夢幻と星屑、その代償⑦
(入院費用……にゅーいん、ひよう……)
学校を出て、優奈が入院している病院へと向かう道。愛奈はスクールバッグをぎゅっと握りしめ、ふらふらと足を進めていた。
焦点の合わない瞳、こめかみに浮かぶ冷や汗、そして絶えず口から漏れる小さな呟き。その様子には、どこか不気味な迫力すら漂っていた。
「う、うおっ……!?」
「あ、あの子……大丈夫なの……?」
たまにすれ違う人はそのただならぬ様子を感じ、自然と道を開ける。
だが、愛奈に周囲を気にする余裕はまるでなかった。ただひたすら、同じ言葉を繰り返す。
「にゅーいん、ひよー……ニューイン、ヒョー…………new in hi yo……?」
〝入院費用〟――その言葉が頭の中をぐるぐると回り続け、だんだんと言語が崩れていく。それでもなお、その言葉は愛奈の頭の中に響き続ける。
(今日はお姉ちゃんに会って、お話して、笑い合って……良い一日になるはず、だったのに……)
けれど、そのささやかな願いは、現実の重みに押しつぶされてしまった。
(入院費用って……どれくらいかかるんだろう? もう結構な額になってるのかな? お姉ちゃんの入院が続いたら、これからもずっと増えていくの……?)
考えたこともなかった疑問が、次々に浮かんでくる。いくらなんでも、全部がタダというわけにはいかないはずだ。
救急車はタダかもしれない。けれど、その後の治療、薬、ベッド代――思い返せば、入院というものを身近に感じたことなど一度もなかった。
今までは、それが〝幸せ〟ということだったのかもしれない。けれどいま、その幸せの外側に立たされた愛奈は、初めて〝現実〟というものを、はっきりと考えさせられていた。
(いま家にお金って、いくらあるんだろう……?)
お金の管理は優奈が行っていた。愛奈も何度か家計簿を見せてもらったことがあったが、数字を見ただけで頭がぐるぐるしてしまい、数分も経たずに閉じてしまった。
そのたびに優奈は笑いながら言ったのだ――「お金のことは私に任せて。愛奈は心配しなくていいのよ」と。
とてもありがたく、それに甘えていた。しかし、今はその優しさが仇となっていた。
(お家にあるお金で……足りるのかな? もし足りなかったら、どうなるんだろう……?)
愛奈の脳裏に嫌な想像が膨らみ、形を帯びていく――
『あー、朝丘さん。入院費用が足りませんなぁ。なので明日、荷物をまとめて病院から出てってください』
『ま、待ってください先生! まだお姉ちゃん眠ったままなんです! 出ていけと言われても……どうすればいいんですかっ!?』
『そう言われましても。こちらもできれば治してあげたいのですが、如何せんお金を頂けないことには……慈善事業ではありませんのでねぇ。では患者が待っていますので私はこれで』
『お姉ちゃんだって患者じゃないんですか!? 待ってください! 先生!? 先生ーっ!』
とある病室、未だ眠り続ける優奈は入院費用を理由に追い出されることが決まった。医者は無慈悲に出ていくように伝えるだけで、愛奈の必死の懇願にも一瞥だにしなかった。
『ぶへぇっ!』
そして次の日、愛奈と優奈は病院から追い出された。物理的に病院の外に〝ぽーん〟と放り投げられ、愛奈は地面に顔面を打ち付ける。
『ぅ……ぐっ……』
『お、お姉ちゃん!? お姉ちゃん、大丈夫!? 先生っ! お姉ちゃんの体調がっ!』
優奈の顔色はみるみる青くなり、苦しそうに息を荒げていく。
愛奈は必死に声を張り上げたが――誰も来なかった。
『病院の入り口で大声出して騒がないでください。患者様に迷惑がかかりますので』
『いや~ねぇ、最近の若い子はぁ。周りの迷惑も気にしないでぇ。どんな躾け方したらああなるのかしら……親の顔が見てみたいわぁ』
それどころか、看護師も病院に入ろうとするおばさんも愛奈たちを迷惑そうに見るだけだった。
『お姉ちゃん!? お姉ちゃんっ! おねえちゃーん!』
愛奈の小さな身体では、優奈を背負って移動することも叶わない。己の無力さを痛感し、ただその手を握って呼び続けることしかできなかった。
そして、優奈の息が段々と荒く浅くなり、そして、そして――
「あああーっ! そんなのダメェーーっ!」
「う、うおおっ……!?」
「あ、あの子……大丈夫かしら……?」
現実に戻った愛奈は、勢いよく上体を起こした。頭をブンブンと振り、必死に嫌な想像を振り払おうとする。
周囲の人々はその奇行に目を丸くし、気まずそうに距離を取った。だが、当の本人にそんな視線を気にする余裕はなかった。
(お金……お金が足りなかったら、どうすれば……あっ! そうだ!)
妄想から戻っても現実の問題は解決しない。再びお金について考え始めた愛奈の頭に、あるひとつの考えが浮かんだ。
「足りないなら、稼げばいいんだっ!」
ついにつかんだ解決への糸口――そう思ったのも束の間。すぐに現実という分厚い壁に突き当たる。
(稼ぐってどうすればいいんだろう? お姉ちゃんみたいに就職して働く?……でも、未成年じゃできないかも。う~ん、そしたらやっぱりアルバイトなのかなぁ)
カフェ、コンビニ、ファミレス――ぱっと思いつくアルバイト。愛奈もお店に貼られている求人募集を何回か見たことがある。さらに言うと、アルバイトをしようと考えたこともあった。
(時給は……たしか千円くらい? 週に三回で、一日六時間働いたら――ひと月のお給料は……えっと……)
額に指を当てて真剣に考えるが、すぐに目がぐるぐると回りはじめる。
頭の中で数字が暴れ回り、足し算も引き算もぐちゃぐちゃになっていく。
(よく分かんない! でも……たぶん、足りない気がする……)
胸を張ったはずの「稼げばいいんだ!」は、ものの数十秒で崩壊。愛奈はがっくしと肩を落とした。
(――いやっ、まだだ! まだ諦めるには早いっ!)
病院に向かうため、電車に乗った愛奈。どこかのアニメで聞いたようなセリフを心の中で叫び、スマホを取り出す。
画面を見つめる瞳は真剣そのもの。指先が忙しなく動く。
(バイト……高額……そして、検索ぅ!)
街で見かける一般的なバイトの時給では足りる気がしない。しかし、世の中には一般的には知られていない高額なバイトがあるはず――その可能性を信じ、愛奈は一縷の望みを託す。
(違う、これも違う……これは広告……うぅ~、そんな都合よくはいかないのかなぁ……あっ! これはっ!)
高速でスクロールするスマホの画面を血走った目で見つめる愛奈。そして、ついに――その目が、理想の文字をとらえた。
『日給10万円らくらく可能!未経験OK・誰でもできる簡単WORK』――経験・学歴・資格一切不要! 社会人・学生・主婦どなたも歓迎! この募集を見た人限定! 作業内容は〝荷物を受け取って届ける〟だけ!
(すっ、すごいっ! 本当にあったんだ……! こんなバイトが!)
愛奈は両手でスマホを握りしめ、胸の前に掲げる。こみあげる感動に目頭が熱くなり、思わず目をぎゅっと閉じた。
車窓から差し込む陽光が、まるで天から降る祝福の光――〝天使の梯子〟。
(ああ……バイトの神様……! わたしたちを見捨てなかったんだねっ! ありがとうーっ、バイトの神様~っ!)
優しそうなお髭の顔のバイトの神様が天から微笑みかけてくれる――そんな姿を幻視した。
心の底からの感謝を捧げる。視界を防いでいた霧は晴れた。頬がゆるみ、胸の鼓動が熱く弾む。
(そう……世界がわたしを導いてくれてるんだっ!)
愛奈の脳裏に素敵な想像が膨らみ、形を帯びていく――
『この荷物を今日中に届けなければならないというのに、一体どうすれば……』
とあるオフィス。小さな段ボールを抱えた男が、絶望の色を浮かべて立ち尽くしている。
周囲にはスーツ姿の社員たちが数名。誰もが不安に飲まれ、ただおろおろと立ち尽くすばかりだった。
『ふふっ……その荷物、わたしが届けますよ!』
『あっ……あなたはっ……!』
オフィスの扉が開き、差し込む光の中にシルエットが浮かび上がる。
逆光の向こう――颯爽と現れたのは、このオフィスの救世主にして奇跡の少女。
『まさか……朝丘さんっ!?』
『今日すでに三個の荷物を運んでいるというのに、まだ運んでいただけるんですかっ!』
『しかし、これ以上あなたに頼るのは……』
ざわめく社員たちの中を、愛奈が静かに歩み出る。
制服姿のまま、頬には汗の光がきらめいている――だが、その顔に疲労の色は微塵もない。
『その荷物を待っている人がいるんでしょう? わたしのことは、心配ご無用です』
キリッとした表情で荷物を抱き上げる愛奈。その瞬間、オフィスには歓声が響き渡る。
『さすが朝丘さん! 頼りになりますっ!』
『我らのスピードスター〝A・I・NA〟!』
『悔しいが……やっぱり、あんたには敵わねぇな!』
社員たちが口々に賞賛の声を上げる中、ひとりの初老の上司が感極まって涙ぐんだ。
『わかりました。わが社の社運を……その荷物をあなたに託します。あぁ……あの日、あなたがこの仕事を選んでくれたことをバイトの神様に感謝します』
『わたしがこの仕事を選んだのは偶然ですよ……ですが、それこそが――バイトの神様がもたらした運命なのかもしれませんね』
『感謝の気持ちを込めて、次回のお給料はボーナス込みで50万……いえ、それでは私の気持ちが収まりません! 百万円をお渡ししますっ!』
その瞬間、オフィスは大いに盛り上がりを見せる。
『ひゃ、百万円っ!……でも、朝丘さんの活躍を考えれば当然ね!』
『す、すげぇ……姉御! これからは姉御と呼ばせてくだせえっ!』
『素敵っ! お姉さまと呼ばせていただけませんかっ!』
熱狂する社員たちをよそに、愛奈はクールに荷物を持ち直し、背筋を伸ばす。
『ふふっ……わたしは困っている人に荷物を届けるだけですよ。――では、行ってきます!』
そうして愛奈は颯爽と駆け出していく。
『『A・I・NA! A・I・NA! A・I・NA!』』
オフィスから響く愛奈コールを背にし――




