寅 序
ここは、現世と常世の狭間。人も神も存在しない、穢れなき清廉なる箱庭。
そして、人と神をつなぐ永久の祭壇でもある。
そんな空間に名前はないが、あえて名付けてみるとするならば“四季神の庭”とかだろうか。名前など野暮でしかないが、今回はここを便宜上“四季神の庭”としよう。
「~♪」
来る年の瀬、四季神の庭を、上機嫌に歩く女の人影があった。
綿々と雪の降る中、積もったばかりの雪をわざとらしく蹴り上げながら歩むその人影は、人と称するには少し違和感のある見た目をしている。
まず、耳が異なっている。ふわふわとした大きな獣の耳は、白地に黒の虎縞があり、雪がふれるたびにパタパタと動いている。
次に、爪である。手入れの行き届いた女の爪とは異なり、長い爪は鋭く尖り、勢いよく上から下に振り下ろせば何もかも両断できてしまいそうなそれは、生きるもの全てに命の危機感を植え付けるだろう。
そして時々、中国の漢服を思わせる着衣の足元でゆらゆらと見え隠れするのは獣の尾であり、これも、耳と同じく黒の虎縞があった。
彼女こそが、何を隠そう、この世で寅と親しみ呼ばれる、虎、そのものである。
一方、その姿を遠くから確認し、すっと立ち上がる男の姿があった。
四季神の箱庭の中央にて座していたその男こそ、この一年間、丑と呼ばれた男であった。
「やれ、丑よ!!!」
歩を進めながら、妖艶で細い体躯のどこからそんな声が出るのかというほどの大声でそう呼んだ寅は、愉しそうに笑んでいた口角をより一層つりあげて笑うと言った。
「ここまでむかえに来い!!!」
その呼びかけに返事の代わりに、丑は素直に寅の元まで歩んでいく。
雪をかきわけるような動作一つなく、なんなく積もった雪を踏みしめてまっすぐ突き進むと、丑の歩んだ後の雪は両方に寄せられてちょっとした道になっている。
最短距離で寅のもとにたどり着くと、歩みを止めない寅の前に立ちはだかって、その姿を見下ろした。寅もやっと歩みを止めて、仕返すように見上げると、眉だけ下げ、わざとらしく自身の額に手の甲をあて、ふらついた。
「見よ、おまえが早う来ぬゆえ、吾は今にも倒れそうじゃ」
「そうか。すまん」
「ふふふ、好い好い、許す。では行くかの、ほれ進め」
ケロリと真っすぐ立ちなおすと、寅は、丑の横を通り抜けようとする。
それを目線だけで追いかけて、丑は短く返事した。
「わかった」
「よしよ、…!?」
浮いた。この寅の両足が、自身の脚による跳躍以外で、地面を離れた。
肩を抱かれて、一瞬の不意を突いて抱えあげられていた。寅は目を丸くして近づいた丑の横顔を見ていたが、すぐに気の抜けたような笑みを浮かべて長い脚をゆらゆらと遊ばせ始めた。
「ほうほう、おまえがこのような気を利かすとは、はて誰の入れ知恵かえ?まぁ好い許す!快適、快適じゃ!進め丑よ!」
「もう進んでるが」
十二支を決めた競争から何百年と経っている。あの競争をきっかけに不老になったものも多かったが、寅はその例に漏れて、元から不老の身であった。そのためか、誰かから何かを得て変化するのに時間がかかる。少なくとも、たった12年で普段全くしなかったことをするようになることはない。
ゆえに、丑に訪れた変化が、うらやましくも好ましく映った。
「それにしても丑よ、吾が完全に気を抜いて負ったからよかったがの、本来なら吾の肩に手をかけた地点でうっかり三枚おろしであったからの。今後気をつけよ」
箱庭の中心にそびえる大樹の下にたどりついて、丑の腕から降ろしてもらいながら、そう寅は注意しておく。脅しではなく、本当に。
「…履物はどうした」
「うん?」
寅は自身の足元を見て裸足であることに気が付く。いや、実は気が付いていた。
何せこの履物問答に関しては、初の十二支の仕事の時から繰り返している。
「おーおー!雪が邪魔での、素足のほうが歩きやすかったゆえ脱ぎ捨ててきた」
「足を痛めるぞ」
「吾を誰と心得るか、この程度造作もないぞ?」
「とってくる」
「ふふふ、好い心がけじゃ。よし!任せた」
雪の降る中嫌な顔せず探しに出ていく丑の後姿を見送りながら、今や白いだけの遠くの景色に目を向ける。
四季神の庭は実にシンプルな作りになっていて、本来大きな草原と、その中心に一本の大樹しかない。草原の果てには大きな山々の影があり、それがぐるりと外周を囲っているように見えるが、いくら歩いてもその山にたどり着くことはなく、ただひたすら、永遠に、平たい草原が続くのみとなっている。
四季神の庭と表現するだけのことはあって季節による表情は豊かで、一年を通して辺りは分かりやすく色を変える。その場所で、たった一人、一年間。四季神の力を人界に繋ぐ。そして季節がただ流れていくのをこの場所で、ひたすら観測し続けるのが十二支の仕事だ。
(この一年を長いととるか短いととるかはその者それぞれじゃが)
寅から言わせれば、寝て起きたら終わっている瞬きのような仕事である。
(現世の子らが目まぐるしく変わってゆくのを観察できぬのはつまらんが…)
「寅」
呼びかけに応じ顔を上げると、頭と肩に雪を積もらせた丑と目が合う。
珍しく笑みの消えた寅の顔は、牙が隠れて、誰もが顔を赤らめるであろう気品と、美しさを備えているが、そんなこと気にも留めず丑は続けた。
「あった」
「…ほう。ほうほう!あったか!苦労をかけたの。それ、そこに置いといておくれ」
「今履け、足を痛める」
「むぅ、譲らぬのぉ」
寅は小さく片頬を膨らませると、すぐに腹を抱えて笑い、そのまま何歩か後ろに下がって大樹に背をつけると、そのまますとんとその場に座った。
丑は寅の履物を持ったままその場に屈みこみ、冷えた寅の足先にふれる。
「…のう、丑よ。もうすぐ鐘が鳴る」
「そうだな」
「此度は実に面白かったのう、一年後誰かに語り聞かすのが楽しみじゃ」
寝物語を聞かせるような優しい声音でそういうと、寅はゆっくり目を閉じた。
「では行く」
瞼の向こう側で、丑の立ち上がる音がする。
寅は目を閉じたまま牙を見せて笑うと言った。
「のう、丑よ」
「なんだ」
「好い年をな」
「ああ」
言葉短くそういうと、雪を踏んでいく音がして、その足音も、いくら耳をそばだてようといずれ聞こえなくなっていった。
「ふふふ、まだまだよなぁ」
独り。思い出し笑いを浮かべながら呟く。
しばらく肩を揺らして笑っていると、待っていたそれが、どこからともなく、荘厳な音を、この箱庭全体に、何度も、何度も、鳴り響かせた。
鼓膜から頭の奥まで、心地よく響くその音を合図に寅はゆっくりと目を開ける。
「ふふふ、あけましておめでとう」
まだ温もりの残る足元を引き寄せ、指先でふれながら、伏目がちにそう言祝ぐと、品のよい微笑みをたたえ、誰に言うでもなくこう付け足した。
「好く励め」