第3話:影に潜む香り
朝靄が後宮の屋根瓦をぼんやりと包み込む頃、シンファは薬房の隅でひとり、茶葉の断片を手にしていた。
まだ昨夜の出来事が胸を締めつける。消えたはずの茶葉が見つかったが、その姿は無残だった。香りは歪み、どこか不自然な腐敗を含んでいる。
(誰かが……わざと混入物を隠そうとした)
彼女の指先は震え、思わず息を呑む。
夕刻、翠華宮の廊下には沈黙が漂っていた。だが、その静けさを破るかのように、侍女たちのささやき声がひそやかに広がる。
「リーシャの容体は?」
「まだ危険な状態だって」
「香りの異変と関係あるのかしら」
その中で、黒い瞳が静かにひとりの女を見つめていた。
宦官の李華だった。彼の表情は穏やかに見えるが、その瞳は冷徹に周囲を計っている。
「香りは単なる装飾ではない。情報を隠す道具でもある」
彼の考えは深い。後宮は表向きの華やかさの裏に、底知れぬ闇を抱えていた。
その夜、シンファの小さな寝所に、軽いノックが響いた。
「シンファ、起きているか?」
声の主は李華だ。
「お忙しいはずなのに……」
「話がある。来てくれ」
シンファは急いで身支度を整え、李華の案内で離れの書庫へ向かった。
書庫は静まり返り、古い薬草書や医学書がひしめいている。
李華は扉を閉めると、低い声で言った。
「お前の薬学知識は本物だ。だが、今後はもっと慎重に動け。お前の正体が露見すれば、命の危険がある」
シンファは黙って頷いた。
「そして、この茶葉の件だが、単なる盗難ではない。誰かが後宮内で……毒を用いた陰謀を企んでいる」
「……私には何ができるでしょうか」
「共に謎を解き明かすことだ。お前の観察眼と知識が必要だ」
翌朝、再び茶葉の成分分析を進めるシンファの背後に、沈婆が静かに現れた。
「若いのにずいぶんと気が強いな」
沈婆の声には不安と同時に、どこか励ますような温かみもあった。
「この後宮で、生き延びるにはその強さが必要だ」
シンファは小さく笑った。
「ありがとうございます。私、諦めません」
その時、廊下の向こうから突然、遠くで何かが落ちる音がした。
不吉な予感が胸をよぎる。
(この後宮の闇は、まだ始まったばかり——)
シンファは拳を握りしめ、次の一手を思案した。