⑭ゆるっと彼シャツ
私は腰を抜かした。
これは大変有り得ないことである。
危機を感じた時に腰を抜かすなど、高確率で危機を現実のものとする愚行。……しかしままならない。身体が恐怖に屈したのだ。
「ソノさんっ?!」
上から扉が開く音と共に、ミヒャエルさんの声……階段を降り、駆け寄る足音。
私は上半身をそちらにむけて、みっともなくバタバタしながらミヒャエルさんににじり寄るかたちで助けを求めた。恐怖でままならない下半身を、放置するかのように。
その際私のサンダルは片方脱げていたが、裸足になってしまっていたと気付くのは、暫く後でのことになる程、必死だった。
「みみみみひゃえるさんっっ……!!」
「ソノさんっ! 怪我をっ!?」
ミヒャエルさんが私を軽々と横抱きに持ち上げる。その時の私には、もう遠慮や彼の腰の心配などしている余裕もなく、服の肩あたりにしがみついた。
「……どうしたのです? こんなに震えて……」
「なにか、いるんですっ……なにかがっ……」
「…………なにもいないようですが」
「いるんです! 見えないけれど!!」
「…………」
「信じてください!」
「…………」
「ミヒャエルさん?!」
「……はっ! あっ……ええ、わかりました! とりあえずここから離れましょうそうしましょう」
ミヒャエルさんはなにかを考えていたようだ。若干の早口でなにかを誤魔化すように、私を抱いたまま階段を登っていく。
これは……
心 当 た り が あ る に 違 い な い 。
きっと事故物件だったのだ。
建物から醸し出される怪しさは、きっとその余波……最早そうとしか思えない。
特に塔だけ離れた位置にある。……きっと事件現場なのだ。
だからこそ心当たりのあるミヒャエルさんは塔の部屋ではなく自室へと移動した……そう考えると辻褄が合う。
どうしよう、もう私はあそこで寝れる気がしない。
折角の自分の部屋なのに。
★★★ここから、ミヒャエル視点★★★
最初はただただ心配で抱き上げた私だったが、よくよく見るとソノさんは、とんでもない恰好をしていた。
足 が 出 て い る 。
思わずまじまじと見てしまい、話を半分も聞いていなかった。
ちょっとたくし上げれば、性別が確認できるが……なんだか隠してあげたい気分にも襲われる。自分のシャツを着ているのは今に始まったことではないが、一体なんだろう、この気持ちは。
とりあえず部屋に戻り、椅子に座ることにした。
怯えているソノさん(それがまた可愛い)に気付かれずに服を捲ることは可能なのに、何故か足を抱えている側の腕で押さえ付けている矛盾に困惑しながら。
「ソノさん、私の部屋ですよ」
その言葉にソノさんは、固く瞑っていた目を開け私の服を握っていた手を緩める。だが私はソノさんの頭を自身の肩にそっと埋めさせた。
「いいんですよ、落ち着くまでこうしていて」
そう言うと、私はソノさんを抱いたままゆっくりとソファに腰をおろし、頭を優しく撫でる。
そう……私はソノさんを、膝に抱いたまま頭をなでなでしたかったのだ。
もうそれ以外のことは吹っ飛んだのである。
何故ならソノさんがこんなにも気を許し、自ら身体を預けたのは、最初の夜以来ない。
その昼にも確かに横抱きを了承したが、餌を貰い慣れている半野良の猫に近いものを感じた。
そして、その感覚は常にあるのだ。
距離を縮めて囲い込みたいと思ってしまうのは、漠然と『どこかに行ってしまう』という不安があるからかもしれない……ふと、そんな風に思う。
(しかし、そんなソノさんがここまで怖がるなんて……)
つい数時間前に、激しい雷に対しても冷静な意見を述べていたソノさんが、腰を抜かしていた。一体何を見たかは知らないが。
「よっぽど怖かったんですねぇ……」
「……なんか出るなんて、聞いてません。 アレはなんなんですか……っ?」
「アレですか……ソノさんには、なにが見えました?」
「なにがって……見えてませんが、声がっ……」
「ああ、また震えて」
震えて涙目のソノさん。可愛い。
胸がキュンキュンするのが恋ならば、私は既に落ちているであろうこと請け合い。
可愛さにギュッと抱き締める。
……やっぱり性別はわからない。
「 寒さもあるのでしょう。 仕方ありません、少し移動しましょうね」
そう言って、ソノさんを寝室へ運んだ。
やましい気持ちはない。むしろ、今の方があると言っていい。
俄然、足が見えるのが気に食わないのだ。
慈愛をもって愛でているのに、チラチラとそちらに目がいってしまうのはよろしくない。
布団を被せ、上からぽんぽんしたいのだ。
★★★再び、ソノ視点★★★
何故か寝室へ運ばれた。
すぐさま布団を掛けられた私は、今何故か上からぽんぽんされている。
「落ち着きましたか?」
……確かに恐怖はなくなった。
そして代わりに今迄の自分の行動が走馬燈の如く脳内を駆け抜け、一気に羞恥心が沸きあがった。
(──はあああぁぁぁぁぁぁっ!!)
このソノ・ヒグラシ、こんな醜態を未だかつて他人に見せたことなどない。
「みっミヒャエルさんっ! わたしっ」
「おっと」
ミヒャエルさんが飛び起きる私の肩を掴む。私はここがベッドであることに、一瞬あらぬ不安を過ぎらせたが……ミヒャエルさんはそのまま私をゆっくりベッドへと押し戻し、布団を掛け直した。
「肩が冷えてしまいますからね」
そして再びはじまるぽんぽん。
……何故今私は、寝かしつけ的な行為をされているのだろうか。
いや、されるぐらい狼狽えていたからだろうか?確かに狼狽えてはいた。というか今も狼狽えてはいる。違う意味で。
「……もうあそこでは眠りたくないでしょう?」
静かにミヒャエルさんは言い、ニコリと笑った。
「 早く新しい部屋を作ってしまいましょうね。 それまではここで眠るといいですよ」
「え、でもミヒャエルさんは……」
「今夜はついてて差し上げましょう。 明日からは、私があちらで眠っても構いませんし」
「それはいけません!」
──だが、確かに怖い。
できれば一人で戻りたくはない。
今だって思い出すと恐怖が蘇る。『ついててくれる』というのが有難い。
「……じゃあ暫くここで一緒に眠ります? 幸いベッドは広いですから……」
「いいんですか?!」
「ええ、勿論。 話の続きは明日にしましょう。 手を握っていてあげますよ」
「ありがとうございます……」
私はミヒャエルさんの手の温もりに、一人ではないことを実感し、ゆっくりと眠ることができた。
──後々考えてみると、私はこの時まだ恐怖に囚われており、全く冷静でなかったのである。