月明かり揺れる勉強会
「ここまでとは思わなかったわ」
呆れているような声音が教室に響く。俺も、自分がここまで出来ないとは思わなかった。何処かのテストの答案を見せればこんなやりとりを経る必要もなかったが、自分の点数が恥ずかしいと自覚している以上、普段から持ち歩くような癖もない。
「ごめん……どうやらお前に教わる段階にはないみたい」
「そういうつもりじゃないわ。ええ、全くそんな事は思ってない。やり甲斐と考えましょうか」
「……前向きな時点で大分溜め息はマジだよね?」
「約束は守るわ。それに、よくよく考えたら優秀な人はこんな条件を呑まないでしょう。生徒が落第だと教える先生も気合を入れないとね。そんな事よりも頭の方は問題ないかしら。テストの時、たまに『知恵熱』で頭が痛いとか言う声を聞くから」
「俺じゃなくて白兵だなそれ。大丈夫だよ、そこまで嫌ってる訳じゃないから」
「…………そう。なら良かったわ。『知恵熱』は別に頭を悩ませたら熱っぽくなる現象ではないから、どうしようかと思ってたのよ。頭痛はさておき、誤用したままで、実際知恵熱だったとするなら八重馬クンを赤ちゃん扱いしないといけないから」
赤ちゃん!?
同級生に赤ちゃん扱いされる屈辱は想像を絶する。幾ら何でもあんまりだ。男とか女とかそんな安っぽい話じゃない。人間としての尊厳に関わる。真っ当な教育を受けて、それなりに賢くなったつもりだ。個人差はあれど赤ちゃんよりは確実に賢いと言える。八重馬九十その物を否定する物言いには断固として反対だ。
「あー………でも、歓迎する奴いそうだな。授乳とか求めそうだ」
「授乳?」
「や、何でもない」
草延に熱狂的な一部の男子なら歓迎しそう、というだけ。俺はそこまで手遅れになったつもりはないし、彼女もそういうつもりで言ったんじゃないのは明らかだ。ここを否定しだすと、最低下劣の揚げ足取りになって、取り返しがつかなくなる。
「そう言えばお前って元は吹奏楽部だったよな。抜けたのは問題なかったのか?」
「元々幽霊部員みたいな物だったから大丈夫よ」
「何で入ったんだよ」
「ええ。音楽が好きだからかしら。別にイジメを受けたくて入った訳じゃないのよ。だから幽霊部員になったんだけど」
しれっと学校生活における致命的な問題を口にされると、俺もどういう反応をしていいか困る。忙しさには毎度辟易している男だが、それでも生徒会に所属する最低限の矜持くらいはある。イジメは看過できないし、先輩だって看過はまずしないだろう。
「リンネ、それは」
「もう終わった事よ。だからスムーズに入れたのだし」
「いや、終わってない。俺は生徒会の人間だ。幾ら不真面目でもそればっかりは見逃せないよ。それは先生ぐるみのモノか?」
「気にしなくていいのに。他の子が被害に遭う可能性は―――」
「他の子とかどうでもいい! お前が嫌な目に遭ってるだろ!」
草延リンネ一押しの男子とか、ずっと好きだったとか、そういう特別な事情は一切ない。だが彼女とは取るに足らない秘密を共有した仲だ。どんなにしょうもなくてもこの関係は繊細で、特別。今や生徒会の人間でもある同級生がそんな酷い目に遭っていたのを見逃すなんて倫理がすたる。
「主犯は?」
「八重馬クン…………証拠はないのよ。ええ、私も気にしてなかったから。つまり私が出鱈目を言ってる可能性もある。真面目に取りあう必要なんてないわ」
「いいや、お前を信じるよ。それじゃ筋が通らない。俺は『しにがみ』をどうするかでお前の意見を信じて、踏みとどまったんだ。それで今度は信じないなんて変な話だろ。お前の言葉だけでも信じる。主犯を教えてくれ」
草延は諦めた様にノートの隅に主犯と、加担した人間を書き記した。
「……八重馬クンは物好きなのね。これで満足かしら」
「後で湯那先輩にも共有するよ。お前も言ったように今更な追及かもしれないけど、今更かどうかは問題にした側が決める事だ。我慢ならないんだよ。違法ドラッグを服用しておかしくなった俺を元に戻してくれた様な奴が、そんな理不尽な目に遭うなんて」
「……それは人として当然の事だと思うけど」
「ならイジメを罰するのだって当然の事だ。ハクマなんかよりずっと腹が立ってる。リンネ、お前は強いかもしれないけど、そういう事があったらいつでも言ってくれ。もう生徒会に居るんだし、俺が護るから」
彼女の表情はうかがい知れない。目を伏せて、もぞもぞと口を動かしているだけだ。お節介と言いたいのかもしれないが、本気でそのつもりだ。女子を護るのは男子の務めだと、そう教わって育った。憧れの湯那先輩はその必要もないくらい強かったが、それでも俺が傍に居るのは、偏に支えようと思ったからだ。
善行の動機として、聖人君子である必要はない。邪な理由でも偽善であっても、結果が伴えば紛れもない善だ。草延リンネは浮世離れした雰囲気に違わず、自分自身がイジメられても気にも留めない性格なのだろう。先輩とはまた違う方向性で強い奴だ。
でも、それが助けない理由にはならない。『しにがみ』方面で俺を損得抜きに助けてくれた彼女を助けない理由なんて、むしろ何処にあるというのか。
「…………本当、物好き。勉強の続きもほっぽり出して、他の事に精を出すなんて」
携帯の通知が鳴ったので、確認する。生徒会グループを通して草延から個人のメッセージが届いていた。
『有難う。そんな事を言われたのは初めてでどうしていいか分からないけど、嬉しいわ』
机越しの彼女は、無愛想にツーンと澄ましている。それが何だかおかしくって、笑ってしまった。
「…………はっ! そんじゃ、勉強にも精を出しましょうかね! よろしくお願いします、リンネ先生!」
「……調子が良いのね。じゃあさっきのテストから考慮して……教科書的には、ええっと」
「面白くない」
一人ぼっちの生徒会室に、心からの叫びが一言。
「面白くない面白くない面白くないおもしろくなあああああああああい!」
御堂湯那は、新たに入った生徒会役員について並々ならぬ激情を抱いていた。きっかけは何のことはない、彼女が入ってからというもの、八重馬九十との距離が離れている気がしたからだ。同級生だからある程度親しくなるのは当たり前としつつも、心の中の煮えくりはそう簡単に収まらない。
「九十の……ばーか」
人手が増えるのは有難いが、彼との時間が減るのは困る。如何ともしがたい問題には、敏腕と呼ばれし成都会長も成す術がないのであった。
―――好きとかそんなんじゃないけど!
好きとかそんな言語化出来る物じゃないけど、自分以外の女子と話しているのは面白くない。せっかく生殺与奪を握っても、これじゃ意味がない。心のままに後輩を振り回せると確信したあの乙女心は踏み躙られた。
「………………悪い子じゃないんだけど」
草延リンネの有能さは知る所にある。何なら九十よりも遥かに仕事の消化は早い。だけど面白くない。
つまらない ああおもしろくない つまらない
心の俳句も実に低レベル。
つまりはこの悩みも、その程度という事だ。




