始まりの春
わたしがサクラさんと最初に出会ったのは、高校に入学した春のことでした。
家の近くの公園は、桜の木が立ち並ぶちょっとした地域の憩いスポットです。小さい公園なので大掛かりな花見は出来ないけれど、桜を見ながらお弁当を食べる親子連れとかお年寄りとかはちょくちょく見かけます。
わたしもここの桜は好きでした。四月生まれのわたしの誕生日に合わせて咲いてくれているようで、毎年花を見る度に勝手に祝ってもらっているような気分になっていました。
その日も、わたしは桜の花を見に公園へ来ていました。蕾が膨らみ、薄いピンク色の花が少しずつ咲き始めている頃でした。わたしは木の下に立って、その光景を楽しんでいました。
「あ、そこのあなた! 桜の下の!」
不意に、誰かから声をかけられました。その時、その桜の下にいたのはわたしだけです。声の方を振り返って見ると、ベンチに一人の女の人が座っていました。
年齢は三十歳程、わたしの倍くらいです。活動的なショートカットの髪、春らしいパステルイエローのパーカー、スキニージーンズ。手にはスケッチブックと鉛筆を持っています。一瞬知っている顔にも見えましたが、よく見ると全く知らない人でした。
「……わたしですか?」
わたしは恐る恐る尋ねました。
「そう、あなた」
その人はうなずいて答えました。
もしこの人がこの桜をスケッチしているのなら、わたしが邪魔してしまったかも知れない。わたしはそう思いました。
「すみません、お邪魔でしたらどきます」
「いいえ、逆よ。桜とあなたを一緒にスケッチしたいから、よければしばらくモデルとしてそこにいてくれないかしら?」
「え……」
絵のモデルなんて、なったことはありません。でも、にこにこと微笑むその人に何となく興味がわいて、わたしはモデルになることを承諾しました。
モデルと言っても、特にポーズとかつけるわけではなく、ただ桜の下に立っているだけです。それでも意識してしまうとガチガチになってしまいます。意外と難しいなと思いながら、わたしはその人が鉛筆を走らせる音を聞いていました。
サクラって呼んで、とその人は言いました。
お礼代わりにもらったジュースを飲みながら、わたしはその人──サクラさんと話していました。サクラさんという名前は本名ではないようで、サクラさん自身はペンネームとかハンドルネームのようなものだと言っていました。
「サクラさんは、絵描きさんなんですか?」
「昔は目指してたこともあったけどね。今はただのアマチュア。でも絵を描いてる自分は、日常の自分とはちょっと違うモードになってるから、絵を描く時だけはそれ専用の名前にしてるの」
それはわかるような、よくわからないような説明でしたが、納得するような気にもなりました。
「旦那がね、転勤の多い仕事をしてるの。新しい土地に行く度に、季節ごとの景色をこうやってスケッチしてるのよ。子供がいない分、お気楽に、あちこちにね。でも、人を描いてみたいと思ったのはあなたが初めて。桜の下にいる姿が、とても絵になると思ったの。──ねえ、ハルちゃん」
わたしが春美と名乗ると、サクラさんはわたしを「ハルちゃん」と呼ぶようになりました。それは、何だかちょっとだけ特別な響きでわたしの耳に入って来ました。
「桜が散るまで、わたしはここで桜の花を描いているつもりよ。だから、あなたさえ良ければ、時々ここでモデルをやってくれないかしら? もちろん、お礼はするわよ」
気がつけば、わたしはサクラさんの絵のモデルになることを承諾していました。
それから桜が散り切るまで、サクラさんはこの公園で絵を描いていました。わたしは学校が休みの時に、何度かモデルとして桜の下に立ちました。
合間合間に、わたしはサクラさんと他愛もないおしゃべりをしていました。わたしは学校や家などで起こったちょっとした出来事や、友達の間で流行っているものなどを話し、サクラさんは今まで行った場所のことを話したり、絵の描き方を教えてくれたりしました。
花が散って、サクラさんはまた別の場所の絵を描く為に去って行きました。次の春にはまたここへ戻って来ることを約束して。