十七歳の春
「どうしたの? 浮かない顔をしてるわね」
十七歳の春。サクラさんは約束通り、桜の開花と共に公園に戻って来ました。そしてわたしも前と同じようにサクラさんの絵のモデルをやることになりました。
しかし、桜の下に立って最初に言われたのがこの言葉でした。
「そう……ですか?」
そんなにわたしは浮かない顔をしていたのでしょうか。サクラさんはベンチの隣にわたしを招き、座らせました。
「何か悩んでることがあるの?」
「……はい」
悩みは確かにありました。でもそれは、親や友人にはなかなか言い出せないことでもありました。
「親御さんとかに言えないことでも、わたしになら話せないかしら? どんな愚痴だって聞くわよ、吐き捨てちゃいなさいよ」
サクラさんはそう言ってくれました。わたしは、ポツポツと話し始めました。
その頃、わたしが付き合っていたのは歳上の男性でした。まだ高校生のわたしには、二十代とはいえ社会人の彼はとても大人に見えていました。
車に乗せてもらったり、一緒にお茶を飲んだり、初めてのキスをしたり。そういったことをしていた時はまだ良かったのですが、最近はやたらと自分の部屋に連れて行こうとしたり、ひどい時にはホテルに入ろうとしたりしていました。性的なことを期待しているのは明らかでした。
男性とそういう経験がないわたしには、少し怖いように思えてしまい、かと言ってあまり断り続けていると嫌われてしまうのではないかとも思い、ぐるぐると悩み続けているのでした。
そんなことをわたしはサクラさんに話し、サクラさんはそれを時折相槌を打ちながら聞いていました。
すっかり話してしまうと、サクラさんは言いました。
「ハルちゃんが後悔しないのなら、その人とそういう関係を結んでもいいのかもね」
後悔。このまま進んでしまって、本当に後悔しないのでしょうか。
「サクラさんは、後悔したんですか?」
「わたしは後悔したから、そんな話しか出来ないの。それでいいなら、聞いてくれる? わたしの後悔の話」
そうしてサクラさんは、自分の若い頃の話をしてくれたのでした。
「わたしが男の人とそういうことをしたのは、今のあなたより若い、まだ中学生の頃だったわ」
サクラさんは、淡々と話し始めました。
「相手はわたしより二十歳も歳上の人だった。その時は愛されていると思ってたわ。……その頃のわたしは今よりずっと若くて、ずっと愚かだったから」
その男性は、避妊ということを全くしなかったのだそうです。彼と関係を続けるうち、やはりと言うべきか、サクラさんは妊娠してしまいました。
「わたしの妊娠を知った途端、あの人は逃げ出したわ。後でわかったことだけど、あの人には他に奥さんと子供がいたのよ。わたしはただの遊び相手で、いつでも放り出せる存在だったの」
「ひどい……」
「そう、ひどい男だった。そんなこともわからずに、熱を上げてたのよ。残されたのはわたしと、お腹の子供だけ。……この子には罪はないからわたしは産みたいと思ったけれど、母子家庭だったわたしの家には、赤ちゃんを産み育てられるだけの余裕はなかったわ」
それでも、サクラさんは迷い続けたのだそうです。お腹がそれほど目立たなかったので周囲には上手く隠し通せていたそうですが、親に知られた時にはもう中絶も出来ない時期にまで来てしまっていました。
結局、サクラさんは子供を産むしかありませんでした。
「その子は……」
「もういないわ」
と、サクラさんは答えました。
「もう、わたしの元にはいないの」
それが何を意味するのか、その時のわたしに はわかりませんでした。どこかにもらわれて行ったのか、それとも育てられずに養護施設などに行くことになったのか、もしかして亡くなってしまったのか。サクラさんは、それには答えようとはしませんでした。
「……ねえ、ハルちゃん。経験から言うけど、ハルちゃんが真摯に自分の不安を訴えてもまだそういう行為をしようとするなら、そんな男はハルちゃんを大事にしてくれないわ。一緒にいてもいいことなんか何もない。それでいいのか、よく考えて付き合うことね」
サクラさんの言葉に、わたしは考え込みました。わたしは一体どうしたいのか。彼は信用出来る人なのか。
サクラさんは、わたしのいない桜の木をひたすら描いていました。そろそろ桜は散り始めていました。
翌日。
わたしは一人、公園のベンチに座っていました。空はどんよりと曇り、今にも雨が降って来そうでした。うつむいているわたしに、誰かが声をかけて来ました。
「こんなところで、何をしてるの?」
サクラさんでした。サクラさんの顔を見た途端、わたしの目からぽろぽろと涙がこぼれ出ました。サクラさんは、そっとわたしの隣に腰掛けました。
「……彼にふられました」
わたしは、言葉を絞り出しました。
「やらせてくれないなら、いらないって。せっかく女子高生と付き合ってるのにって」
彼は確かに下種な男でした。だけど、わたしが本気で好きになった人でもありました。
「しっかり泣いておきなさい」
サクラさんは、そっとわたしの頭を撫でてくれました。
「ちゃんと泣いて、思いを後に残さないようにね」
わたしはそのまま、その場で泣いていました。サクラさんは黙って、わたしの側に寄り添ってくれていました。いつの間にか降って来た雨の中、わたしはサクラさんが差し掛けてくれて傘の中で泣き続けていました。
その雨は、桜をほとんど散らしてしまいました。桜が散って、サクラさんはまた去って行きました。