夢幻と星屑、その代償⑨
――ピッ
「うっ、残高がっ……」
優奈のいる病院の最寄り駅で改札を抜けた瞬間、機械音が無情に響いた。通学で使用する区間の駅ではないため、改札を通る際に運賃がかかった。
「帰りは、歩いて帰ろうかな……」
たかが数百円、されど数百円。お金に悩む少女は極端な節約志向に走る。
(歩いたらどのくらい時間かかるかな? 一時間? 二時間? 夕飯作る時間と体力が……そしたらお惣菜? ううん、それじゃ結局無駄遣いになっちゃうよ……)
病院への足取りが重く感じられる。ここまで来る間にいろいろ考えたが、結局解決策となるような考えはまとまっていない。
(でっ、でも……入院費用が足りないからって、そんなすぐに追い出されたりするのかな? そんな話、聞いたことないし)
焦燥を鎮めようと、愛奈の思考は〝安心できる理由〟を探し始める。
(外国なら分からないけど、命に関わることだし……なんか、こう、待ってくれたり?)
「あっ!」
〝待つ〟という言葉を使うことで、己の中の考えがまとまっていく。
「そっか、お金を払うのを待ってもらえばいいんだっ!」
お金が無くなればすぐに生活できなくなるのか。そんなことは無い。ない時に借りて、後で返す。お金だって同じだ。
「よかった~。お姉ちゃんがすぐに追い出されるようなことは無いよねっ!……あれ? でも、お金を借りるって……」
安堵の笑みを浮かべたのも束の間――〝お金を借りる〟という言葉が、頭の中で反響した。
(お金を借りるって……つまり、借金……?)
脳裏に黒い影が差す。
借金といえば――利子。そして……〝借金取り〟。
(借金取りって……ドラマとかで見たこと、ある……)
愛奈の脳裏に最悪な想像が急激に膨らみ、明確に形を帯びていく――
――ドンドンドンッ!
玄関を激しく叩く音が、古びたアパートに響き渡った。
お金を失った愛奈は、築60年は優に超えるであろう木造アパートの一室に、人目を避けるようにひっそり暮らしていた。
日当たりは悪く、空気はかび臭い。そのくせ建付けが悪く、夜になるとすきまから外の冷気が忍び込む。だが――家賃が安い。それだけが、この劣悪な環境を選ぶ唯一の理由だった。
そんな寂れた住宅街に、不釣り合いなほど荒々しい音が鳴り響く。
『いるんでしょ~? 早く出てきてくださいよぉ! 朝丘さぁーん!』
野太い男の怒声。
次の瞬間、再び――ドンドンドンッ! と、壁ごと揺れるほどのノック音が響いた。
(もうっ! こんな時間からっ!)
古い建物に防音など望むべくもない。洗濯機の音すら気を遣うほどの壁の薄さだ。
その中でこんな騒ぎを起こされたら、隣や上の階にだって響いてしまう。
『や、止めてください! そんな大きな音を立てないで! わたしはともかく……周りに迷惑がかかります!』
愛奈は悲鳴混じりに訴えながら、震える手を押さえつけて玄関のドアを開けた。
その瞬間、彼女の視界に――二つの影が差す。
『いるんじゃあないですかぁ。だいたい、迷惑かけてるのは借りた金を返さない……朝丘さんの方じゃあないんですかねぇ!』
『やめとけ』
『へいっ、アニキ!』
一人は、金髪にジャラついたネックレス、見るからにチンピラ風の男。
もう一人は――〝アニキ〟と呼ばれた大男。
黒いスーツをきっちり着こなし、サングラス越しに冷たい眼光を光らせている。広い肩幅が玄関を覆い、立っているだけでその場の空気がずしりと重くなるようだった。
『なんのご用ですか?……お金の返済期限は、まだ先ですよね?』
恐怖を押し込めながら、愛奈は気丈に振る舞う。
『期限はまだ先ぃ? あんたが返せないからって延び延びになってるだけですよねぇ? 最初の期限がいつだったか覚えてますぅ!?……もう一年も前なんだよっ!』
『ひぅっ!?』
怒声とともに、チンピラが玄関を蹴りつけた。
ドンッ! という衝撃音がアパート中に響き、愛奈の体がびくりと跳ねる。
『さがれ』
『へいっ、アニキ!』
『……っ!』
アニキの一言でチンピラは一歩下がる。代わりにアニキが一歩――静かに前へ出た。
ものすごい威圧感が愛奈を押しつぶそうとのしかかってくる。行動で脅してくるとはいえ、チンピラの相手をしている方がまだマシだったと思えるほどのプレッシャーがかかる。
『それで、金の工面はできそうか?』
『えっと……し、シフトは増やしているのですが……あのっ、時給は上げてもらえなくて、それで……その……』
アニキから繰り出される短い質問。だが、愛奈には死刑宣告のように感じられた。
『つまりぃ、返す気はねぇってことかぁ!? まだ利子分も返してもらってねぇんだが!』
『返す気はあります! 待っていただければ、少しずつですが……なんとか!』
チンピラがすごんできたが、アニキの威圧感に比べれば大したことはない。
『その間にも利子は増え続ける。なぁ、朝丘さん、あんたにひとつ仕事を紹介してやる。今よりずっと稼げる話だ』
『っ! わっ、分かりました……』
アニキのプレッシャーにより反射的に答えてしまった。しかし、どの道このままこの生活を続けてもいずれ破綻することは分かっていた。
『そうか。なら――乗れ』
アニキが顎で外を指す。
玄関の前には黒塗りの高級車。ドアの前に移動したチンピラがニヤリと笑い、愛奈を急かした。
『さっさとしな。アニキの時間を無駄にすんじゃねぇぞ』
『す、すみません……』
恐る恐る車に乗り込むと、革のシートがひんやりと背中に触れた。
車内には香水ともタバコともつかない匂いが漂っている。
『それで……ど、どこに行くんですか……?』
『はっ! アニキの知り合いがやってる飲食店だよ。あんたにはその店でウェイトレスとして働けばいいんだよ!』
チンピラが上機嫌に答える。
愛奈はほっと胸をなで下ろした。
(よかった……飲食店なら、わたしにもできるかも……!)
『行くぞ』
だが――ただの飲食店が高い給料を払うはずもない。
現実を知らない少女を乗せ、黒塗りの車は静かに走り出した――
――私は蝶。ネオンの檻に囚われた、哀れな蝶。
誰とも知らない女性の声が夜の街に溶けていった。
ここは、シ○ジュク・カ○キ町。この国で一番有名な歓楽街。
時刻は深夜。なのに昼よりも騒がしくギラついた不夜の街。
『はぁい、みんな注目~! 今日からこのお店で働く新人よぉ』
タバコを指に挟んだ、どこかなよっとした男が店内にいる全スタッフに対し招集をかける。紫色の煙を吐くこの男が、どうやらこの店の店長のようだ。
『この娘が新しい娘~! その名も~〝AINA〟ちゃん~!』
『あ、AINAです……よろしく、お願いしますっ!』
ここは、カ○キ町の中にある飲食店の店内。どこか薄暗く、それでいてきらびやかで洗練された大人の空間。
アニキに連れられた愛奈はこの店で働くことになった。
『あら~、ちっちゃくてカワイイ娘ね~』
『アニキさんからの紹介でしたっけ~?』
『そんなに硬くならなくても大丈夫よ~』
『これから一緒に仲良くしましょうねー』
『は、はいっ! わたし、頑張ります!』
店内にいる女性が代わる代わる愛奈に話しかける。誰もが美しく、華のある女性ばかりである。
そんな女性たちの眩しさに圧倒された愛奈。学校の制服姿のままであり、場違い感が拭えない。
(でも、皆さん優しそう……これならわたしもやっていける!)
和気あいあいとした挨拶。これなら大丈夫と、そう安堵した愛奈。
しかし、その美しい顔の裏にある醜い本性をすぐに思い知ることになる――
『お客様が来たわよ。さ、行きましょう、AINAちゃん』
『えっ? あ……はい!』
仕事として何をするのか全く聞かされていない状態で先輩から同席を求められた愛奈。戸惑ってしまうが、雰囲気を悪くするわけにはいかず、元気よく返事を返す。
『おやぁ……初めて見る顔だねぇ。新人さんかい? 若いねぇ……ふふ、いいじゃないかぁ』
愛奈の初めての客――脂ぎった肌に汗ばんだシャツ、大きく弛んだお腹。そして、嫌らしさを隠そうともしない顔。
『よ、よろしく……おねがいします……っ!』
生理的嫌悪感を催すが、相手は客として来ている男。愛奈は意を決して席に座る。
『……ほら、AINAちゃん。何しているの?』
『ええっ!? 何をすればいいんですかっ!?』
何も分からない愛奈に、先輩から鋭い叱責が飛ぶ。
『君ぃ、新人だからって分かりませんはダメじゃないかぁ』
『ごめんなさいねぇ。この娘、物覚えが悪くってぇ』
『まったくぅ、今時の若いものと来たら。ワシの時代なんて――』
『素晴らしいです! あの時代を築いてくださった方がいらっしゃるから――』
結局愛奈は何も分からず、誰からも教えてもらえず、ただそこに座っていることしかできなかった。
(何も教えてもらえない……でも、皆さんの動きを見て真似してみよう!)
愛奈はへこたれずに頑張ろうとする。しかし、この場所に満ちる濁った悪意に、そんな純粋さは通じなかった――




