の、稀なる宝玉。
それがいつになく近くにある。
エルの、真紅の瞳が。
近くに……
ちか……
「うっわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
絶叫して跳ね起きる。
「何だ!?」
同じように跳ね起きた相手の真紅の双眸と目があって、さらに慌てて後退し、
どしゃっ
盛大に床に転げ落ちた。
腰をしたたかに打ち付けて、悶絶する。
「おい、無事か?」
上から、落着いたらしいエルの声が降って来た。
無事じゃない。
腰が痛いし……いや、それよりも何でエルとあんな。
ていうかエル、何であんなこと。
上手く回らない頭でつらつらと考えて、ふと視界が暗いことに気付く。
目を上げると、薄闇の中にエルのシルエットがぼんやり揺らいでいる。窓からの淡い光に、エルの髪が照らされて僅かに赤い。
そうだ、今は夜。
「おい、どうした?」
エルの声が心配げな色を帯びる。
「……ううん、大丈夫……」
首を振って、胸に溜まった息を吐き出した。
どっと疲れが押し寄せてくる。
「ちょっと……夢見がよくなくて」
「悪夢か?人騒がせなヤツだな」
おかげで目が覚めたじゃないか、と髪を乱暴に掻き上げて、エルが嘆息する。
「うん、ごめん……」
今の気分はむしろ謝ってほしいくらいだったが、そんなこと主張しても仕方ない。
夢でよかったと喜ぶ反面、どうしようもなくやるせない気持ちになり、胸中は複雑だ。
あんな夢をみてしまった自分が情けなく、そんな夢で引き合いに出してしまったエルにも申し訳ない気持ちになる。
だが夢の感覚が覚めやらぬ現状では、エルの顔をみたくない、と思う気持ちもあるわけで。
穴があったら入りたい、と心底思う。
そんなこちらの気持ちなど知る由もなく、エルは腕を伸ばして襟首を掴みに来る。
「……や!」
咄嗟に躱すと、エルの双眸が不審そうに狭められた。
「ん?……ほう、なるほど?」
面白そうに、エルが笑う気配がする。闇夜に輝く紅玉の双眸は、はっきり言って怖い。しかもどうやら感づかれてしまったらしい。
「俺が夢に出てきたか、勇者」
図星である。
だが、内容までは知られたくない。何が何でも。
「俺に食われかけでもしたか? ネコを食うほど困ってはいないつもりだがな?」
「……ちがうよ」
違う意味で食われかけたけど、とは胸中で呟くにとどめる。
言葉にしてしまったら、後から自己嫌悪に陥るのは必至だ。
「そう怯えるな、ただの夢だろう」
エルの伸ばされた手が、頭を撫でる。
その感触にどこか安堵する自分がいる。
それがいいことなのか悪い事なのか、記憶を喪った身にはわからない。
きっとこの不安定な精神状態が見せた夢なんだろう、と無理やり結論付ける。
「落着いたらさっさと寝るぞ、ほら」
促されて仕方なしに、ベッドに戻った。
なるべく離れたいこちらの気持ちなどお構いなしに、相変わらずエルは抱き込んで離さない。
そこまでしないと眠れないはずもないだろうに。
触れ合った温もりが心地よいと思うのは……あくまでもネコだからだ。
そう、いい聞かせて。
夢に、堕ちる。
なんちゃってボーイズラブ。
夢に堕ちる=ユメオチ ってね★