十数年後 ― 私、世界に忘れられてる
十数年の時間が過ぎていった。
世界は魔王軍の殲滅に王手をかけ、平和の鐘が鳴るまであと一歩に迫っている。
――少なくとも、そう発表されてはいるわ。
勇者マシューの名は大陸中に轟き、彼女を讃える歌が街々で歌われている。
……私はというと。
辺境の田舎町。名もなき小さな集落にいた。
経歴も偽装。
記録上は、とっくに死んでいる少女。
いいえ、もう少女と呼ぶには年をとり過ぎているか……。名もなき一般女性だ。
私の瞳にステンドグラスのカラフルな輝きが反射した。
石造りの教会の片隅に、幼い声がにぎやかに響いている。
木の机と、安っぽい黒板。
田舎町の教会を間借りして、私はしがない教師をしていた。
子どもたちに読み書きと計算を教えて、小銭を稼ぐ日々。
うん、悪くない毎日だと思う。
「じゃあ、今日はここまでー。忘れ物ないでね。黒板消し係もよろしく」
「ワウトせんせー、また魔力の節約方法の授業やってー!」
もちろん名前も偽名よ。
「節約魔法ねえ、あれ好きすぎじゃない?
まあ、勉強熱心なのは良いことだよ。
いいかな将来の大魔導士たちよ。節約っていうのは手抜きじゃなくて、最適化なんだよ」
教室の空気が和やかに笑いに包まれる。
ここでは誰も私に「何者だったのか」なんて聞かない。
戦いも、策略も、功績争いとも無縁。
ただ静かに、日々誰かの役に立てればそれでいい。心地よい日々よ。
もう、英雄も、軍神も、策略も戦術も――
全部、私には関係のないことだもの。
「先生ー、誰か来たよー!」
子どもが窓の外を指差す。
私もつられて視線を向けて――そこで、時間が止まった。
扉が、静かに開かれた。
外の風が、教室に忍び込むようにして入り込んできて、一瞬にして空気が変わった。
「……あなたが、勇者パーティーの生き残りですね?」
銀髪の少女だった。
十六、いや、十七。
控えめな外套に、長めのスカート。剣を腰に帯びた旅姿。
一見、どこにでもいる若い騎士のような装い――
なのに、隠しきれない「気品」が漂っていた。
凛とした美しい顔立ち。
ウェーブのかかったシルバーピンクの髪が肩に流れている。
姿勢、視線の角度、声色の選び方……
平民の娘がどれだけ背伸びしても真似できないものがある。
子どもたちに向けた柔らかな笑顔。
その裏に、かすかな警戒心。
すべての所作が、この街にとっては異質だ。
(王族ね……)
しかも、ただの王族じゃない。
従者の気配は皆無。
辺境まで一人で来るなんて、無茶にもほどがある。
「……知らないわ。人違いじゃないの?」
私はできるだけ淡々と答えた。
だが少女は怯まない。
むしろ、一歩近づいてくる。
「ハイデリカと申します。ロートシルトの第四皇女です」
いきなり名乗るのね。
スカートをつまみ一礼してみせる作法からして、おそらく嘘ではない。
探ってくる気配もない。隠す気もない。真正面から突っ込んでくるタイプか。
「勇者マシュー様のパーティーに、生き残りがいると。
そういう噂を聞きました。あなたがその方ですか?」
背筋が、ひやりとした。
脳裏に、十数年前のあの日がよぎる。
あの日、私は世界から「死者」にされた。
生き残りを知る者なんて、ほとんどいないはず。
「……戦争は終わった、とされています」
ハイデリカは、子どもたちに聞かせないよう、声を落とした。
「ですが、前線ではまだ想定外が続いています。
魔王軍の残党か、あるいは……
勝利の裏で生まれた、別の火種かもしれません」
私は、何も言わなかった。
「あなたは勇者マシューと共にいた。そういう噂を聞きました。
前線のことはご存知でしょうか?
……知らないのではないかと思い、伺いました」
「先生、この人……なんだか、こわいよ」
そばにいた子どもが、小さな声で私の袖を引いた。
はっとしてみると、不安そうな生徒たちの顔が飛び込んでくる。
ハイデリカの鋭い気配に、怯えてしまったらしい。
「あっ……ご、ごめんなさい!」
子どもたちを怖がらせるつもりはなかったのだろう。
ハイデリカが慌てて表情を和らげた。
不器用さの入り混じった仕草は年相応ね。
私は静かに彼女に向き直る。
「人違いだよ。私は……あなたの探しているような英雄じゃないの。たしかに、勇者パーティーにいたことはある。最終決戦にも参加したわ」
私は淡々と述べて、少しだけ息を整えて続けた。
「でも、あなたの求めている生き残りではないの。
……あいにく、私は剣の才能も、魔法の才能もない。
たまたま、運良く生き延びただけ。
勇者のことだって、もう覚えてない。
あなたが想像しているような期待に応えられる存在ではないのよ。
生き延びたのではなくて、生き残ってしまっただけ。
私は前線では戦わない、ただのお荷物だったから」
役立たずを前提にした言葉が、すらすらと口から出てくる。
嘘は言っていない。
ハイデリカの瞳が、かすかに揺れた。
その表情が、ほんの少し曇る。
「……そう、ですか」
短く呟くと、彼女は丁寧に一礼し、静かに扉へ向かった。
「今日のところは、帰ります」
ゆっくり扉が閉まり、音が消える。
教室に静寂だけが戻ってきた。
「……これでいいの」
私は小さく呟いて、自分に言い聞かせた。
もう私は英雄譚とは無関係だもの。
名前のない女で十分だった。
私は今の平穏な暮らしに慣れすぎていた。
面倒ごとを抱えるには、もう若くない。遅すぎる。
そのときは、本気でそう思っていた。
辺境の街を壊滅に追い込む、
終わったはずの戦争の続きが襲ってくるまでは。




