エルゼというスパイの少女
「君の仕事ぶりには頭が下がる。淹れてくれた紅茶を飲むたびにつくづく思うよ」
サイドを刈り上げた短い髪に、清潔感のある鼻の下の髭。パリッと着こなすスーツ姿は、まさに西洋映画に登場しそうなダンディな紳士の男性だ。本が並ぶ書斎にて椅子に座り、カップを鼻に近づけ、この国イギリスが誇る高級茶の香りを優雅に楽しんでいる。
「お褒めに預かり光栄です。新人給仕の私にはもったいないお言葉」
白と黒が映えるメイド服姿の、ワイン色のボブカットの少女は両手を腹部に添えて一礼した。まだ成人しているとは言えない顔立ちで、かといって子供とも言える雰囲気でもない。なぜだろうか。百戦錬磨を連想させる落ち着きが少女にはあった。やや長身の、すらっと無駄のない体躯で、人形のように美しく整った顔立ちも合わさり、雰囲気には儚さのようなものもある。
「謙遜することないよ。とても新人とは思えない働きぶりだ。いやぁ、特に昨日は助かった。君が教えてくれなければ予定をすっぽかすところだったよ。危ない危ない」
「ご主人様のスケジュールはすべて把握しておりますので。それが私の勤め」
「アイデアに行き詰まれば的確にアドバイスしてくれるし、相手する時間の減った妻のフォローもしてくれる。ペットの世話も欠かさず、料理も美味しく掃除も完璧ときたものだ」
「逆に奥様には日頃良くしてもらえていますから」
「いい人材を雇えた。今度の給料に気持ちを上乗せしておこう」
紳士は上機嫌で給仕の少女に伝えた。仕事の時に見られる、時には鬼のように険しい表情とは違い、少女の前では安らぎが窺える。
「助かります、貧乏な出自でして」
「なに、きっと出世していくよ。君には仕事のセンスがある。この私が保障する」
「そのお言葉を励みに精進いたします」
少女は再び主人に一礼した。
「あれは?」
ふと、少女は主人の後方を見やり、
「お客様でしょうか? お約束の時間には少々早かったかと存じますが」
「ん? そうだな、まだ三十分も前だが?」
彼はくるりと椅子を回転させて後方を向いた。
「――――ヴッ!」
紳士は小さな黒目でカッと瞳を開き、口からは舌を放り出して真っ赤な鮮血を吐く。どろっと、……どろっと。胸元があっという間に血にまみれた。
「な……ぜ?」
給仕の少女の左手にはナイフ。主人の背中から見事に心臓を刺している。傷口からドクドク溢れる返り血が、傷一つない白くてしなやかな指を汚す。
少女は顔色一つ変えずに口にする。
「――あなたが“我がグループ”の敵だからです」
答えたのはそれだけ。それ以外は明かさない。
するとその時、
「お待たせ~」
呑気な声だ。
扉を開けて現れたのは、金髪を右に結ったサイドテールの少女。メイド服ではなく、腰にベルト巻いた、制服のようなワンピースの服を着用している。見かけの年齢は給仕の少女に近い。
その金髪の少女は、何も驚かない。
“異常”が、扉を開けてすぐ目に飛び込んだはずなのに。
まるでそれが“日常”のように平然としていた。
給仕の少女は翻って、
「いえ、ベストのタイミングです」
「はい、どうぞ。ちゃんと綺麗にしてね~」
金髪の少女からボトルを受け取り、蓋を開け、血の付着した顔や手に粉を振りかける。そしたら血糊はあっという間に凝固し、続いて受け取った使い捨てのシートで擦ると、何事もなかったかのように綺麗な素肌が現れた。本来はその場での洗浄が難しい衣服すらも、粉とシートを駆使して、肌のように完璧とは言わないまでも綺麗に処理してしまった。
「さて、“迎え”が来たので撤退しますか」
給仕の少女は再び窓を見る。黒いワンボックスカーが待機している。手入れの行き届いた黒光りの高級車で、この屋敷で駐車されていても違和感がなかった。
「情報はゲットできた?」
「バッチリですよ。必要なものはこの二週間ですべて取得しました」
「さっすが~。ナンバー2の評価は伊達ではないねぇ」
「この程度の任務なら当然ですよ。むしろ先日失敗があったあなたは反省してください」
「妹に言われちゃうとお姉ちゃんのメンツが丸つぶれだよ~」
給仕の少女は、すでに絶命した紳士を冷めた目で見下ろし、
「あなた方の計画する事業が《お父様》の事業計画に多額の損害を与えますからね。警告したじゃないですか? なのに続けようとは……。なのでここで潰させていただきます」
裏の世界に住む者の顔をしていた。
そうして二人は窓を開け、建物の二階から軽く飛び降りる。そのままワンボックスカーに乗り込み、難なくその場から消えた。間もなくして建物内に警報が鳴り響く。
「二週間ですがお世話になりました」
部下の青年男性が運転する後部座席の窓から、徐々に小さくなっていく屋敷を見て、給仕――だった少女は口にした。
少女の名は――エルゼ・フォーゲル。
イギリスの大手旅行代理店『トリップバス』のCEOの屋敷に勤務する給仕ではない、本来は。
――スパイだ。
ドイツの大富豪ランドルフ・フォーゲルの義理の娘であり、そして娘たち七姉妹で構成されたフォーゲル氏直属のスパイチーム《楔-kusabi-》の一員。エルゼは四女にあたる。
「しかし二週間の演技は疲れました。少しばかり休息がほしいですね」
金髪の少女――二女のルシアは、小さい子供のようにイタズラっぽく笑って、
「残念でした~。さっそく次のお仕事が決まってるみたいだよ~」
「えぇ……なんで?」
「だってエルちゃん日本人だし。半分だけど」
「ああ、次は日本でお仕事ですか」
日本語が必要な現場ならエルゼが適任だ。
「で、日本のどこかは聞いてますか? 二カ月前にも行きましたが、最初は北海道に行ったと思ったらすぐに沖縄に行きましたからね。大変でしたよ。おかげでグルメツアーを満喫できましたが。味噌ラーメンとサーターアンダーギーが特によかったです」
「食いしん坊め」
「むぅ、食いしん坊じゃありませんよ! 数少ないスパイの楽しみの一つですってば!」
エルゼはぷっくり頬を膨らませた。本人は無意識だろうが、あざとさもある。
ごめんねと、ルシアはエルゼを宥めて、
「――東京の《加速する科学の不夜城》だよ」
たしかにそう口にした。
それを聞き、思わずエルゼはルシアを二度見した。
そして一週間後。
「ここが――《加速する科学の不夜城》、ですか」
ある高層の建物の屋上に立つ人影は三人。
そのうちの一人、エルゼ・フォーゲルは首元に掛かる髪を風に靡かせ、口にした。
圧巻な景観だった。
見渡す限りが摩天楼の、夜の街。
不夜の街。
超近代科学に満ちていると名高い、未来の街。
(私は――――)
少女は――――。
(この科学に満ちた煌びやかな世界で、――――死刑判決を受けました)
次回の更新は5月中旬ごろになると思います




