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干支語 寅  作者: 鷹兵衛
2/5

寅 走



人が生まれるずっと前。

目が覚めたら、既に自分はそこにいた。


最果てまで続く花々咲き乱れる草原の上を、撫でるように通り過ぎる風の音と、植物のこすれる音しかしないその世界で、「それ」は目を覚ました。

目を覚ましてすぐ、あることに気が付いた。名前と、それに値する形がない。自身が持ちうるべき概念が、まとまりなく宙に霧散していることは分かるのだが、それらを手繰り寄せる術がなく、どうやら先に、意識のみが誕生してしまったようだった。

腕があるはずなのに腕がなく、脚があるはずなのに脚がない。指先まで動かしているつもりでも、そこには何の姿もない。はっきりとしない己の存在が消えていってしまわぬように、何十年、何百年、必死にそこでもがき、悶え、存在しない体を掻きむしっていたかのように思う。

悠久の時が過ぎるのではないかとさえ思っていた矢先、事態は、一柱の神によって転換をむかえた。




「やぁ」




姿なくうごめく「それ」にそう声をかけたのは、向こう側の景色が少し歪んで見える程度の、虚ろな、霞とも、浮いた水ともとれる、眩しい輝きを湛えた姿を持つものであった。




「長く見つけてあげられずにすまなかったね、私は原初神。神を神として誕生させるための、神のための神です」




姿のない「それ」はうごめく。

御託は良いと叫んでいるようだった。




「そうだね。では早速、貴方に形を与えましょう」




原初神はそう言うと、輝く光をより一層瞬かせ、姿なき「それ」が持つ性質を呼び始めた。




「強気で、気高く、強力で、思うままに事を成し、思うままに事を屠りし、気まぐれにて純粋な、西を守護する定めを背負いて降り立ちたもうた武神であり守護神よ。二つの形をその身一つにまとめ宿し、今ここに顕現せよ」




眩しい光が辺り一帯を包み込み、一瞬、空間は白一色となる。音も、感覚も何もかもが掻き消えた。ほどなくして、今度は、大きく広がった自身の概念が一つ所に引き寄せられて、一つ一つ繋がっていき、感覚が本来あるべき場所に戻っていく。

そうして次に目を開けると、呼びかけに応じ顕現した西の神には、人の特徴と獣の特徴が混ざり合った、美しい女の形が与えられていた。




「よし!成った!」




嬉しそうにガッツポーズを決める原初神を、形を得たばかりの西の神は大きな目を細めて横目で睨む。鋭い眼光は、完全に武神のそれである。

原初神はその目線に気が付くと、一つ咳ばらいをして西の神に向き直った。




「よろしくね、西の神殿」


「よろしくするつもりはない」




誰もが聞きほれそうな美しい声音でそうぴしゃりと言い放つと、西の神はそっぽを向いた。腰から生えた、後に虎と称される獣の尾を地面に不機嫌そうに叩きつけると、もう一度原初神を睨んで口を開く。




「お前、吾の性質を端折りよったじゃろう。全く失礼なやつじゃ」


「あ、いやぁ…。だって君、本当にとんでもなく多くの性質を備えていたから、細かいのも併せて呼んでいたら随分長くなりそうで…つい」


「ふん」




申し訳なさそうに頭をかく原初神を尻目に、西の神は辺りをぐるりと見渡した。

改めて見てみると、ここが神のみが暮らす世界であるということが分かる。神たる所以であろうか、この世界と沿うようにして存在する、もう一つの現の世界の存在を肌に感じ、その世界に、これから神である自分たちが関与していくのであろうことも、なんとなく察せられる。




「して、吾以外の神は?」


「そうだね。原初神である私を初めとして、創造の権能を持つ創造神たちにはいち早くこの世界に顕現、参列して頂いてるよ」


「ム?」




西の神はその細い指先で、自身の整った顎先に軽く触れる。




「であれば、吾はその創造神の力によってこの世に顕現してもおかしくなかった訳だの」


「いや、それがそうでもないんだ」




原初神は、捉えどころのない虚ろな姿でありながら、ころころと表情を変える。所作が大振りだからか分かりやすい。今眼前に起きたことを本当に不思議なことと捉えているようであった。




「創造神というのは、無から有を作る神のことを呼ぶ。しかし、君はそこにそうして存在していただろう?ようするに、既に有であったから、創造神にはどうすることもできない形であったわけだ」


「なるほどな」




西の神はそのまま目線を下におとす。

本来創造神によって顕現させられるべき神が、少し早めに通常の工程を飛ばして顕現したということである。喜ばしいことのように思えるが、実はそうでもないことを、西の神は分かっていた。




「吾はどこに、どうあるべきなのだろうな」




創造神から生まれたのであれば、その創造神の目の届く範囲でその在り方を示し続ければ良いのだが、そうでないのであれば、創造神の目から逃れるように世界の片隅で細々と在り続けるか、自身の仰ぐ創造神顕現まで待つほかにない。

最初で最後の弱音だろうかと内心で自嘲しながら、原初神の応えを待つ。困った顔で、「そうだね」と言われることを覚悟した。




「いや、モノは考えようだよ」


「……!」




驚いて顔をあげる。

西の神が今求めている真剣さは原初神からは微塵も感じられなかったが、飄々とした声音が逆に西の神に諦めを与え、続く言葉を気楽に待てた。




「創造神が成すこと含めて、世界のあらゆる動向を最初から見続ける役割を負ったのだと思えばいいさ」




目を丸くする。

それを、他の創造神が許すだろうか。




「許すさ」




見透かしたように原初神はそういうと、無責任に笑って言った。




「終わりは始まり。始まりは終わり。いずれ君は日の沈む方角をさす神になるだろうけれど、日が沈むから日が昇る。日が昇るから、日が沈むのを待ち遠しく思う者も現れるだろう。君は、時の終わりであり感情の始まりなのさ。であれば、君はここと場所を定めずに、あらゆる世界を見てもいいはずだ。大丈夫、神は嘘をつかないんだ」




屁理屈である。

しかし、自身が存在を保つのにこれ以上ない言い訳であった。




「何より、原初神がそういうのだから仕方がないと皆思うとも」


「一気に興の下がることを言わんでよい」




そう呆れた声で返しながらも、西の神の目線は遠く先にある世界を見ていた。

白い獣の耳はたち、尾はゆらゆらと興奮に揺れる。


西の神と呼ばれる神は、そうしてこの世に顕現した。




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