第1話:においと沈黙
夏の名残を感じさせる風が、後宮の裏庭をかすめていく。
盆の縁に積もった黄砂の粉をぬぐいながら、シンファは手桶の水をそっと布に含ませ、ほころびた石畳を拭いていた。
今の身分は、翠華宮に仕える下女。それも掃除専門。名もなく、顔も覚えられぬような、数百人いる下働きの一人に過ぎない。
だが、彼女の目元は油断なく光っていた。
(少し前より、妙な匂いがする……)
鼻先をかすめたのは、焦げたような酸い匂い。香料や煎じ薬の香りではない。火薬でもない。だが、馴染みがある。
ふと、庭に面した回廊の向こうで、小さな悲鳴が上がった。
「シンファ! リーシャが……!」
同じ下女のユイが駆けてくる。血の気の引いた顔に、怯えた目。
「急に倒れて、震えて……っ、泡を……!」
シンファは布を投げ捨てて駆け出した。
香炉の煙がたなびく奥の小間。そこで、リーシャが痙攣して倒れていた。唇は紫に染まり、口元には白い泡が。
体は熱くも冷たくもない。手足の先がかすかに震えている。
(熱はない。じゃあ、脳か、神経……いや、呼吸は?)
脈を取り、胸元を押さえて確認。荒いが、浅い呼吸。口をあけ、奥をのぞくと——
(舌が、腫れてる。喉も……気道が塞がれかけてる?)
かすかに嗅ぎ取ったあの匂いが、確信に変わる。
(——ジギタリス。いや、それに似た草。だとすれば……)
彼女は立ち上がると、声を抑えた。
「ユイ、厨房に走って。干した柿のヘタと、甘草の煎じ汁があれば持ってきて。それと——玉露の葉も」
「た、玉露? お茶ですか?」
「早く!」
ユイが飛び出していく。シンファはすぐさま、そこにあった茶碗をひっくり返し、底の香残りを指でぬぐった。
(やっぱり。この茶には、何か混ざってる。香りを覆い隠すほどの強い香料も)
——数分後、息を切らして戻ったユイから、煎じ汁と玉露が渡された。
シンファは手早く葉を潰し、汁に浸し、香りごと喉の奥へ滑らせるようにリーシャに口移しで含ませた。
その処置が効いたのか、しばらくしてリーシャの痙攣が収まり、呼吸も深くなっていった。
「よかった……。どうして……こんなことに……」
ユイが泣きそうな顔で問いかける。シンファは手を洗いながら答えた。
「たぶん、毒草が茶葉に紛れてた。意図的かどうかはわからないけど、香りでごまかされてた」
「誰かが……毒を盛ったってこと?」
「かもしれない。けど、それを言うのは、今じゃない」
ちょうどそのとき、外から足音が近づく。上級女官たちが慌てて駆けつけてきた。
「何事ですか!? 誰か倒れたと——」
部屋の中を見渡し、床に伏したままのリーシャと、手に薬の染みついたシンファを見て、声を詰まらせる。
「これは……どういう……」
シンファは目を伏せて、一歩下がった。
今ここで、自分が医術の知識を持っているなどと知られたら、どんな詮索をされるか分からない。
だが、女官長の鋭い目が彼女を見据えた。
「あなた……下女の身で、どうしてそのような処置ができたの?」
シンファは沈黙した。
心臓が、静かに鳴っていた。