模範として紫雨
その後は手応えもなく、混雑時間は過ぎていった。その後もぽつぽつと流れが続けば良かったが、部活が終わるからこその下校時間だ。そこを過ぎれば当然生徒なんて残らない。そして俺が見た限りでは陸上部は姿を見せなかった。
「リンネ、そっちは?」
「……アンテナを張ってたつもりだけど、駄目ね。でも、今、収穫がないだけ。これで生徒会が『シニガミ』について情報を欲しがってる認識が広まった筈よ。それがどこかで身を結ぶかも」
「前向きだな。そこまで考えは及ばなかった」
「全ては結果。望んだ結果を求めるなら、それまでの全てが布石よ。とにかく、今日は前に進んだとみるべき。そろそろここは撤退して、生徒会長の方を見に行きましょうか」
「うーん」
ギャンブルではないが、目に見えた収穫がないと粘りたくなる。特に俺は命を握られている立場だ。目に見えて役に立ったという実感が自分にもないと、寿命が迫っているみたいで恐ろしい。草延はそんな事情など知る由もないので、いまいち粘ろうとする事に納得がいっていない様子。
「…………なら、少しだけ待ってみましょうか。急いだ所で何か変わる訳でもないのだし。もしかしたら、待ってると幸運が来るかも」
「―――なんか、悪いな。予定通りの事させてないみたいで」
「別に、構わないわ。秘密の協力関係を固めるに越した事はないのだし。秘密は多い方が、お互い疑う事なく協力しやすい筈よ」
秘密とはリスク。リスクを互いに示し合えば、そのリスクの高さ故に合理的な考えを持っているなら裏切れない。単なる信用云々では終わらせない辺り、草延も中々抜け目がないというか、感情的な人間ではなかった。
「前から気になっていたのだけど、八重馬クンはどうして生徒会に入ったの? いや、本当に聞きたいのは、あんな状況で何で抜けないのかって事なんだけど」
「あー。それ、白兵とかにもよく聞かれるよ。いつも適当に誤魔化してるけど、今は正直に答えておくか。そんな大した理由じゃないけどね。ただ湯那先輩に頼られるのが嬉しいっていうか、あの人の事が割と好きだからさ」
「割と?」
「……異性にこういうの言うのって結構恥ずかしいから、そこは聞かないでくれ。色々あったんだよあの人とは。まあでも、好きなんだよ。今じゃ俺しか居ないもんだから先輩も俺を頼るしか無くて、だから俺しか知らない先輩って意外と沢山あるんだよ。抜けない理由って言うとそれくらいかな。面倒なのは、面倒だけど」
感情に矛盾はなく、いずれにせよ両立する。矛盾とは物理法則の上で成り立つ物体にのみ許される言葉だ。感情に形はなければ、はたまた物理法則の何らかに作用するでもない。『仕事がブラックで解放されたい事』と『先輩に頼られるのが嬉しい事』は両立するし、『草延が来て仕事が楽になった事』と『俺より頼れるのでちょっと寂しい事』も両立する。
この説明が面倒なので、色々あったで終わらせたい。
「ならやっぱり、私と組むのは気乗りしない?」
「それもない。信じる為に疑ってるみたいな感じで受けとってくれよ。あの人、『死神』の事となると途端に隠し事が……」
「え?」
「あっ」
つい口が滑ってしまった。俺の言う『死神』は暫定的に売人の方でもないしクスリの方でもないけれど、音でそれを判断する術はない。草延は俺を睨みつける勢いで詰め寄ってきて、股の間に足を入れた。
「シニガミ?」
「いや……」
「何?」
「その………………」
「教えて。お願い」
「……………」
「何でもするから」
気軽に言っているつもりはなさそうだ。俺も彼女の執念は知っているつもりで、その発言は本気で言っているのだと分かっている。何でもすると言ったら何でもするのだ。要人の暗殺だろうが自縛テロだろうが放火だろうが結婚だろうが。
睨みつける瞳は、僅かにうるんでいるようにも見える。普段が無愛想だから僅かな変化がそう思わせているだけか。
「お願い……」
「…………」
言うと、命の危険が迫る予感。けれどもそんな事より、この切実な声に応えないのは人としてどうなのかと。我が身可愛さに沈黙を貫くには、草延の懇願はあまりに痛ましかった。お願い以上に踏み込まないのも、かえって罪悪感を煽られる。いっそボコボコに叩きのめしてくれても、俺は抵抗しない。死ぬよりはマシだと意地になって、口を割らずに済んだのに。
「…………えっとな。凄く言い辛いんだけど」
「返してください」
並々ならぬ意思に根負けして、遂に口を割ろうかという瞬間、背後から声をかけられ、二人でそちらを向いた。
「……君は」
「返してください」
陸上部のユニフォームも着替えずに、息を切らしてこちら側へ。体力的な問題ではなく、精神的な焦りが窺える。どんな無尽蔵の体力も、想定外の事に心を乱されれば走り方は崩れ、呼吸も雑になる。走る事に関して他の追随を許さぬ部活がこの体たらくだ。
草延を遮って、俺が対応に当たる。様子がおかしいのは見ての通りで、返して欲しい物が何かも検討はついている。だがこちらから口に出すのは駄目だ。飽くまで情報を引き出す。そして故意に所有していた事を認めさせる。
もしかしたら、違う物を返して欲しいかもしれないのだし。
中々濃く日焼けした印象のある女子の名前は水落莉沙。二年の違うクラスの女子で、接点はない。生徒会活動の一環でひょっとすると一回くらいは話したかもしれないが、それくらいだ。俺も覚えていない。
「返せって、何の事だ?」
「ふざけんな! あれだよあれ! 分かるだろ、返せよ泥棒! 生徒会だからって物を盗むなんて最低だ! 返してよ! あれがないと駄目なの!」
「だから、何の事なんだよ! 俺達は何も盗んでなんかない。そんなに言うなら職員室にでも行くか? 俺も、先輩も、草延も何もしてないからな! 昔はこういう言いがかりあったから、久しぶりだよ! そんなに何か盗まれたって言うなら具体的に何を盗まれたか言えよ!」
「………………っ」
ぎりぎりぎり。
歯噛みする音が鮮明に聞こえてくる。面識が無くても女子のこういう顔を見るのは初めてだ。まずこんな顔をするような人間でないのは知っている。それはまるで猛犬……いや、狂犬。犬歯があるなら生えてきそうな獰猛な顔つき。
目は血走って震え、握り込んだ拳から爪が食い込んで血が出ている。これをまともな様子と言えたらそいつの眼がまともじゃない。
「ほら、何も言えない。言いがかりはやめてくれないか」
「クスリ……」
「ん?」
「クスリをおおおおおおおおおお! 返してよおおおおおおおおおおお!」
「ぐっ!」
半狂乱の金切り声と共に水落が俺にとびかかって、壁に追い詰めた。指定のネクタイをぐいっと持ち上げると、もう片方の手で髪を掴んで、壁に叩きつけようとする。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い! ちょ、やめてくっ……」
「私のクスリをおおおおおおおおおおお奪わないでえええええええええ!」
「やめなさい」
背後から草延が手を伸ばして彼女を引き離そうとする。だがその程度の横やりなど意にも介していない。強めに制服を引っ張られてようやく関心を向けたものの、だからと言って俺が抜け出しやすい状況は生まれていない。
そもそも女子に対して迂闊な抵抗は胸とか触ってしまって、それを先生に訴えられる恐れがある。胸とか股でなくても、何ならお腹でもグレーゾーンだ。相手が刃物を持っているならともかく掴みかかられているだけ。俺に許された反撃は草延が打開するまでッ防御に徹する事。
「邪魔! どけ!」
その裏拳が、草延のこめかみに直撃する。クリティカルに命中したラッキーパンチに怯んで、救いの手が離れていく。
「お願いお願いお願いお願いお願い。時間がないの早く呑まないと死んじゃうの! だから奪わないで取らないで気にしないで関わらないで! あれがないと生きていけないのお!」
「―――っなんでそんな。気にして……!」
カチャッ。
「リンネ―――ッ」
「ああもう、だから邪魔って…………」
俺は水落が正気を失っている物と思っていたが。
拳銃を見て硬直する程度には、まだ理性が残っていたらしい。
草延リンネの手には、リボルバー拳銃が握られていた。それがエアガンかどうかの考察は無意味だ。彼女がもう片方の拳に乗せている鉛玉は―――紛れもない実弾だったりするから。
「貴方がそんなに騒ぐから、先生がここに来てしまうでしょうね」
「…………ぇ」
「生きたいのなら、退くべきじゃないかしら。死にたくないのなら、お互い穏便に済ませましょう?」
頭に血が上っていたであろう少女の顔からさーっと分かりやすく血の気が失せていく。彼女は最後に俺を強く突き飛ばすと、逃げるように外へ出て行ってしまった。その姿が無くなったのを見て、草延は制服の内ポケットに拳銃をしまった。
「お前…………」
「―――秘密にしてね、八重馬クン。バラしたら…………ええ。殺そうかしら」
今の俺には冗談もそうとは受け取れない。先輩に命を握られたかと思ったら、今度は同級生のアブない秘密を知って脅されてしまった。
「生徒会長と合流しましょう。事情を知らなければ、会長も私達を庇ってくれる筈よ」
「いや、勝手に共犯にするなよ!」
「……お互い、秘密が勝手に漏れてしまったのだから。仕方ないわ」
生徒会に入る奴には、どうもまともな奴はいないようだ。
何事もなかったように、草延は昇降口から逃げるように去っていった。




