Ⅱ.The magic small bottle
帝国の華と謳われた青年、ヴォルコフ伯爵が恋人の貴族令嬢に刺されて亡くなった。
十八歳になった皇女、ルーナ姫の婚約者に内定していた男だった。
「この度は残念だったね」
白々しくも妹を気遣う表情を作ってみせているアレクセイを、ルーナはちらりと一瞥した。すぐに手元の本に視線を戻す。
「あなたが、やったくせに」
虫の音のような小さな声で言い返すと、アレクセイは軽く右眉を持ち上げてルーナの向かいの席に座った。
お互いに十八にもなれば、いくら外に雪が積もろうと遊びに出ることもなくなった。二人が以前ほど頻繁に会わなくなったが、それでもアレクセイは気まぐれにルーナのもとを訪れるときがある。
今日はルーナが珍しく本宮殿の図書室にいるときに、こうして彼がやって来たのだ。昨年、ルーナとアレクセイの父である皇帝が皇太子に政権を譲って引退してから、皇太后となったアレクセイの母によるルーナへの嫌がらせも多少遠のいた。そのためルーナはこれまでよりも気軽に本宮殿を出入りできるようになっていた。
「私の婚約者が亡くなるのはこれで三回目。呪いの皇女、なんて噂が立ち始めているのだけれど?」
「面白い噂だね」
「こうなると進んで四人目の婚約者になりたい者はいないでしょうし、きっと私このまま独身だわ」
おそらくアレクセイはこうなることも予想し望んでいたのだろうけれど。ルーナが一生、誰のものにもならずにここにいればいい、と。
「じゃあルーナはあの伯爵と結婚したかったのか? 恋人が七人もいたんだぞ」
「したかったというわけではないけれど……妻や恋人が複数いる人なんてそこらへんにいるじゃない。陛下が結婚しろと仰るならそうするつもりだったわ。何も殺すことはなかったのに」
「僕は、殺していない。犯人は、ヴォルコフに恋人は君だけだと嘘を吐かれて騙され、恨みを募らせていたご令嬢だ」
「でも、唆して殺させたんでしょう」
アレクセイは何も言わなかった。ルーナは怒っていた。この殺人事件が起こらなければ、犯人の令嬢が罪人になることもなかったのに。
「一人目も二人目も、あなたが関わっていたんでしょう、アレクセイ」
「君の一人目の婚約者については、恋人と駆け落ちするのを手伝っただけだ。逃げる途中の船が難破したのは偶然で僕にも予想できなかった」
「でも二人目は……」
「あの大臣の息子は違法薬物の密輸を支援していたじゃないか! あんな奴とルーナが結婚していたかもしれないなんてぞっとする。捕縛したことに後悔はないよ」
「だとしても、慣例通りだと幽閉か国外追放のはず。死刑判決が出たのはどなたの誘導のおかげかしら」
「言い方が意地悪だなあ」
ルーナは読んでいた本を閉じ、苦笑するアレクセイを睨んだ。
灰色の瞳は相変わらず蛇のような狡猾さを秘めているけれど、ルーナにだけ向けられる柔和な眼差しが恐ろしさを薄めてくれていた。
十五の冬から、その柔らかさが自分以外の者には向けられていないことに、ルーナはどうしようもないやるせなさを抱えていた。せめてその目が自分じゃない何かを見てくれたら、苦しまずにすむのに。
「アレクは私をどうしたいの?」
「別にどうもしたくない。死ぬまでずっと離宮で穏やかに過ごして、僕のそばにいてくれればいいと思うよ」
「わがまま。……のに」
「え?」
あまりにも小さすぎる呟きに、アレクセイが眉をひそめた。ルーナはもう一度だけ、その言葉を口にした。
「アレクは私のそばにいてくれないのにって言ったのよ」
「……いるつもりだけど」
「私だけ離宮に縛り付けて、あなたは公爵家のお嬢様と結婚するのに?」
「不公平だと思うなら、ルーナも殺していいよ」
アレクセイの目は、できないだろうけどね、というからかいの色を含んでいた。実際その通りだった。ルーナには彼の婚約者に限らず、誰かを殺めることなど想像がつかない。
ルーナが背負うべきものを全てアレクセイが引き受けているおかげで、ルーナは陰謀渦巻く宮廷の隅っこで、ずるくて無垢で、けがれのない皇女として生きながらえている。
「……ごめんなさい、アレク」
「別に? 本当は彼女も排除してしまいたいけど、なかなかうまくいかなくてね。あの縁談をまとめたのは母上だから、隠居したとはいえどうしても母上が生きている限りは……いっそのこと母上ごと、」
「だめ」
突然ルーナに手首をきつくつかまれて、アレクセイはきょとんと目を丸くした。
十八歳の青年が、十歳前後の子どものような不思議そうな表情をしているのが、滑稽だ。
「何が?」
「皇太后さまを傷つけては、だめ」
「どうして。ルーナだっていなくなったほうがせいせいするだろうに」
「私がせいせいするとか、アレクの婚約を潰せるとか、それ以前に、アレクのお母様じゃないの。自分を愛してくれる人を、そんなことしたらだめ」
ルーナにとっては嫌な人でも、アレクセイにとってはそうとは限らない。部外者のルーナにはその愛情がどの程度歪んで間違っているものかは判断できないけれど、皇太后から息子への愛が存在しているのはルーナにもわかる。綺麗ごとだとしても、アレクセイに親殺しをさせたくはなかった。
アレクセイの丸まっていた目が眩しいものを見るように細められる。
「ルーナは優しすぎるね」
優しいだけのルーナでいられるのはアレクセイがいてくれるからなのだ。
「でも私、怒ってるんだから。次に私と婚約する人には、もっと穏便に接してちょうだい」
「次があればね」
*
それからほどなくして、ルーナが暮らす離宮に客人が滞在することになった。
シェヘラと名乗る魔女だった。南部地方に位置する小国の王族だという彼女は旅する先々で親交のある王家を訪ねては加護の術を施し、そのお礼に寝床を提供してもらうという自由気ままな一人旅を楽しんでいる女性だった。そしてルーナと同じ漆黒の髪が美しく、ルーナはどこか懐かしさと親しみを覚えた。
普段あまり他人と交流のないルーナは話し相手になってくれるシェヘラから旅の思い出の話を聞きながら、一時的に刺激的な日々を過ごした。
「私の髪色はシェヘラ様とよく似ていますけれど、私の母もシェヘラ様と同じ地域の出身なのでしょうか」
ある日、庭園を散歩しながらルーナが質問すると、彼女はルーナの背中に流した髪を眺めて微笑んだ。
「同じ……かもしれませんね。私の国やその周辺では黒髪は珍しくありませんから」
「そうなのですね。どんなところですか?」
「雪は一年中降りません。冬は暖かく夏は暑いです。料理もこちらのものとはかなり違いますね。辛い食べ物が多いです。ああでも、こちらの料理も辛いものは多いですよね」
「どちらのほうが辛いのですか?」
「比べられませんわ。どちらも辛いけれど、辛さの種類が違うのです。実際に食べていただかないことにはどうにも説明が難しいですけれども……」
母がどこから来たのか知らないルーナには、話を聞きながらそこが母の故郷かもしれないと想像することはとてもわくわくした。
「一度行ってみたいです」
「あら、嬉しい。来ていただけたら案内いたしますわ。私が旅から帰っていれば、ですが」
「世界中を旅できるのも羨ましいです。そういうことをしている皇女はいませんから……」
「魔女なので護衛を付けなくてもある程度自分の身を守ることができますからね。でも、私の国でも一人でこんな好き勝手しているのは私くらいです」
変わり者の王女だなんて言われています、とシェヘラは肩をすくめた。変わり者でも、ルーナにできないことをしているシェヘラは特別に格好よく見える。
「いいなあ……」
「あなたは良くも悪くも、この場に囚われていますものね」
「え?」
ふと隣を見ると、シェヘラの視線がルーナの頭の先を向いている。振り向けば、庭園の入り口にアレクセイの姿があった。ルーナとシェヘラがその場で礼をすると、邪魔をしてはいけないと思ったのか彼も礼を返してその場から去っていく。
「兄とはお会いになりました?」
「ええ、アレクセイ様ともご挨拶させていただきましたわ。陛下が右腕として信頼していらっしゃる、とても優秀な方のようですね」
アレクセイは新皇帝の弟として、政治に欠かせない存在となりつつある。ルーナが子どもの頃と変わらずに離宮でぼんやりと過ごしているうちに。
アレクセイのいなくなった場所を見つめ続けていると、隣でシェヘラが歌うようにささやいた。
「アレクセイ様は蔦のような皇弟殿下。感情はときに魔術よりも強いものです。執着のようなお気持ちでルーナ様をどこにも行けないように縛り付けておられる」
ささやきながら、シェヘラの表情が悲し気なものに変わった。
「アレクセイ様ご自身も、ご自分の作り出した蔦で縛られていらっしゃる。人はその気になれば多くの蔦から自由になれるのに」
「その気になれば、自由になれる……」
「ええ、ルーナ様もそうですよ」
意味はよくわからなかった。その気になったってルーナはいつまでも自由になれる気がしない。アレクセイだってそうだ。この国の宮廷で生きるしかない皇族。彼がそうである限り、そして彼がルーナを離してくれない限り、ルーナも宮廷の隅に生きるしかないのだ。
*
シェヘラはそれから数週間滞在し、また旅に出るため宮殿を去ることになった。
離宮を出る別れ際、ルーナはシェヘラに誘われた。
「一緒に行きますか? ルーナ様お一人くらいなら、私の魔術で守れますし安全に旅ができますよ」
魅力的な誘いではあったけれど、あまりにも突然で、ルーナは慌てて首を横に振った。
「いくら離宮に住んでいる忘れ去られたような皇女でも、さすがに簡単に旅に出ることはできません。残念だけれど……」
「いなくなってしまえば、案外本当に忘れられていくものです。そうすればあなたは自由になれる」
自由って、何からだろうか。皇族という立場から? それはそうかもしれない。
だけど、彼は。アレクセイは。ルーナがいなくなったとき、彼が自分を忘れてくれるのか、探し出して再びこの場に引き戻すのか、ルーナには想像がつかない。けれど、どちらにしてもアレクセイ自身がどこにも行けないのは同じなのだと思った。
だからルーナはもう一度、静かに首を横に振った。
「申し訳ありません。私はシェヘラ様と一緒には行けません」
「アレクセイ様の蔦に絡まったまま、生き続けるのですか?」
「……確かにあの方は私にとって蔦です。けれど、同時に私と共にいてくれる陽だまりでもありますから」
何人もいる兄弟姉妹の中で、わざわざ離宮に足を運んで遊びに来てくれたのはアレクセイだけだった。母を失ったルーナのそばにいてくれたのも、アレクセイだけだった。
束縛に対する苦しさと天秤にかけてみたら、その温かみはわずかに重く、捨てきれない。
ルーナを忘れないでいてくれたのも、ルーナが消えてしまわないように守ってくれたのも彼なのだ。だからルーナは寂しくなかった。苦しくても幸せで、彼に恋焦がれていた。
「逃げてしまいたいと思うときもあるけれど、彼のそばにもいたいのです。どちらかで迷ったとき、私は後者を選びます。私だけ自由になって彼を置いて行くなんてできないから」
うわべだけの笑顔しか見せなかった皇女がいつになく柔らかく微笑みながら答えを出すのを、魔女は瞳を細めて見つめた。
そして、旅支度を終えたカバンをもう一度開け、小さなガラスの小瓶を取り出した。
「この離宮で楽しく過ごさせていただいたお礼にこれを」
手渡された小瓶の中で、透明の液体が揺れている。
「これは……?」
「窮屈な宮廷から解放される薬です。飲めば鳥になり、ここから飛び立ちどこへでも行ける。けれど完全に人ではなくなってしまい、一生を鳥として過ごさねばなりません」
「ですから今言ったように、私はそういう物は必要ないと……」
ですが、とシェヘラは小瓶を返そうとしてくるルーナを押しとどめて説明を続けた。
「飲んだ量が少量ならば、人間に戻れる場合があります。確率は……五分五分だったかしら。お一人でなくお二人で自由になりたいのなら、よく考えて上手にお使いくださいませ」
シェヘラはルーナの手に小瓶をしっかりと握らせて、離宮を出ていった。
*
「私、ここにいるのをやめることにしたの」
「それは僕の前からいなくなるということ?」
低く唸るようなアレクセイの声に、ルーナはひくりと肩を震わせた。彼を見上げると、灰色の目はそんなことは許さないと訴えていた。
離宮のバルコニーを、生ぬるい夜風がささやかに通り過ぎる。
夜にアレクセイが離宮まで来るのは、十五のあの冬の日以来だった。ルーナに呼び出された彼は明らかに戸惑っていたけれど、覚悟を決めたルーナは迷うことはなかった。
「アレクの前からはいなくならない。あなたも一緒にここを離れるの」
「ここから離れる? そんなことできるわけがない。僕も君も宮廷に縛られた皇族だ」
「でもできるのなら、そうしたい?」
アレクセイは黙り込んでルーナを見る。彼が無言になるときは、肯定を示していることを、ルーナは長年の付き合いからわかっていた。
「できないと思っても、やってみるのよ」
ルーナは手に握りしめていた小瓶の蓋を開け、アレクセイに止められる前に一気に煽った。アレクセイの腕を掴み引き寄せて、勢いのままに口づける。口内の液体をいくらか相手の喉へ流し込んだ。
何秒かかったかわからない。息苦しさにルーナが口を離すと、二人の唇の間から液体の雫が少量こぼれ落ちた。
口の中に残っているものを唾液とともに飲み込みながら、目の前であっけにとられているアレクセイの姿が徐々に変化していくのをルーナは確認した。
そうしているうちに、ルーナ自身も暖かい靄のようなものに包まれる感覚がして、人の形を失う。
アレクセイは月夜に映える白鳥に、ルーナは艶やかな羽毛の黒鳥になった。
バルコニーから飛び立ち、ルーナはまだ戸惑っているように見える白鳥を振り返って鳴いた。
早く来ないと置いていくわよ、と。
二羽は飛んだ。
城の敷地を出て、城下町を旋回し、さらにその先へ。
田舎街へ行き、国境を越えた。
その間に景色は夜明けを迎え、太陽が昇り、そしてまた沈んだ。それを何度か繰り返した。
晴れたら気持ちよく並んで羽を広げ、天気が悪くなれば雨をしのげる場所に降り立ち寄り添って休んだ。
ルーナもアレクセイもどこへ行きたいのかわからなかったけれど、とにかくどこか遠くへ向かおうとしていた。
ある日、海の上を飛んでいると、白鳥が突然コントロールを失って墜落した。
黒鳥のルーナが驚いて追いかけると、人の姿になったアレクセイが海面に浮かんでいた。
ルーナは彼を嘴で持ち上げようとしたけれど上手くいかず、結局近場に浮いていた木材をなんとか彼のもとに運ぶのが精一杯だった。
それでもアレクセイは嬉しそうにルーナに笑いかけた。
「ありがとう。助かったよ」
アレクセイは人に戻ったのに、自分はずっと鳥のままかもしれない。そう思うと不安になったけれど、それでもいいわとルーナは考え直した。彼ならルーナがどんな姿でもそばにいてくれるだろう。
幸いにもすぐ近くに沖が見つかり、アレクセイは海から上がることができた。そこからは一人と一羽の旅になった。
ルーナたちはどこかもわからない森の中を、木の実を口にしたりしながら進んでいった。城での暮らししか知らないふたりには不便なことも多かったけれど、その不便さもそこそこ楽しみながら、日々は過ぎた。
アレクセイは途中で出会った猟師に森を抜ける道とその先にある村の情報、それから少しの食料を分けてもらい、森を出た。
彼の後ろをのこのこと歩きながらついて行っていたルーナは突然、身体が重く感じてアレクセイの足元で羽をばたつかせた。
「ルーナ!?」
「きゃあ!」
引っ張られるような感覚にきつく閉じた目をおそるおそる開けると、ルーナは人の姿で地面に尻もちをついていた。
「アレク……」
「驚いた。立てる?」
手を差し出され、それを掴めば力強く引き寄せられる。
「……」
「……」
無言で見つめ合った二人は、どちらからともなくふっと頬を緩めた。
「僕たち、遠くまで来たね。連れ出してくれてありがとう」
「私こそ、無理やり鳥になる薬を飲ませてしまってごめんなさい。でも一緒に来てくれてありがとう」
「ルーナがいるところならどこへでも行くさ。どこに行きたい?」
「どこがいいかしら。誰も私たちを国へ連れ戻せないような遠くとか? ねえアレク。今頃宮廷はどうなってるでしょうね。私はともかくあなたまでいなくなってしまって」
「知ったことか。ルーナがいれば国なんかどうでもいいよ」
アレクセイが晴れ晴れしい笑顔で吐き捨てた。蛇のようだと言われた薄暗い笑みの欠片はそこにはもうない。ルーナは彼へ腕を伸ばし、思い切り抱きしめた。
二人は自由になった。