プロローグ 第2話:香と影の噂
「ねえ、知ってる? 高貴妃さま、また倒れたんだって――今度は人払いの最中にだって話よ」
しゃがれた声が、炊事場の薄暗がりに響く。
日の当たらぬ厨房の奥。土間に腰を下ろした下女たちが、湯気の立つ木桶を囲んで声を潜めていた。
「また? 侍医がついていても、もう四度目じゃない?」
「ええ。でもね、今回はちょっと違うの。見てたのは下働きのひとりだけで、その子、口止めされたんだって」
「え、それって……」
「口止め料が、銀貨三枚よ」
湯気の向こうで、女たちの目が見開かれる。
「銀三枚も!? それ、妃のご懐妊でもあるまいし――」
「まさか、毒……じゃないでしょうね?」
「いや、それが……」
囁きの輪の中、最も若い下女が声を落とす。名はリウ。薬草庫の鍵番を手伝う、まだ十五の童顔が残る少女だ。
「わたしの先輩が言ってたの。先月、御膳部から運ばれた湯のなかに、微量の“苦参”が混じっていたって。気づいたのは偶然だったけど……」
「苦参!? あれは体に熱をこもらせて、内臓を荒らす薬草じゃない!」
「ええ。だから、それを気づかれぬほど少しずつ――ってことかもって……」
その場の空気が、すっと冷えた。
火の気のある厨房とは思えぬ静寂。遠く、外を歩く宮女の下駄の音だけがカチ、カチと木霜のように響く。
だがその沈黙を、今度は一人の女官が破った。
「でも……」
言ったのは、奥の陰に佇んでいた少し年嵩の女。後宮内の清掃を任される「内掃司」の中堅で、年は三十を越えている。名をサンといった。
「でも、それならなぜ、高貴妃さまだけが狙われているの? 毒だとしたら、いったい誰が、何のために」
「さあね。寵愛をねたむ誰か……か、それとも――」
「――皇帝さまを、狙っていたのかもね」
全員の視線が、ピタリと止まる。
それを言ったのは、先ほどから黙っていた年若い娘だった。
まだ下女見習いの印である薄青の衣をまとい、桶の縁に腰掛けていたその少女――
「誰?」
とサンが眉を寄せる。
「……新入り? 見ない顔ね」
少女は、はにかむように軽く頭を下げた。
「はい。城外から参りました、シンファと申します。叔父に連れられて、今朝、宮仕えに入ったばかりで……」
「あらまあ、こっちの厨房までよく来られたわね」
「お湯を汲んでくるようにと言われて……でも、道に迷ってしまって」
そう言って彼女――シンファは桶の湯をそっと汲みながら、目の奥で何かを測るように話題を探る。
「さっきの、苦参のお話……少し気になります」
「え? なにが?」
「あの薬草は、本来は外用で使うものです。煎じて内服すると、肝に負担がかかります。でも、そのせいで体の熱が籠もると、顔色や脈にも異変が出るはず……妃さまが“倒れる前に火照りを訴えていた”という話は、ありますか?」
その問いに、リウがぽかんと口を開ける。
「そ、そういえば……前に倒れたとき、『お顔が赤くて汗をかいていた』って話があったような……」
「それなら、苦参の可能性は低いと思います」
シンファはそう言いながら、やわらかく笑った。
「むしろ、火照りが最初に出るなら――“香”を疑った方がいいかもしれません」
「香?」
「ええ。香料の中には、ほんの少量で神経を刺激するものがあります。鼻から入って脳に作用するなら、体の熱は一気に上がります。意識を失うことも」
「まさか……香炉のなかに毒を?」
「“香”の毒は、煙ではなく粉――つまり、灰に残らないものです。調べてもまず分かりません。けれど、香の調合をよく知る者なら、仕込むことはできる」
シンファの語る声に、女たちは唾をのむ。
「ねえ、あなた――何者なの?」
「ただの下女です。でも……薬草と香については、祖父から少し教わったことがあって」
――それは嘘ではなかった。
だが本当でもない。
シンファの祖父は城下で西洋医学をかじった異端の医師だった。だが“香”を語るような人物ではない。
今、彼女が語った香の毒性は、すべて彼女自身が人攫いの市で仕入れた知識だった。
「……まあ、物知りな子ね」
と、サンが目を細める。
「でも、あんまりそういうことは言わないほうがいいわよ。後宮は、よく知る者から先に消えるの。――知りすぎた者は、都合が悪いから」
その言葉に、シンファはふっと笑みを深めた。
「ありがとうございます。気をつけますね」
けれどその目の奥には、氷のような光が宿っていた。
――ならば私は、もっと深く知ろう。
この後宮に漂う、香の影。毒の痕。そして誰が、妃を狙うのか。
すべて暴き、すべて嗅ぎ当ててみせる。
そう。たとえ、それが――命を賭ける道でも。