しがない夜にご注意を。
学校での宿泊は禁じられている。普段は先生の見回りもあるから本格的に何時間も姿を眩ませる覚悟でもないと、それを実行するのは不可能に近い。だがここは生徒会室で、支配権を握っているのは我らが湯那生徒会長だ。
「もうすぐ二時か。早いもんですね」
「そろそろ出ないとね。悪いけど草延さんを起こしといてくれる? 私はゴミとかを纏めるから」
深夜の二時にもなると俺の昼寝も随分前に終わって三人で何となくぼんやりと過ごす時間の方が長くなった。それぞれ自分のやりたい事をやっているという感じで、体力を使うだろうからと軽食を一度取ってからは気楽だった。俺は生徒会室に置かれた漫画を読んでいたし、草延は熱心に校内新聞を読んでいたし、先輩は自習をしていた。LEDの光も馬鹿に出来ない。
同じ空間に居て気まずくないというのはコミュニケーションの上で大切だ。しかも絡まなくてもいいのは、これから付き合っていく上でも大変良い事だ。時間の経過は思ったよりも早かった。一時的な監禁状態でも全く苦しくない。
椅子を引いて立ち上がる。ベッドで死んだように横たわる草延の身体を毛布越しに揺らすと、真っ黒い瞳がぱちりと開いて俺を見上げた。
「…………もう時間?」
「もう二時だ。長かったな、ここからもう一仕事だ。まだ眠いならここに居てもいいぞ」
「そういう訳には行かないわ。ん…………ちょっと、ご不浄で顔を洗ってくるわ。場所が場所になるけれど、我儘は言えないから」
「ちょっと待って。今夜も何もないとは言い切れないわ。もしかしたらまた誰か侵入してるかもしれないし、そうじゃなくても『ハクマ』が狙ってくるかも。草延さん、仮に今後命の危険があるなら一番危険なのは貴方よ。悪いけど九十、付いて行ってくれる?」
「え? でもご不浄って確かトイレですよね。俺がついていくのはまずいんじゃ」
「顔を洗いに行くんでしょ? だったらいいじゃない。戻ってくるまで待っててあげるから早く行ってきて。トイレが近いのっていいわね」
それでも男子的な抵抗感は拭いきれなかったが、草延に急かされて仕方なく監禁生活から脱出。二つ隣のトイレに足を運んで真っ先に鏡を手で塞いだ。身長差から、彼女の覚醒を邪魔する物ではない。
「……現実的に考えるチームでしょう? そんな事をしても」
「無駄って言うなよ。どっちか分からないからどっちも考えてるんだ……女子トイレに入りたがる奴もいるけど、別に何のこっちゃないトイレだよな」
「今はその女子が居ないのだから、当然ね―――行きましょうか」
持っていたハンカチで目を拭い、草延は一足早くトイレから出ようとする。俺も置き去りにされるのは何となく嫌で、駆け足でついていった。生徒会室に戻ると、机の上を片付ける先輩の姿。
「何事もなく戻ってきたか。じゃあ改めて出発ね。オカルト的には夜になると変化がある筈。もしかしたらまた誰か居るかもしれないから、その時はまた生徒会の仕事って事でお願い。草延さんは……たまたま居合わせて、先に捕まったって扱いね」
「先輩、それは」
草延は本当の事情を一部知っているが、知っていても恐ろしいものは恐ろしい。俺が彼女に教えた情報は本当の事を一部だけ。ここで先輩にぶちまけられるとその辺りの齟齬が、信用を失わせると思った。
先輩は頭を振って、暗に心配を跳ねのける。
「確かに調査だけど、三人があの学校に来ていたかどうかまでは把握してなかったじゃない。今回だって誰か居るかもって思うのは当然でしょ? 界斗君じゃないけど、また誰かが誘ってるかもしれない」
「ここで話していても仕方ないですよ。役回りは分かったので行きましょう」
LEDを消して、月影に浮かび上がる廊下に繰り出した。頼りになるのは懐中電灯三つと携帯。くれぐれも用心していこう。
「で、最初は何処に行くんですか?」
「一番近いし、音楽室に行きましょうか。鏡の確認をしないとね」
生徒会室は三階にある。ここから左に直進して突き当たった所が音楽室だ。我らが安全地帯に先輩が鍵を掛けている最中、ふとある事に気がついた。
「窓の鍵は全部閉まってるんですね」
「そりゃ、帰り際に施錠くらいするでし。そこもザルだったら流石の私も困惑するわ」
「そうじゃなくて、あ。この話してないか。えっと、波津は消えたんだよ。先輩が追い回してる最中に。俺は先輩を校門で待ってたんだけど、それ以外の人影は見当たらなかった。昇降口じゃないなら窓からだと思ったんだけど……鍵が閉まってるなら違うかなって」
「鍵は内側から閉めるものよ。普通に脱出出来るわ」
「そうだけど、急いで逃げたなら閉める余裕はないだろ。二階や三階なら物理的にも閉められないから一階。でも逃げるつもりで閉めるなら音は誤魔化せない。先輩、見失った後は探したんですよね?」
「そりゃあ、何とか正気に戻ってもらう必要があったから。でも何処にもいないし、そもそも殺そうと追い回してたのに逃げるっていうのは辻褄が合わないわね」
やはりオカルトなのか、と疑問符。だがそれはまだ思考停止だ。本当に怪異の仕業としたいならもっと証拠が欲しい。もしくは実物が同じような事をしてくれるか。施錠も終わり、先輩が音楽室に足を向けた。
「どれどれ、鏡はありますか、と…………あら、割れてる」
「え?」
見ると、壁に埋め込まれた鏡が粉々に砕け散っていた。破片は足元に散乱し、片付けられた様子はない。この部屋にある鏡はこれ一枚だけで、他にあるとすれば準備室か。草延と一緒に見に行ったが、あるのは楽器のケースばかりで鏡と呼べそうな物は何一つ見つからなかった。
「本当は鏡の位置を確認するつもりだったけど、話が変わってきたわね。鏡が壊されてる……それも最近。意見箱にも報告書にも鏡についての言及はなかったものね」
「それ以前でしょ。破片が落ちてるんだから今日割ったとしか思えないです。幾ら直さないにしてもせめて破片は回収するでしょ。踏んだら危ないですよ」
「確かに!」
「何故そんな事を? まさか怪異が割ったとは思わないけど……特に『ハクマ』は鏡と縁があるようだし」
思考停止は災いの元だ。これでまたハッキリしなくなった。全体的な犯人が誰かはともかく、意図的に鏡を割った人物は確かに居て、そいつは吹奏楽部が活動を終えた後にわざわざ鏡を割った。あの部活は校内でも群を抜いて終了時間が遅い事に定評があるので、もう殆ど夜だ。俺達が監禁状態にあった時間帯と言っても差し支えない。
「……やっぱり、犯人が居るわね。しかもこっちの妨害をしてる。これを偶然と言い張るのは流石にない」
「生徒会長の動きが漏れてる?」
「だとしたら都合が良いわ。私はこの話を草延さんと九十にしかしてない。私の性格を知っていて尚且つ昨晩校内に居なきゃ出来ない事よ。ハクマについては波津君があんなに叫んでたら分かるでしょうね。問題は、何でこんな事したのかって事。妨害は妨害だけど、結構危ない一手よ。だって鏡が無事ならその可能性に思い至る事は無かったんだから」
「どっちに分類していいか分かりませんけど、鏡を割る現実的な理由というと、『ハクマ』に干渉されたくないくらいしか思いつきませんね」
「じゃああれか? 犯人は『ハクマ』を信じてる?」
「昨晩あの場に居たとするなら、或いは見た可能性も考えられるわ。実際に見たなら信じられるでしょう」
「……もう用はないわ。今度は学校中の鍵の確認よ。開いてないといいけど…………開いてたら」
先輩は、それ以上言わない。
開いていたら、今度こそ仕留める。
言いかけたのは、そんな所か。