夢幻と星屑、その代償⑩
『グラスにお酒、お注ぎしますね!』
『んっ? ああ、頼むよぉ』
またしても何の説明も受けないまま、同席を命じられた愛奈。
席に座ると、脂ぎった肌に汗ばんだシャツ、大きく弛んだお腹。そして、嫌らしさを隠そうともしない顔――最初の客とほとんど違いが分からない男がいた。
(まだ、何も教えてもらってない……)
けれど、ただ座っているだけでは役に立てない。少しでも仕事を覚えようと、彼女なりにできることを探して動いた――その瞬間。
――ドンッ!
『ああっ!?』
『うおぁ!? 何してるんだぁ!』
背後から強く押され、手元のボトルが揺れる。お酒が飛び散り、客である男の太ももにこぼれてしまった。
『すっ、すみません~!』
『まったく! クリーニング代だって安くは無いんだぞぉ!』
怒りに顔を真っ赤にした男の太ももを、愛奈は慌てておしぼりで拭う。その耳にクスクスとした女性たちの笑い声が微かに聞こえた。
『AINAちゃん、あなたはもういいから替えのおしぼりと氷、それから追加のボトルを持ってきて』
『はっ、はい!』
先輩の声は柔らかいのに、そこには明らかな冷たさがあった。愛奈は頭を下げて急ぎ足でカウンターへ向かう。これ以上、迷惑をかけたくなかった。
――だが。
『あっ――!』
ガシャーン!
通路に足をかけられ、愛奈の身体が前のめりに倒れる。
手にしていたトレイが宙を舞い、氷が床にまき散らされた。
『すみませんっ! すみませんっ!』
店内に響く音。視線が一斉に注がれ、空気が冷え込む。客たちは迷惑そうに眉をひそめ、女たちはにこやかに笑って場を取り繕う。
『ごめんなさいねぇ。若い娘だから酔っぱらっちゃたのかも~』
『あなたの姿に目を奪われて足がもつれちゃったみたいね~』
『転んだ娘じゃなくて~、私の方を見て欲しいな~』
誰も助けようとしない。その笑顔が、まるでガラスのように冷たく光っていた。
愛奈は濡れた制服のまま立ち上がる。お酒と水が混ざり合って足元に広がり、布が肌に張りつく。冷たさと恥ずかしさが同時に押し寄せ、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
『あらぁ、AINAちゃんってば、びちょ濡れじゃな~い!』
『店長! すみません……わたしがドジな、ばっかりに……』
通路側にはキャストしかいない。足を引っ掛けたのは彼女たちの誰かだ。けれど、証拠もない以上、無暗に責めることなどできない。愛奈は唇を噛みしめ、ただ頭を下げた。
『奥に着替えを用意したから、それに着替えてらっしゃい』
『えっ? でも、わたしが着られるドレスは無いって――』
開店前にそう言われていたはずだ。だが、店長はにこやかに笑う。
『ちょうどあなたでも着られる服が一着あったのよ』
『そうなんですね! ありがとうございます! じゃあ、着替えてきます!』
愛奈は素直に頭を下げ、奥の控室へと向かった。その背中を見送りながら、店長は低く笑う。ほの暗く、嗜虐的に――
『なんで……こんな服がお店にあるんですかっ!?』
着替えを終えた愛奈は、鏡に映る自分の姿を見て凍りついた。
『似合ってるじゃな~い。いいわよぉ、AINAちゃ~ん』
『皆さんの服装と全然違いますよ!? だってこの服――』
ラメの入ったピンク色のビスチェのような肩を露出したボディスーツ、脚にはきめ細やかな網目のパンティストッキング、首には蝶ネクタイ付きの付け襟、腰には丸いふわふわの尻尾の飾り。そして、極めつけは――長いウサギの耳が揺れるヘアバンド。
そう、愛奈の着せられた衣装は――
『バニー服じゃないですかっ!』
裏返った声で叫ぶ。
脚の付け根の深く鋭角なカットも恥ずかしいが、愛奈にとってそれ以上の問題は別にあった。
(お胸が……こぼれちゃうよ~っ!)
ワイヤーで形を保つ胸元は、愛奈の豊かな胸を収めきれていない。ぎりぎり先端まで隠せてはいるものの、少しでも姿勢を崩せば――そう思うだけで、顔が熱くなり、手が胸元を押さえる。
『着替えたなら早くお店に出て頂戴ね~』
『こ、これで本当にお店に出るんですかっ!?』
『ぐずぐずしてたらその分お給料減額よ~』
『うっ……わ、わかりました……』
お金のことを出されては、もう逆らえない。愛奈は唇を噛みしめ、鏡から目を反らし、控室から出ていった。
『むっ、貴様はさっきの……』
『先ほどのお客様っ!? すみません、スーツを汚してしまい……』
店に出た愛奈は、よりによって――お酒をこぼして怒らせたあの男と鉢合わせてしまった。
男は愛奈の服装を見た後、視線が愛奈の顔の胸元で止まった。
『ほほぉ……君ぃ、ワシの席に来なさい。そうしたらスーツの件は許してあげようじゃあないかぁ』
『うっ……!』
愛奈のむき出しの肩に男の掌が置かれた。汗と脂が滲んだねっとりとした生暖かい感触が直接伝わり、思わず肩が跳ねた。
『どうしたぁ? このスーツは特別なものでねぇ……クリーニング代は五万もするんだぁ。それを許してあげるって言ってるんだよぉ』
『ご、五万!? あ、いえ……い、行きます』
『ふっふっふ、分かればいいんだよぉ』
男は愛奈の肩を抱き寄せ、そのまま席へと歩き出した。愛奈は小さくうめき声を漏らしたが、それ以上は何もできず、おとなしくついていった。
『あら~、おかえりなさいAINAちゃ~ん』
席には先ほど同じように先輩が座っていた。言葉では愛奈を歓迎していたが、その表情は冷たい。
『あ、あはは……また、失礼します』
愛奈は愛想笑いを浮かべ、男と並んで腰を下ろす。途端に、太い腕が彼女の腰に回され、ぐいっと引き寄せられた。
『AINAちゃんだったかぁ。背も小さいし、色気も無いと思っていたがぁ……』
男の視線が、顔から胸元へとゆっくり降りていく。荒い息が肌をかすめ、思わず背筋が凍った。
『立派なおっぱいを持っているじゃあないかぁ。どれどれぇ』
バニー服で強調された愛奈の胸の谷間に男の視線が吸い込まれる。そして、その手が愛奈の胸に伸びていき――
『だっ……ダメっ、ですよっ、おさわりはっ……!』
『あぁん?』
『ひぅ……!』
愛奈は反射的に胸を両腕でかばった。しかし、その行動で男は機嫌を悪くする。
『ごめんなさいねぇ、その娘でもおさわりは禁止なのよぉ』
『せ、先輩……っ!』
客を怒らせてしまったと怯えていた愛奈は、思わぬ助けに胸を撫で下ろす。ほんの少しだけ、救われたような気がした。
――だが。
『で~も~……』
隣で先輩が、ゆっくりと意味ありげに笑う。その言葉の続きを、愛奈は聞き逃した。安心のあまり、気づかなかった。
だが、気付いたところで何も変わりはしない。なぜなら既に、囚われの蝶なのだから――
『おい店長!』
『あら~、どうしましたの、お客様ぁ?』
『ワシは決めたぞぉ! AINAちゃんを買う!』
『えっ……か、買う? せ、先輩っ!? どういうことでしょうか!?』
その一言に、愛奈の思考が一瞬で凍りつく。一体――自分の、何を〝買う〟というのか。答えを探す暇もなく、男と店長の会話はどんどん進んでいった。
『あら~、おめでとう、AINAちゃ~ん。これであなたはこのお客様のペットになったのよ~』
『ぺ、ペット……?』
にこやかに告げられたその言葉に、背筋がぞくりと冷える。
――考えたくなかった最悪の意味。それを、先輩がはっきりと口にした瞬間だった。
『そ、そんな人身売買みたいなことっ! 法律的にダメじゃないんですか!?』
『うふふ……』『ははは……』
愛奈の当然の抗議にも、周囲は冷ややかに笑うばかり。誰ひとり、愛奈の言葉を聞こうとはしない。
法律的に言えば、こんな深夜にまで接待していることも、ましてや未成年で学生である愛奈がキャストとして働くことも、許されてはいない。
それでも平然と営業している時点で、この店には法律が正しく及ばない力が働いていることは明らかである。
『なんで、誰も何も言わな――うっ! げほっ、げほっ!』
なおも声を上げようとした愛奈の顔に、店長が紫煙をふきかけた。
鼻をつく刺激臭にむせながらも、店長はあくまで無言で笑顔のまま。
『あらあら大丈夫? はい、これで喉を潤して~』
『すみません。げほっ! ありがとうございます……げほっ! これなんですか!?』
先輩が渡してくれたグラスの液体を勢いよく飲んだ愛奈。しかし、水だと思った液体が喉を強く刺激した。
途端に頭がふらりと揺れた。
『一気飲みなんてすごいわぁ、度数の高いお酒なのにねぇ』
『お酒っ!? 未成年だから飲んじゃダメだってお姉ちゃんがっ!……あ、あれぇ~、おほしさまがぁ、まわってるぅ?』
視界が滲み、光が弾ける。
男が笑いながら肩を支え、愛奈の身体を引き寄せた。
『おっとぉ、酔いつぶれちゃったらダメじゃないかぁ。お楽しみはこれからなんだからぁ。ねぇ、AINAちゅわ~ん』
愛奈は熱い吐息をもらし、潤んだひとみで男を見上げる。滲んだ視界の中、もはや欲望を隠そうともしない男の気持ちわるい笑みだけははっきりと見えた。
『ふっふっふ……背は小さくて子どものようで、好みではないと思っていたがなぁ、案外顔も悪くないじゃないかぁ。だがそれ以上に、このおっぱいを自由に弄べると考えるとぉ……ぐふふっ!』
『いやぁです~、そんなのぉ、だめれすよぉ……』
もう、何が現実なのかも分からなかった。
黒服たちによって男と共に車に乗せられ、ホテルに着き、男と一緒に入っていき、そして、そして――
「あああーっ! そんなのダメー! ダメったらダメェーーっ!」
「う、うわあっ……!?」
「あ、あの子……大丈夫、じゃなさそうね……」
現実に戻った愛奈は、勢いよく上体を起こした。頭をブンブンと振り、必死に最悪な想像を振り払おうとする。
「ホテルって中どうなってるのか知らないよーっ! ていうか、こんなの放送できないよーっ!」
なおも激しく頭を振り続けた。それでも、嫌な想像が頭にこびりついて離れない。
「う、うわぁ~……」
「あ、あの子……もうダメそうね……」
周囲の人々はその奇行に目を丸くし、呆れかえって気まずそうに距離を取った。だが、当の本人にそんな視線を気にする余裕はなかった。




