Ⅲ 激流 ー6
二人は今、ガザ帝国との国境近くの街、アウローラ公国ドムにいた。かつてカエルムに毒された町として有名なこの町は、今や二国間の重要な交易都市となっている。
先のアウローラ大公によるガザ襲撃事件で、二国間が緊張状態であった時も、ドムの町は時世を注視しながらも、交易を止めることはなかった。
「わたし、実は初めて来たのよ」
凛が感慨深そうに、町をキョロキョロ見回した。
「公国からガザに入った時も、急いでいたから通り抜けただけだったのよね」
町といっても、この辺りは貧しい地域で、壁にひびの入った細長い古い家が、身を寄せ合うように密集して建っていた。道は狭く、日当たりがいいとは言えず、昼間なのに薄暗かった。その狭い路地で、子どもたちが石蹴りをして遊んでいた。
昂は凛の先に立って歩くと、その細長い家の一つのドアを叩いた。
しばらくして、ドアがギ、ギギギと音を立て、一人の男が顔を出した。
「こんにちは、ナナ」
昂が礼儀正しく挨拶すると、男も気安く笑顔になった。
「よう。コウじゃないか、久しぶりだな」
そうして、昂の後ろにいる凛に向けられた目が、訝し気に眇められ、その後、驚愕に見開かれた。
「なんで!」
凛が「お久しぶりね、ナナライ」と挨拶を終える前に、凛と昂はナナライに家の中に引っ張り込まれた。
「王妃、なぜ、いや、そもそも……」
ナナライの視線が、王妃の頭と足元を何度も往復している。結局、彼は言葉を形にすることが出来ず、代わりに、大きな息をついた。
「とにかく、奥へどうぞ」
昂はナナライに同情した。
凛は人を驚かせるのが好きだが、これはやりすぎだ。ナナは、ガザ王妃が単独で自分の目の前に現れたことと、そのあまりにショッキングな髪形に、口がきけなくなってしまった。
ナナライはドムの顔役のような位置にいる人物だった。特に重要な役に付いているわけでもないのに、公国の大将の親友で、アウローラ大公にも、ガザ帝国炎王にも、なぜか気に入られており、信用されている。
本人は嫌がっているが、本人の意向は無視され、両国から面倒事を持ち込まれる人物だった。
もちろん、その反対もあり、ドムの為に両国に話を付けに行くのも彼だった。
少し前まで、ドムの中でも中央に位置する場所に住んでいたのだが、もういい加減引退したいと、かつて住んでいた下流の町に最近隠居したのだった。
だが、そのつもりなのは本人だけなので、こうやって、王妃が目の前に現れたりするのである。
「奥」と言っても、この建物の奥行など知れている。一つドアを開けると、低い長方形のテーブルを、五つの座椅子が囲んでいる部屋が現れた。それだけで、ほぼ部屋がいっぱいである。
「狭いところですが」と勿体ぶることもなく、ナナライは「どうぞ」と二人に座椅子を勧めた。それからどこかに消え、すぐにカップに入った水を持ってきた。
ナナライに妻子はいない。厄介事を四方八方から持ち込まれるので、妻など持てないといつもぼやいている。
確かにそれは事実で、こればかりは気の毒という他ない。
凛は「ありがとう」と笑顔で言うと、躊躇することなく、ごくごく喉を鳴らして水を飲んだ。
昂が驚いたくらいなので、ナナは驚愕し、自分が出したにもかかわらず、カップを取り上げた。
「リン様!不用心すぎます!」
「あら?毒が入っているの?」
余裕で聞き返す凛に、「まさか!」とナナは青筋を立てた。
「ナナだからいいわよ。喉がカラカラだったんだから」
昂はやれやれと二人を見ながら、自分もカップの水を飲んだ。乾ききった喉に水が通り抜けるだけで、生き返るようだった。
実は凛が昂と行動を共にするのは、これが初めてではない。もっと言えば、昂の師匠である良、針森から一緒に出てきた彩も一緒だ。
昂、良、彩は普段から商人として、主にガザ帝国を中心に各地を回り、商いをしている。それも、もう六年になろうとしている。
ところが最近、その商団というにはあまりにも小ぢんまりした三人のところに、なぜか国の王妃凛が乗り込んでくることがあるのだ。
ありのままの民の様子が見たい。
それが王妃のお言葉であり、王も認めていると一筆書いたものまで持ってきたので、昂たちも断るわけにはいかなかった。
だが、最近、その目的も本当か怪しいと思い始めている。もちろん、嘘とは言わないが、それが目的の全てではないように思うのだ。
それはともかく、カップの水を美味しそうに飲み干すのを、ナナは諦めたような表情で見届けると、「それで」と促した。
「わざわざこんなところまで、おいでになったのは、アラン様がここにおられると思われたからですか」
ガザ帝国を襲撃したとされるアウローラ大公は、未だに見つかっていない。
「それでしたら、残念ですが…」
「もちろん、そんなこと思っていないわ」
凛はナナの言葉を遮って、明るく言った。
「アランが馴染みであるあなたのところにいたら、わたしたちでなくても、すぐに分かって、探しに来るわ」
「現に、公国からは兵士が捜索に来ましたよ」
ナナは不愉快そうに、鼻にしわを寄せた。
「でも、痕跡の一つもなかったから、あなたは拷問もされなかった」
「俺が探っても、アラン大公がここに現れた形跡はない」
黙って聞いていた昂もそう付け加えた。
「でも」
凛はしっかりとナナを見つめた。
「何か聞いているでしょう?わたしたちには伝えていいと言われていることを」
それまで難しい顔のまま、視線を逸らせていたナナが、ハッとしたように凛を見た。
「あんた、事が起こる前に、なにか大公に聞いていたのか」




