第2章:街への到達と無意識の善意
森の中をひたすら歩き続けていると、道端でうずくまっている人影を見つけた。近づいてみると、それは荷物を背負った、旅人風の男だった。彼の足からは血が流れており、顔色は土気色だ。
「だ、大丈夫ですか!?」
俺は慌てて駆け寄る。男は顔を上げ、苦しげに息をしながら言った。
「魔物にやられてしまってね……もう、ダメかもしれん……」
傷口は深く、素人目に見ても危険な状態だと分かった。救急車はもちろんない。薬箱も持っていない。どうしよう。
「とにかく、血を止めないと……!」
俺はスーツのジャケットを脱いで傷口に当てようかと考えたが、もっと何か、こう、根本的な解決策はないものか。とにかく「血よ、止まれ!」と強く念じながら、祈るような気持ちで傷口の上にそっと手をかざした。
すると、どうだろう。俺の手のひらが、ふわりと温かい光を放った。
「え?」
驚いたのは俺自身だ。光は男の傷口を優しく包み込み、みるみるうちに深い傷が塞がっていく。大量に出ていた血もピタリと止まり、数秒後には、そこには傷跡一つない、綺麗な肌があるだけだった。
「な……傷が……治った……?」
旅人の男が、信じられないといった表情で自分の足と俺の顔を交互に見ている。俺も自分の手を見つめて、呆然としていた。
「……すごいな、この世界の人間は。自然治癒力が半端じゃないんだな」
目の前で起きた奇跡を、俺はまたしても異世界の常識のせいにして納得した。俺が何かしたわけじゃない。この人が自分で治したんだ。うん、きっとそう。
「よかったですね、治って。じゃあ俺はこれで」
「ま、待ってくれ!」
立ち去ろうとする俺を、完全に回復した旅人が慌てて引き留めた。
「恩人よ、あなた様はもしや、高位の神官様では!?このご恩は、一生忘れません!せめて、近くの街までご案内させてください!」
男は地面にひれ伏さんばかりの勢いで感謝してきた。神官様?何のことだかさっぱり分からないが、街の場所が分かるのはありがたい。俺は彼の申し出を受け入れ、一緒に歩き出すことにした。
彼の案内でたどり着いたのは、「エルトリア」という名の、高い城壁に囲まれた大きな商業都市だった。活気のある街並み、行き交う様々な人種。馬車や、見たこともない動物が荷物を引いている。異世界に来たんだな、という実感がようやく湧いてきた。
しかし、ここで俺は重大な問題に直面する。所持金ゼロ。日本の円は当然使えない。宿に泊まるどころか、パン一つ買えやしない。
「困りましたね……」
恩人である旅人と別れ、途方に暮れていると、日雇い労働者募集の張り紙が目に入った。港での荷物の積み下ろし。これなら俺にもできるかもしれない。
早速仕事にありついたはいいものの、ここでも俺の「普通」は通用しなかった。
「おい新人!そのでかい木箱、三人で運べ!」
現場監督の親方にそう指示されたのは、見るからに重そうな、巨大な木箱だった。他の作業員たちが「うぉぉぉ!」と唸りながら三人でようやく持ち上げている。
「はい、分かりました」
俺は素直に頷き、その木箱に手をかけた。そして、よいしょ、と。ただ普通に持ち上げた。
「…………」
「…………」
「…………」
俺の周りから、音が消えた。親方も、他の作業員たちも、全員が口をあんぐりと開けて固まっている。
「あれ?これ、一人で運んじゃダメでした?」
俺が尋ねると、親方はハッと我に返り、ぶんぶんと首を振った。
「い、いや……ダメじゃねえが……お前、本当に人間か?」
「見ての通りですが……。これ、どこに運べばいいです?」
「あ、ああ、あっちの倉庫だ……」
俺は巨大な木箱を小脇に抱え、ひょいひょいと倉庫まで運んだ。その日一日、本来なら数十人がかりで一日かかるはずの仕事量を、俺は一人で、しかも午前中のうちに終わらせてしまったらしい。一日分の給料を前倒しで渡され、「明日もぜひ来てくれ!」と親方に泣きながら頼まれた。なんだかよく分からないけど、感謝されるのは悪い気はしない。
その日の夕方。日給で買ったパンをかじりながら街を歩いていると、掲示板の前で泣いている女の子がいた。
「どうしたの?」
声をかけると、女の子は「猫のミーちゃんがいなくなっちゃったの……」としゃくりあげた。聞けば、衛兵にも捜索を頼んだが、忙しいからと後回しにされているらしい。
「よし、お兄さんが一緒に探してあげるよ」
お人好しな性格がまた顔を出す。俺は女の子と一緒に「ミーちゃーん」と呼びながら路地裏を探し始めた。
しばらく探していると、どこかからか細い鳴き声が聞こえてきた。
「にゃーん……」
声は、街の外壁近くにある、古びた大きな倉庫から聞こえてくる。しかし、その倉庫からは猫の鳴き声だけでなく、何か地響きのような、不気味な唸り声も響いていた。
「なんだろう?」
俺は警戒しながらも、女の子を後ろに下がらせ、倉庫の扉をそっと開けた。
中には、体長5メートルはあろうかという、猪と熊を合わせたような巨大な魔獣がいた。その魔獣の足元で、小さな子猫が怯えて震えている。ミーちゃんだ。
「グルルルルァァァァッ!」
俺に気づいた魔獣が、敵意むき出しで突進してくる。すごい迫力だ。
でも、俺の頭にあるのは一つだけ。
(あの子猫を助けないと!)
突進してくる魔獣に対し、俺はただ、邪魔だな、と思った。猫を助けるのに、こいつは邪魔だ。
「ちょっとどいててくれ」
俺は突進の勢いを殺すため、魔獣の額を人差し指で、ポン、と軽く押した。
ドゴォォォォンッ!!!
次の瞬間、巨大な魔獣は頭から破裂するようにして吹き飛び、肉片一つ残さず消滅した。壁に巨大な風穴が開き、そこから夕日が見えている。
「……あれ?」
まただ。俺は何もしていない。指で押しただけ。なのに魔獣は消えた。
「……うん。きっと、幻覚か何かを見せる魔獣だったんだな。俺が触ったら、幻が解けたんだ。危ない危それに違いない」
またしても俺は、超常現象を自分に都合よく解釈した。そして、足元で震えている子猫を優しく抱き上げる。
「ミーちゃん、見つかったよ」
倉庫の外で待っていた女の子に子猫を渡すと、彼女は満面の笑みで「お兄ちゃん、ありがとう!」と言ってくれた。その笑顔だけで、俺はなんだか満足だった。
後日、街の衛兵たちが「謎の爆発で倉庫が半壊し、中にいた凶悪な魔獣『ギガントボア』が消滅していた」という謎の事件に首を捻り続け、その功績者がまさか猫探しをしていただけの男だとは、誰も思い至らなかった。




