私の毎日は、今日でおしまいみたい
異変は、あまりにも静かに始まった。
その朝はいつもと同じ、ごきげんな朝だった。
教会の鐘が鳴り、子どもたちが集まってきて、パンを分け合いながら他愛ない話をする。
「せんせー、昨日ね、向こうの村から人が来てたよ」
「向こうの村っていうのは?」
「うんとね、北のほうだよ。荷馬車が壊れたって」
北……。
一瞬だけ、胸の奥がざわついた。
「へえ。珍しいね」
私はそう返しながら、黒板に文字を書く。
たったそれだけの会話。
――この時点では、まだ「異常」と呼ぶほどのものじゃない。
午前の授業が終わり、子どもたちが帰ったあと。
教会の外が少しだけ騒がしくなった。
走る足音。
荒い息。
怒鳴るような声。
そして扉が勢いよく開いた。
「せ、先生……!」
顔色を失った男が、よろめくように教会に入ってくる。
この町の雑貨屋の主人だ。
いつもは穏やかで、怒ったところなんて見たことがない。
「北の……北の集落が……!」
ぜえぜえ息を切らして、次の言葉が続かない。
「落ち着いて。どうしたの?」
私は椅子から立ち上がる。
その瞬間、嫌な予感が確信に変わった。
「……燃えてる。
人が……人が、逃げてきて……」
――どういうこと?
この街の周囲一帯は、結界の内側だ。
魔王軍との戦いが終盤に入ってから、辺境を含む近隣州すべてに恒常結界が敷かれている。
辺境でのモンスター被害は、ここ数年――
いや、十年近く聞いていない。
「なにがあったの?」
問い返す声が、思った以上に冷たかった。
「わからない……。
魔物だって言う者もいるし、
黒い影が……人の形をしていたって……」
黒い人形の影。
その一言で、頭の中の歯車が噛み合った。
教会の外で、悲鳴があがった。
「ワウトせんせい! あれ、なに!?」
窓の外に視線を移す。
街道の向こうから、黒い煙が流れてきている。
風に乗って、焦げた匂いが届いた。
――近い。
結果の外側から入って来た?
あり得ないわ。結界は大導師が作ったものよ。
破られた形跡も、それに警報だって発令されてない。
……なら、内側から?
「……全員、地下へ」
気がづけば私は命令していた。
「先生?」
「いいから!指示通りに。
子どもたちを集めて、地下倉庫に!
みんな窓から離れて、灯りを消して!」
誰も異を唱えなかった。
私の声に、迷いがなかったから。
外で、何かが崩れる音がした。
次に聞こえたのは――
悲鳴ではない。
獣の咆哮でもない。
金属が軋む音。
建物が、意図的に壊される音。
……壊し方を知っている音だ。
「……っ」
遅かった。
次の瞬間、教会の扉が内側から叩き割られた。
爆風で瓦礫が舞い、子どもたちの叫びが錯乱する。
教会を守護する結晶が祭壇から砕け散った。
私は咄嗟に前に出て、結晶片から漏れた魔力を無理やり引き寄せる。
――足りない。圧倒的に。
もう一度結界を張るには、魔力が足りなかった。
後ろを振り返ると、地下室に急ぐ子供たちの姿がみえた。
でも、やるしかない。
「伏せて!」
衝撃と突風が走り、視界が白く弾けた。
次に見えたのは、崩れた壁の向こうに立つ「それ」だった。
人の形をしている。
けれど、人じゃない。
黒く歪んだ外殻。
筋肉の走り方も、関節の可動も不自然だ。
まるで――
魔力で形だけ与えられた、粗悪な模造品。
魔力の流れが、明らかに異質。
魔王軍の系譜――だが、正規の兵ではない。
「……残党?」
いいえ、違う。
正規兵なら、こんな不安定な構造はしていない。
統率も連携も、撤退判断もない。
「……生み出された、か」
誰かが意図的に。
この結界の内側で。しかもかなりの精度で。
相当な手練だ。
少なくとも、辺境の盗賊や魔導士崩れにできる芸当じゃない。
「せんせい!」
子どもの声に私は歯を食いしばった。
――やっぱり、全て終わってなんかいなかった。
「戦争は終わった」そんな言葉を信じたかっただけだ。
私は前に出る。
教師としてじゃない。
名前を捨てた少女としてでもない。
かつて、戦場にいた者として。
「……生き残ってしまった責任、こんな形で回ってくるなんてね」
その言葉を吐いた直後だった。
教会の床に、淡く広がっていた結界紋がひび割れた。
音はない。
けれど確かに、何かが削られている。
壁の向こう。
瓦礫の陰から、人の形をした黒い影が滲み出すように現れた。
腕。脚。頭部らしき輪郭。すべてが決定的におかしい。
関節の位置が曖昧で、動きに「溜め」がない。
まるで、形だけを人に似せた――
魔力の塊。
黒い影が結界に手を伸ばす。
触れた瞬間、
結界紋が削り取られるように消えた。
「……嘘でしょ」
即席簡易とはいえ、教会の守護結晶を用いて組み上げた結界だ。
魔力配分も、位相も、最適化している。
それをいとも簡単に壊しているみせる。力任せに。
魔力の奔流が外から押し寄せる。
まるで雪崩だ。
質量を持ったかのような魔力が、結界の隙間から流れ込んでくる。
――耐えきれない。
魔力を、最後の一滴まで絞り出す。
――結界の端が、わずかに崩れた。
そこから一気に、敵の魔力がなだれ込んだ。
押し潰される。圧倒的な量に。
理解してしまう。
私一人では、止められない。
前線で何度も言われた言葉が蘇る。
――役に立たない。
――指示しかできない。
――戦えないくせに、口だけは出す。
そうだ。
私は結局――
一人では何もできない。
ダメだ。
この町は、もう助からない。
――ごめんね、みんな……。
瓦礫に沈んでいく教会を、薄い灰が覆っていた。
燃え残った木材が、ぱちと音を立てて崩れる。
泣き声はもう聞こえない。
子どもたち逃げ切れたのかな。あるいは――。
そのとき。
空気がわずかに歪んだ。
風の流れが不自然に途切れ、肌を撫でる魔力の質が変わる。
遠くで、角笛が鳴った。
救援の合図だ。
そして、混じる――人為的な魔力の干渉。
誰かが、ここに近づいている。それもすごい速さで。
脳裏に、数日前の銀髪の少女がよぎる。
(……まさか)
その瞬間。
教会の扉の前で、風が渦を巻いた。
瓦礫と埃の中、
銀髪の少女――第四皇女ハイデリカが立っていた。
崩れた空間に、ただ一輪の花が咲いたようだった。
揺れるシルバーピンクの髪。
汚れ一つない外套。
その小さな身体に、場違いなほど澄んだ魔力が満ちている。
彼女は状況を一瞥し、剣を握る手にわずかに力を込めた。
「……間に合いましたか?」
その声は、わずかに震えていた。
けれど、逃げる気配はない。
次の瞬間――
黒い影がハイデリカを捉えた。
眼球らしきものは存在しないから、正確には視線が合ったわけじゃない。
でも、はっきりとわかった。
――狙いを定めている。
空気が歪み、 魔力が一箇所に集束していく。
魔力濃度が跳ね上がり、周囲の結界残滓が軋んだ。
(……まずい)
直感が警鐘を鳴らす。
あの影は、力を測っている。
そして理解したんだ。
黒い影がにやりと微笑んだ気がした。
この少女は、脅威ではないと。
ハイデリカは剣を構える。
姿勢は必死で整えているが――
所作が遅く甘い。そのわずかな挙動が戦線では致命的になる。
(……勝てない)
私は即座に結論を出した。
黒い影が、動く。
一歩。
それだけで、地面が沈んだ。
「……っ!」
ハイデリカの息が詰まるのがわかった。
「逃げなさい!」
私はとっさに叫んだ。
――このままじゃ、ハイデリカが殺される。




