プロローグ 第3話:香煙は闇に溶け、白衣は嘘をまとう
月は雲に隠れ、後宮の庭に落ちた夜露が石畳に冷たく光っていた。
「お前、ちょっと来な」
そう声をかけられたのは、明け方前の水くみに行く途中だった。声の主は侍女頭の沈婆で、決して口数の多い人ではない。だが、その目は妙に真剣だった。
「高貴妃様の寝殿で異変が起きた。誰にも知らせず来い。黙って、な」
高貴妃――薛麗花。皇帝の寵妃で、絶世の美女と噂される女性だ。
「なぜ私が……」
思わず声が漏れそうになったが、沈婆の鋭い目がそれを押しとどめた。
寝殿に入った瞬間、重たい香の匂いが鼻を突いた。麝香、沈香、桂皮……どれも気を失わせるほど強く、しかも重ねすぎていた。
「どうしてこんなに香が……」
香炉が三つも焚かれている。しかも風通しの悪い部屋で。
白い寝台の上には、高貴妃がぐったりと横たわっていた。唇はわずかに紫がかり、皮膚は冷たく、けれど呼吸だけはかすかに続いている。
「医師を呼ばないのですか?」
「呼べない。……これは“香の過ち”だ。医官には見せられぬ」
沈婆はぽつりとそう言った。誰かが処方を誤ったのだ――香を、毒に変えたのだと。
シンファは、迷いながらも寝台に近づいた。祖父から聞いた話が蘇る。
「沈香と麝香を併せて長時間焚けば、血を下し、子を失わせる。妊婦に焚かせれば……」
思わず息をのむ。
これは、偶然ではない。
「水……。それと白梅の煎じ薬があれば、すこしは落ち着くかもしれません」
「そんなもの、この場にあるわけ……」
「ないなら、作ります」
台所に走り、梅の乾片と冷水、香炉に使われた炭を濾す布。白梅の代用品として柿の葉を刻み、応急の煎じ薬を作った。
口移しに与えれば、わずかに瞼が震えた。
沈婆はその様子を見て、無言でうなずいた。
「これは、誰にも話すな。あんたは“見ていない”。よいな」
言葉の重みに、シンファはただ、頷くしかなかった。
寝殿を出た後、朝焼けの気配が空を染め始めていた。
「香は、癒すもの。でも、毒にもなる」
それを知る者が、この後宮にはどれほどいるのだろう。彼女は、この夜の出来事を、心の奥底にしまい込んだ。
まだ始まったばかりの、後宮での“生”が、想像以上に深く暗いものだと――このとき、シンファはようやく知ったのだった。