吾輩は婚約破棄である。名前だとは思えない。
吾輩は婚約破棄である。名前だとは思えない。
どのように生まれた名かはとんと見当がつかぬ。しかし、私を薄暗くじめじめとした場所から拾い上げてくれた女性であるから、決して獰悪な人ではないと信じている。
彼女はいわゆる貴族人なぞという、およそ猫の身分とは対極に位置する立場に身を置いていた。
飲んで食べてを生業とすることは猫と変わりないのだが、食事中に餌へ目もくれず話してみたり、あまつさえ、餌にありついているところに人間言語で「ニャア」と呼びかけて茶々を入れてみたりと、どうにもマナーがなっていない。
いまいち品性に欠けた中立地帯であるのだが、我々が「お日様の広間」やら「鴉が鳴く路地裏」なぞと呼ぶのと同じように、「社交界」と呼称される貴族人の交流所においての、礼節的倫理観の最大の特筆点は、交尾の契りを交わすにおける互いの関係性にあるだろう。
これが、どうにも救い難い。
我々が粛々にさっと契りを交わし一連を終えるのに対して、貴族人なる者たちは、育ての親――というより「縄張りたる生まれの場所」が決めた相手と、生涯を誓い連れ添い合うという、我々にはよく分からない規律を経て契りを交わす。
友人であるミケくんが言うところの、「いつまでも相手の尻の匂いを確かめ合う狂気的試みにおいて人間は正気を保てると信じている」といった具合の破滅的規則であるが、それが人間の常であるというのだから驚きである。そして社交界の常は、殊更に理解の外にあるものだった。
尻の匂いが酷い者とも、連れ添わなくてはならないという。
あまりの崩壊した秩序に眩暈を起こしそうである。
きっと人間は、秩序というものを作ることがどうにも、不得手であるのだろう。交流の規則を適切に形作ることが、猫にできることが出来ない。
吾輩に餌を給仕する彼女もまた、その尻の匂いが酷い規則に悩んでいる一人であった。
縄張りの都合で彼女の番いの候補生となった雄の名をエドガルドというのだが、これが、まあどうにもできないような雄であった。
自分が有能だと信じており、たいした力量もないくせに大上段からものを言う、ほとほとにどうしようもない雄である。
ジュリアくんが、かの雄に評価を述べたるところ「人間は服装の動物であるが、それで言えば馬鹿には見えない尊厳を着込んだような雄」という猫に辛辣を鳴かれる人間だった。
これが猫社会であれば、出会いがしら雌にど頭を引っ叩かれて雄は水を浴びせられたように逃げ出しそれきりであるが、それで終わらないのが人間社会の恐ろしいところだ。
エドガルドという男はとにかく「ニャアニャア」と五月蠅く泣く小心者の猫雄そのものの姿のような人間であった。若く、尊大こそが器の大きさだと信じて疑わない、軽佻(*軽はずみで浮ついた様を晒していること)な人間である。
縄張りを誇るばかりで守ろうともしない、猫族には度し難い生き方をしている。では彼はなにをするのかというと、ただ「ニャアニャア」と言うのである。それで生きてゆけるのだから人間とは楽なものだ。
ただし、その楽は、ごく周囲の者が背負う重しとなって他者を苦しめる。どうやら人間族が住む場所とは、そういった社会構造になっているらしい。我が主人はまさに、エドガルドの享楽が生み出す重しを背負う立場にあって、苦しんでいた。
人間社会のそのような様については、たびたび猫社会で論じられる話題であった。たいていは呆れを伴って議論が交わされるのである。
親友のミィシャくんが論じるところ、「どうにも人間は服装と同じく横柄さを重ね着することこそ立派であると信じるものだ。また人間社会もそう信じ、そういった者を優遇する趣がある」といった事であるが、これは鋭い意見だと感心したものだ。
自ら餌を探しにゆける能力があるのに社会がそれを許さないとはどういったことかと思うが、きっと人間の多くは、「人間とは自由よりも不自由を好むもの」と、社会構造に誤解させられているのだろう。
そうやって苦しむ彼女に吾輩ができることは少ないが、猫という者なりに、心を寄せることに努めた。
彼女の膝に乗ってうとうととしたり、眠る彼女の背中へ身を寄せたり、なんでもない時に「にゃあ」と一声をかけてみたり、狩った獲物を見せてみたり、時には屋敷の柱でバリバリと爪砥ぎしてみせたりもした。
しかして、彼女が辛酸を舐めるような重荷を背負う生活も、幸いなるかな、永遠には続かなかった、
エドガルドと形式上の番いとなってから、季節が一周と半分ほど、過ぎた頃であった。
生まれたての猫もぼちぼち、猫社会に顔を出す程度の月日が過ぎたが、「相変わらず」とは人間のための言葉である、人間族は何ぞも変化せず、当然、あのエドガルドもそのままであった。
ただし、状況の変化は訪れた。
人間が少しも変わらずとも、環境は変化してゆく。そして、このたびの事は、あのエドガルド自らが能動的に、采を振り上げたことであった。
「シュティア。お前に、婚約破棄を宣言する」
――銘々樹木の上に登り、枝条に身を横たえて、枝節の感触や若葉の香りなどを楽しみながら、なんとなしに今夜の人間集会の様子を覗いていた、そのときの事であった。
その大上段からものを告げるような言葉が猫族の耳に聞こえた瞬間、そこに居合わせていた全員が、バッと俊敏に、吾輩のほうへ一斉に顔を向けた。
コンヤクハキを宣言する? どういったことか。コンヤクハキよ、お前は“宣言”であったのか? ――皆、わけも分からず、そのようなことを考えていたように思う。
聞き違えか、あの男がオカシイのか。そもそも、コンヤクハキとは何ぞや。猫の名前を高らかに言うあの男はなんなのだ。
しかし、成り行きを見守るうち、話の筋も見えてきた。人間言語にあまり達者でない吾輩が聞くにも明らかに、夜会の最中にエドガルドが我が主人に告げたことは、どうやら、離縁の宣告であったようだ。
そこにいた猫族の全員が、吾輩を含めた全員が、口を開け広げて、その一場面の様子を見つめていた。
エドガルドという男の、下品に口角の上がった顔に、猫族の、目という目が注がれる。――エドガルド、お前、どうするのだ?
「縄張りたる生まれの場所」が決めたる故に相手があった、社会構造に頼って初めて、お前を番いに選ぶ雌があったというのに。お前が離縁など告げれば、お前を選ぶ雌など一人としていなくなって、最低限の体裁すら保てなくなることは猫族の目からみても明らかであった。仕事ができれば話は別だが、彼は現状、縄張りを守る責務さえ果たせないでいる。
しかし当のエドガルドは、そのようなところに、まったく考え及んでいない様子である。
もっと良い縁談があるとか、なんとか。――十中八九、罠である。エドガルドを選んで利となることは無くとも、他者が破滅すればそれで得となる者があることくらい、「社交界」という場所を観覧席から見物していた猫の吾輩にも察せられる。
猫族の中には、彼に心配を寄せる者すらあった。――そうして心配を寄せるのは雄であり、雌は皆、鼻を鳴らして白けた目でエドガルドを見やっている。なかには「腐った鰯頭の雄人間」などと言う者すらあった。
我が主人は、目に僅かだけ涙の予兆を見せて、その宣言を受け取っていた。
その潤んだ水気が実は、悲しみの涙でないことは猫の目から見て明らかであったし、もしかすれば幾人かの人間から見ても、そのことは明白であったかもしれない。
エドガルドは我が主人が浮かせた、涙の予兆が宿った顔を見ると下卑た上機嫌を浮かべて、我が主人に背を向けると、スタコラとその場から去っていった。
「破滅の退出」と猫族に称された、決定的瞬間だった。
印象的な場面を後に、この日の議論はたいへんに白熱した。
他の動物には見られない、人間社会における方向性を誤った懐の深さは如何ともし難く、人間社会は猫社会を見習うべきだという意見が多く上げられた。いったい何が原因であんなことになっているのかと論議されたが、それについては、早々に話がまとまった。
人間の身から溢れ出た傲慢が形を成したもの、それこそが人間の社会形態であるのだろう。
そのような縄張りで、傲慢が性根から溢れ過ぎた人間が破滅するのは奇妙な話であったが、因果応報も曲がりなりにも、人間社会にもあるということであろう。神も一応のことは人間族というものを見守るつもりらしい。
さて、「餌を拾ってきて与えることこそが関係の全うであると、人間はどうにも考えがちである。餌場へ誘おうという配慮や思いやりが欠けることもあれば、餌をひたすら待とうという子猫ですら思わないことをする者もある。それらは基本的に、人間族と猫族の間にある関係性である」とはルビィくんの言であるが、それでいえば我が主人は「餌を待とう」という種の人間ではなかった。独りとなったあともすぐに、自身の足で餌場を探すことをそつなくこなして、むしろというべきか、猫の目に見えていた当然というべきか、エドガルドとの婚約が破局を迎えたその後のほうが、健全を取り戻したようにずっと生き生きとしていた。そういう意味では「破局を迎えた」というより「解消された」と表現するほうが適切であろうか。このぶんであれば、新たな出会いも近いかもしれないが、我が主人はしばし独り身を楽しむ様子であった。
エドガルドはといえば、まあ、その後、なんの意外性もなく没落した。最低限の体裁すら保てなくなった雄の末路など、猫族でも人間族でも変わらず、そんなものであろう。他に相応しい雌を見つけるだとかで婚約破棄を宣告し、それが実現されてしまったその後にようやっと状況の深刻に気づいたようだが、もはや、何もかもが手遅れである。重荷を肩代わりする者が去ったのち、かの雄の運命の目先にあったのは破滅だった。
見違えるほど血色もよろしくなった我が主人が、膝のうえでうとうととしている吾輩に、人間言語で何かを話しかけている。
「婚約破棄。――あなたのために付けた名前が、私の迎えた現実の出来事になっちゃったね」
なんのことやら分らぬが、吾輩はうたた寝のままに「ニャア」と一声、泣いてみせた。
まどろみの中、我が主人が吾輩に名を授けた、あの時のことを思い出していた……。
「あなたの名前は婚約破棄。好きであるなら寄り添って、本当に嫌であったのなら離れていく。私たちの常識に縛られず、あなたは、そうして隣人を選べるはずの当たり前な幸せを、失わないでいて……。私の呪いが破棄されることは、きっとないけれど、あなたは、そうした自由を失わずにあってほしい。そうしたうえで、もしも私の隣人となってくれたなら、とても嬉しいです。……そのときは、もしも私とあなたが、ひと時でも隣人となれたそのときは、私の隣で「ニャア」と一声、鳴いてほしいな」
――吾輩は婚約破棄である。名前だとは思えない。了
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