通りすがりの、ただの死人よ
廃教会に足を踏み入れた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、血でも腐臭でもない。
甘い香りだった。
香草と蜜を混ぜたような、どこか懐かしく安心する匂い。
教会という場所に不釣り合いなほど、空気が澄んでいる。
廃教会の内部は、思っていたよりも広かった。
崩れかけた天井から光が差し込み、
割れたステンドグラスの欠片が床に散らばっている。
その中央に、簡素な祭壇。
そして――人。
「……多いわね」
思わず声が漏れた。
十数人。
いや、もっといる。
ボロ切れのような服を着たスラムの住民たちが、膝をつき祈るように頭を垂れている。
その前に立つのは――聖女たち。
白衣に装飾の少ないローブ。
年齢はまちまちで、少女から若い女性まで。
四人、いや五人……。
空間は信仰と集中が満ちていて、訪問者たる私たちに誰も見向きしない。
(まさか気がついてない……ってことはないわよね)
結界は張っていない。
私たちは堂々と入ってきた。
なのに、視線一つ揺れないなんて……。
「先生……なんだか思ったより普通ですね」
聖女が祈り、民が集い、救いを求める。
どこの教会にでもある光景だ。
ふいに懐かしい気持ちが込み上げてきた。
少し前まで、私も子どもたちを前にして、教会で授業してたなって。
思考がわずかに止まった。
その瞬間だった。
「……っ」
背中にぞわりとした感覚。
空気が撫でられた。
「ハイデリカ!」
私が叫ぶより早く、ハイデリカの身体がわずかに揺れた。
「え……?」
彼女の周囲で、魔力が反射する。
無意識の防御。
フルオートで立ち上がった魔法障壁。
――まずい。
反射した魔力が、そのまま教会に溶けていく。
「……先生、なんか……力が……」
ハイデリカの顔色が目に見えて悪くなる。
(間違いない。ハイデリカの魔力が抜けている。
吸収による魔力循環——
祈りが魔力を転換している……!?)
視線を走らせると、聖女の一人が微かに唇を動かしていた。
詠唱じゃない。
祈りの言葉だ。
「――神は、分け与えるもの」
その声に合わせて、信者たちの魔力が細い糸のように立ち上る。
集めている。
根こそぎ。
魔力を。
(強制的な魔力の徴収……?)
いいえ違うわね。
おそらく自発的に、魔力を差し出させる構造。
いわば魔力の寄付。
祈る信者たちの中に、明らかに場違いな者が目につく。
古傷の絶えない鎧と剣。
屈強な男たちが膝をつき、虚な表情で首を垂れている。
「帰ってことないギルドの前任者たちか……。
なるほど。
信者に組み込まれているのね」
背後からかすれた声が響き、ハイデリカが膝をついて崩れ落ちた。
「ごめんなさい先生……。
もう、立っていられなくて……」
その瞬間。
中心に立つ聖女の一人が、こちらを見た。
初めて視線が合う。
にこり、と微笑む。
「ごきげんよう……
迷える方々ですね。
さあ、意識をこちらへ。
ともに祈りましょう」
声が頭のなかに反響する。
空気がきしみ、ハイデリカの魔力がさらに引かれる。
「せんせ……っ」
私は歯を噛みしめた。
魔力の流れを強制的にオフにする。
声の残響が抜けていく。
――まずいわね。
ハイデリカは攻撃に対して、全自動で魔力を張ってしまう。
いまの彼女に、自ら魔力を抑えることは不可能。
教会に取り込まれるのは、時間の問題。
私としたことが、しまったわ。
相性が悪い……。
私は奥歯を噛みしめながら、教会全体を見渡した。
ここは戦場じゃない。
けれど、魔力の流れだけを見れば、完成された儀式空間だ。
床に刻まれた祈りの痕跡。
壁に染みついた回復魔法の残滓。
天井から降り注ぐ光すら、魔力循環の一部になっている。
(全員で、ひとつの回復魔法を回している……)
個々の詠唱じゃない。
祈りを同期させ、重ね、増幅し、常時発動させている。
だから――
信者が多いほど、
祈る者が増えるほど、
魔力は集まり、回り続ける。
そして、その中心にいるのが――五人の聖女たち。
けど、よく見ると違いがある。
「……リム」
名前を呼んだのは、中心に立つ年長の聖女だった。
声は柔らかいけど、魔力は鋭い。
「集中なさい。また、あなたですよ。流れが乱れています」
びくり、とリムと呼ばれた聖女の肩が跳ねる。
「ご、ごめんなさい……」
消えてしまいそうに小さな声。
「あなたの回復量が足りないの。
みんなで癒しているのよ?
あなた一人の問題じゃないわ」
責める口調じゃない。叱責でもない。
(逃げ場がない言い方ね)
リムは唇を噛みしめ、必死に祈りの姿勢を整えようとする。
けれど、魔力は増えない。
回復魔法に必要な流量が、彼女には決定的に足りていない。
リムは祈りながら、微かに眉をひそめている。
四聖女は淀みなく祈っている。
姿勢も呼吸も揃っている。
魔力の放出量も、ほぼ均等。
でも、一人だけ、リムという聖女だけが違う。
祭壇の端。
他の聖女たちから、わずかに距離を取るように立つ小さな影。
白衣は同じなのに、どこかぶかぶかで、袖口から覗く手首がやけに細い。
年齢は……十二、か十三。いや、それより少し上か。
肩にかかるくらいの黒髪に、幼い体つき。
それでいて、必死に背筋を伸ばしている。
(……あの子)
ほとんど、貢献できていない。
魔力の流れを見れば一目瞭然だった。
彼女から流れる魔力は、かすかで不安定で、全体の循環に乗りきれていない。
祈りの輪から、浮いている。
「――あっ……!」
ハイデリカの身体が、前のめりに倒れかけた。
「……せんせ……」
声が消えそうだ。
魔力の自動反射が、完全に裏目に出ている。
このままじゃ、ハイデリカも信者に——。
「安心なさい」
中心の聖女が微笑んだ。
「苦しみはすぐに消えます。神が受け取ってくださる」
――違う。
これは神の救済じゃない。
一方的で強引な、いわば搾取のようなもの。
(教会の構造は見えたわ。問題はどう断つか)
力で壊せば、信者が巻き込まれる。
聖女を斬れば、循環が暴走する。
となると……。
(遮断するしかない)
この教会は、一つの回路だ。
祈りという名の入力。
聖女という制御装置。
信者という電源。
なら、どこかに必ず脆い接点がある。
私は再びリムに視線を向けた。
祈りの輪から、ほんの少し外れた位置。
完全には、繋がっていない存在。
あの子を……。
そのとき。
「リム、下がりなさい」
年長の聖女の声が、鋭くなった。
「これ以上、流れを乱すなら、祈りから外れてもらうわ」
リムの顔が、真っ青になる。
「そ、そんな……。
わ、わたし、ちゃんと……
ちゃんと、聖女できますから」
言葉が震えている。
祈りの輪から外れる。
それは、この教会では居場所を失うことを意味するだろう。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
癒す者になることを夢見て、必死にしがみついている。
脳裏に、辺境の教会の風景が浮かんだ。
(あの子たちと、私の教え子たちと同じ目をしてわね)
私は静かに息を吸って、そして一歩前に出た。
「ちょっと、いいかしら」
聖女たちの祈りが、わずかに揺れた。
中心の女が、初めて眉をひそめる。
「あなたは……誰かしら?
どうして祈っていないのかしら?」
「通りすがりの、ただの死人よ。
死人は祈られることはあっても、祈ることはないものよ」
後ろ髪をはらって、私はリムを見据えた。
「あなた、気づいているんでしょう?」
リムの肩がぴくりと跳ねて、瞳が揺れた。
「この祈りの儀式。
信者を癒すフリをしているだけだって。
魔力を、ただ奪っているだけだって」
教会の空気が、ピンと張り詰める。
リムの視線が泳いだ。
聖女たちの視線が、一斉にリムに集まる。
「リム、どういうこと?
私たちを愚弄する気なの?」
「い、いえ……。わたしは、あの、その……」
尻すぼみになり、リムの体が丸くなる。
「リム——ッ」
中心にいる聖女、大聖女の顔がグググとリムによった。
「正しく、答えなさい。
この儀式は清く正しい行為なのだと」
大聖女の笑顔が、リムの真正面でとまる。
リムは手を合わせ、小刻みに震えていた。
「……あなたは、役立たずじゃない。
できる子、でしょう?
さあ、答えなさい」




