夢幻と星屑、その代償⑪
「あれ? ここって……病院?」
白い壁、消毒液のにおい、受付のカウンター――愛奈の脳裏には、さっきまで見ていた悪夢のような光景がこびりついて離れなかった。だが、ぼんやりと周囲を見回して、ようやく現実を認識した。そして、自分が病院の受付の前に立っていることに気が付いた。
妄想に浸っている間、どうやら無意識にここまで歩いていたようだ。
「あっ……」
「申し訳ありません。当院に精神病棟はございません」
「……あれ?」
愛奈は受付に声をかけようとした瞬間、なぜか先に断られてしまった。
状況が分からず首を傾げる愛奈。その向かいで、受付のお姉さんも同じ角度で首を傾げた。
「あ、ああ! 失礼いたしました。ご用件は如何でしょうか?」
「え? あ、えと、え~っと……」
すごく失礼なことを言われた……気がする。気がするけど、それよりも、今なんて答えればいいのか、すぐに出てこない。
先ほどまで全然関係ないことばかり考えていたせいで、ここで言うべき言葉がまとまっていなかった。
(なにを言えばいいんだっけ!? 『おはようございます』? それじゃ学校だよ! あああっ! 受付のお姉さんに変に思われちゃうよ!……いつの間に病院に入ったんだっけ? じゃなくて! 今はなにか言わないと~っ!)
愛奈の視線が段々下がっていき、受付の空気が微妙に気まずくなっていく。
――と。
「――五千八百円です」
「ええっ!? そんなお金持ってないですよ!?……って、あれ?」
突然の請求に驚いて顔を上げると、三対の視線が突き刺さる――受付のお姉さん、会計のお姉さん、会計に並んでいたおばあさん。
「すっ……すみませんでした~っ!」
隣の会計の声に反応してしまった――そう気づいた瞬間、顔が真っ赤になる。
愛奈は恥ずかしさのあまり、そのまま受付から逃げ出した。
(ああーっ! もうなにやってるのわたし~っ!)
あんな醜態を見せたあとで、もう一度受付に戻る勇気なんて出るはずがない。
(うう~っ! どうしよう~!)
頭を抱えてうずくまる愛奈。
その姿に気づいた一人の男性が、静かに歩み寄ってきた。
「ああ、愛奈くん。待っていたよ」
「うっ……ダリウスさん……」
低く穏やかな声に顔を上げると、そこにはスーツ姿の男性、〝翠芽の会〟の代表、ダリウス・ベルナードの姿があった。
ピュリステラ・ハーティアとして活動する際、いつも支えてくれる頼もしい人物。待ち合わせをしていた目的の人と会えたわけだが、愛奈の胸の内には苦いものが広がっていた。
◇◇◇
――コツ、コツ、と時計が時間を刻む音だけが響く。ここは病院内の談話室。以前も使用したことのある部屋。
テーブルを挟んで座る愛奈とダリウス。そして、以前はいなかった女性がダリウスの隣に立っていた。
ダリウスが隣に立つ女性を紹介しようとし――やめた。目の前の少女がうつむいたまま、こちらを見ていなかったからだ。
(さて、どうしたものか……)
ダリウスは内心で呟いた。目の前の少女は明るく、愛嬌のある娘だ。しかし、今は思いつめたようにうつむいている。
何か悩みを抱えているのは明白だが、年頃の少女に軽々しく踏み込むのもためらわれた。
ちらりと隣の女性へ視線を送る。彼女はダリウスの秘書、エリオラ。助け舟を求めたが、彼女は何も言わず、ただ視線を返すだけだった。どうやら自分で切り出すしかないらしい。
「今日は……少し元気がなさそうだね。なにか悩み事かい?」
「あっ…………その……」
一瞬だけ視線を上げたが、また下げてしまった。白いテーブルの上で、両手の指先が小さく震えていた。
ダリウスは空気を和らげようと、軽く咳払いをして口を開いた。
「ああ、こちらの女性はエリオラ。私の秘書をしてもらっている」
「え? あっ! すみません……朝丘愛奈、です」
どうやら思い悩むあまり、存在に気付いていなかったようだ。
「エリオラです。初めまして。愛奈さんのご活躍については、かねがね伺っております」
「あ、えっと……そんな、大したことじゃ……それに……」
エリオラが涼やかな声で挨拶を返す。表情はほとんど動かないが、メガネの奥にある瞳に知性の光が宿っていた。
「それで、ダリウスさん……その……」
挨拶を口にしたことにより、ようやく言葉を紡ぐ決意が固まったのだろう。だが、視線は相変わらず下を向いており、唇がかすかに震えていた。
「わたし……もう、ピュリステラ・ハーティアとして……戦えないです」
「……っ!」
ダリウスが息を飲む。どうやら少女の悩みは重く苦しく、そしてダリウスにも直接影響のあることのようであった。
「そう、かい……」
愛奈の口から出た言葉に衝撃を受けたダリウスは二の句が継げずにいた。
(愛奈くんに離脱されるとなると、今後どうするべきか)
翠芽の会にも、戦闘を主に担うメンバーはいる。今まで現れた侵魔に対して十分に対応できていた。
(だが、最近現れた侵魔は明らかに……)
ガドボーグにウルギルヘルト――固有の名前を持つ、今までの侵魔とは一線を画す存在。翠芽の会の現有戦力では歯が立たず、今後も同格の脅威が出現しない保証などどこにもない。
(愛奈くんの……ピュリステラ・ハーティアの力を抜きに、あのレベルの侵魔に対抗するのは不可能に近い……)
しかし――少女に戦いを強いることなど、あってはならない。本来なら、彼女は平穏な日常の中で笑って過ごすべき〝守られる側〟の存在だ。
今まで戦ってくれていたのは、あくまで彼女の善意があってこそだ。
「一応、理由を伺ってもいいかい……?」
できれば彼女を戦いから解放してあげたい。『後は我々に任せてくれ』――そう言えたらどんなに良かったことか。けれど、それを言うには今の自分たちの力はあまりに頼りなかった。
幼い少女に重荷を背負わせていることに酷く罪悪感を感じる。だが、事が事だけに、聞かないわけにはいかなかった。
「だって、わたし…………ぐすっ、わたし――!」
堪えていた感情が、ついに決壊した。愛奈の目に涙が溜まる。
最初は掠れるような声だったが、やがて嗚咽まじりに、堰を切ったように言葉があふれ出していく。
「――哀れな蝶になるしかないんですぅ! ボロボロのアパートに住んでいたところにチンピラさんがやってきて、アニキさんに連れ出されて、怪しいお店で働かされちゃうんですぅ! 先輩たちからいじめられて、店長さんにもはめられて、エッチなバニー服着せられちゃいますぅ!……そして最後にはっ、邪なおじさんに買われてペットにされてホテルに連れていかれて……! それで、それでぇ~! うわぁぁぁ~ん!」
言い切った愛奈はテーブルに突っ伏し、両腕で顔を覆って盛大に泣き始めた。
「あ、哀れな蝶? バニー服?……ぺ、ペットぉ!?」
少女の悩みを真剣に聞いていたダリウス。しかし、なにを言っているのか分からなかった。言葉は分かる――だが、なにを意味しているのか、どうしてその言葉が今出てくるのか、全くもって見当がつかなかった。
長年、マナや古代語を研究してきた彼でも、この言葉だけは解読不能で意味不明だった。
「あああっ、愛奈くん! お、おち……落ち着くんだっ!」
必死で宥めようとするダリウス。しかし、当の本人のほうが完全にテンパっていた。彼の焦りが伝わるほど、愛奈の泣き声はますます大きくなるばかりだった。
「ううぅ~っ! お姉ちゃんゴメンね~っ! わたし、魔法少女なのに穢れちゃったよ~っ!」
「穢れるっ! いやいや、バニー服は汚くなんかないぞっ! ああいや、そうではなくってだねっ!」
「……」
噛み合わない会話を繰り広げる二人。そんなダリウスの様子を一瞥したエリオラは、静かにため息をひとつつくと、無言のまま愛奈の隣へと歩み寄る。
そしてしゃがみこみ、泣きじゃくる少女の背をそっと撫で始めた――
「うぅ~、ぐすっ…………物覚えが悪くて、ごめんなさい……」
しばらくして、愛奈の嗚咽が少しだけ落ち着いた。とは言え、瞳はたまった涙で潤んでおり、どこか暗い影をまとったまま、何か変なことを呟いている。
「それで……愛奈くんはなにに悩んでいるんだい? 済まない。先ほど言ってくれたことが、うまく理解できなくてね……」
ダリウスは慎重に言葉を選びながら、なんとか悩みを聞き出そうと試みる。その言葉に反応し、愛奈はうつむいていた顔を少しだけ上げた。
「ダリウスさん………………あはっ、そっかぁ♪」
「んんっ!?」
愛奈がゆっくりと立ち上がる。着崩れた服装に乱れた髪、光を失った瞳と薄く笑う口元。
「わたし……ドジでマヌケで、チビで色気もありませんがぁ……」
覚束ない足取りでふらりと近づいてきた。退廃的で怪しい雰囲気は未成年とは思えないほどに危うい色香が漂っていた。
「おっぱいの大きさだけはぁ、おじさんにも褒めてもらえたんですぅ……♪」
「あああ、愛奈くんっ!?」
そう言って胸元のボタンを一つ、妖艶に外す。その反動で大きな胸が、瑞々しく揺れた。
「だからぁ……おじさんより先にぃ、ダリウスさぁん……」
「な、なんだいっ!?」
身の危険を感じてダリウスが立ち上がった。愛奈はさらにボタンを外しながらにじり寄り、青白い顔と生気のない瞳でダリウスのことを見つめる。
「わたしを――」
全てを受け入れるように腕を広げ――
「――買ってくださぁい……♪」
「――っ……!?」




